まほろばblog

ちひろママ!おべんとう

5月 21st, 2013

まほろば本店で働いている後藤ちひろさん。

ワークショップやセミナーを主催したり、マッサージ施術などもするマルチママ。

札幌エリア版「CouLeurクルール」に、彼女のアドバイザー記事が載りました。

「春の運動会お弁当」特集。時短、簡単、しかも美味しい弁当の作り方ですよ。

 

ごとう弁当1

「韓国人の本質」出版記念!

5月 8th, 2013

IMG_3791

 

さる3日(金)、東京銀座で韓国在住の後藤吉助翁を祝う素晴らしい式典が開かれました。

向いは、銀座三越、服部時計店、鳩居堂に囲まれたサッポロビル。

1月には88歳の米寿記念式、そして今回、3年前に設立した㈱極味創業と出版記念。

日韓友好海苔のご縁からわずか3年間ですが、親子の契りを交したほどの仲になりました。

 

韓国人の本質 本

 

その後藤翁、書かれた原稿の2/3を削って、「死ぬ前に伝えておきたい『韓国人の本質』」との

タイトルを付け、ご自分の経歴や会社のことをカットして、本筋の韓国への提言を、

命がけで書かれ、出版しました。

韓国人の本質 親子写真

 

ご自分の韓国(奥様が在日二世)の親族のことから赤裸々に切り出し、

そこに韓国人の本質を露わにした訴えの内容に驚きました。

韓国をこよなく愛するがゆえに、自分のイノチと刺し違えて、

韓国が国際的に通じる人間性を養うことを力説しています。

ことに、何事にも「ケンチャナヨ」つまり「大丈夫、大丈夫!」と言って、

物事をなおざりにしたり、ごまかすという国民性。

「その言葉を封印しなさい!」と、日本人が決して言えない事をあえて言ったのです。

 

SONY DSC(真中は札幌の近藤ブライダル社長、左はプレマの岸記者)

 

日本国内で、韓国人の悪口・批判は出来ます。

しかし、現地に住んで、それはなかなか出来るものではありません。

いつどんな目に遭うかも知れません。

それが出来るのは、正しいことを言っているという信念と

韓国と日本への深き愛国心から来ています。

まさに無私の精神で訴えている憂国の士なのです。

韓国は、隣国の兄弟です。

本当に、当日会場にいらした皆様は感動されました。

私とは年が離れていますが、本当の知己を得て、感慨深いものがあります。

このご縁に感謝です。

まほろば関係の近藤、岸、菅原、本木、山口、山司、田中さんなども参加され、歓びを共有しました。

「韓国人の本質」はまほろばでも取り扱っております。(定価:¥1400)

是非、ご一読されてください。

 

SONY DSC

吉助とーうーさーんー!!!

2月 19th, 2013

 

先日11日の建国記念日に、あの「日韓友好海苔」の後藤吉助翁の

八十八米寿のお祝いの式が、銀座服部時計・鳩居堂前のサッポロビルで行われた。

参加予定が、あいにくの急用で叶わず、札幌の近藤社長にメッセージを託しました。

その一文を載せ、今もめている日韓関係を少しでも改善出来ますよう民間で努力して参りましょう。

春には、「倭詩」と同じ出版社IDPから、翁の本が出ます、それも自作自演のCD入りですよ。

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後藤 吉助 さま

 

米寿、八十八歳のお祝い、おめでとうございます。

折角、参加できる予定だったのが、よんどころない用事でお祝いに駆けつけられず、残念でなりません。

「江差追分」を唄って、北海道を思い出して頂こうと思っていたのに、とても悔しい気持ちです。

 でも、さすが男、後藤さんです。

米寿記念を、銀座のど真ん中で開くとは・・・・。

日本の中心で、「私は八十八になった後藤吉助なるぞー!!」と宣言したようなものですね。

誰もが、成し得ないことで、日韓に橋をかける人は、心意気が違います。

 

 後藤さんとのお付き合いは、札幌のブライダル愛の社長・近藤さんから韓国海苔のご紹介を受けてからで、

5年ほど前のことでしょうか。

お会いしたその日から、何か懐かしい親父のような感じを受け、

心の中で、義理の親子の契りを結んだ訳です。

 

森下自然医学の海外特別会員として、毎月送られて来る月刊誌に目を通うされ、

連載されている私の『倭詩/やまとうた』を読まれた感想を、

お電話で必ず語ってくださいます。

その義理堅さには頭が下がります。

そして、いつぞやかお招きに預かって、

隅田川の屋形船で江戸情緒をともに味わった印象は、今もって忘れられません。

 

道東阿寒の寒空のもとで過ごした開拓団で苦労された少年時代。

逃げて来た朝鮮の強制労働者を匿って、官警の手から逃がしてやったご両親の姿が、

瞼に焼き付いたのです。

「神仏の前に、人は平等で差別なし」という無言で説く正義の教えを、心に刻まれたのでした。

それが今日、韓国に住まわれて両国友好の橋に自らがなろうとした種火でした。

吉助少年の胸にご両親が灯されたのです。

 

先日、電話越しに、自ら作詞作曲して唄う『母を慕い、讃える歌』に、

不覚にも涙を流してしまいました。

私は、中学生で母を亡くしましたが、未だに母への想いは断ち切れず、

我が家内の子供を案ずるその心が二重写しで迫って来て、

母の有難さが胸に込み上げて来て泣いてしまいました。

八十八になっても、なおも母の恩、母の愛を思える至純でやさしいお心に感銘したのです。

 

1、   聖なるいのち授かりぬ 手塩にかけて育みつ

 両手を合わせ初詣で 行く末祈る母心

2、   清く正しくたくましく 泣いたら負けよ人生は

 骨身削って汗流せ 人の鏡が母心

3、   聞こえて来るよ 幼な時に 歌ってくれた子守唄

 優しい声が今もなお 瞼に浮かぶ母心

4、   海より深く山よりも 高く尊い親の恩

 導きたりし人の道 ああ・・讃えなん母心

      お母さん・・・・・・。

 

名詞名曲ですね。だれか有名演歌歌手が歌ってくれないでしょうか。

世を清める一服の清涼剤となるでしょう。

 

飛行機の中でも、日韓友好のハッピを着て、人類みな兄弟なることを訴えています。

そして首からはご両親の写真をぶら下げながら、

片時も親を忘れまいとする姿は尊くあります。

これが、言葉が違えども、肌が異なるも、親子の愛は変わらず、

親思いの心こそ、世界平和の絆、人類友好の礎なのです。

 それを、実践している後藤翁こそ、われわれの先達であり、鑑であり、目指す人なのです。

 

ありがとうございます、後藤さん。

感謝します。後藤さん。

あなたがいらっしゃることで、どんなにか生きることに勇気付けられ、

世の中の誠を知り、人の世に希望を抱くことが出来たでしょうか。

 

ありがとうございます。

これからも、そのお丈夫な体で、卆寿、白寿、天寿(120歳)・・・

まだまだ、まだまだまだ・・・生きて、私たちの灯台となってください。

煌々と照らして、世を導いてください。

 がんばれ!!!吉助とーうーさーんー!!!!!!

 

                     

              札幌 株式会社 まほろば

                     宮下 周平 記す

 2013.2.11.

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「業即信仰」

10月 27th, 2012

  米倉 満 (理容「米倉」社長)

           『致知』2012年11月号
                 致知随想より
────────────────────────────────

私の祖父・米倉近が弱冠二十二歳で
理容「米倉」を開業したのは大正七年のことでした。

後に近の義父となる後藤米吉は、
当時西洋理髪の本場といわれた英国で理容技術を習得し、
「三笠館」という理髪店を開業した人物でした。

その義父と同じ理容の道を志し、日本橋に店を構える
「篠原理髪店」に祖父が弟子入りしたのは、年の頃十三歳。
両親と別れての暮らしはさぞ寂しかったことでしょう。

しかし、一人前になるまで家には戻らないと修業に専念し、
二十一歳になるまでの八年間一度も
親と顔を合わせることはありませんでした。

独立開業する際には、修業中に祖父の腕を見込んだ
名士たちの後押しもあって、
築地の精養軒ホテルの一角という一等地で開業。

関東大震災で店が焼失したことで、
銀座の中央通に移りましたが、
「米倉」は一流のお客様を相手にして、
満足させる銀座の床屋だという矜持が祖父の力の源でした。

実際、店には日本画家の伊東深水氏、作曲家の山田耕筰(こうさく)氏や、
陶芸家の川喜田半泥子(かわきた・はんでいし)氏をはじめ、
個性溢れる一流のお客様が顔を連ねる理容店として賑わい、
今日に至るまで多くの名士の方に親しまれてきました。

その中には松下電器(現パナソニック)の
創業者・松下幸之助氏もいらっしゃいましたが、
かつて松下氏はほとんど容貌を気にされず、
頭髪もぞんざいだったそうです。

ある時、そんな松下氏と初めてお会いする機会があった祖父は、
即座に

「あなたはあなたの顔を粗末にしているが
  これは商品を汚くしているのと同じだ。

 会社を代表するあなたがこんなことでは会社の商品も売れません。
 散髪のためだけに時間をつくるというような心掛けがなければ、
 とても大を成さない」

と言い放ったといいますから大したものです。

もちろん祖父の言葉に悪意は微塵もなく、
むしろ自らの仕事に対する誇りから生まれたものといえるでしょう。

仕事に打ち込む中でお客様を満足させたいという
姿勢を貫いてきたからこそ、経営の神様に対しても
思いの丈をぶつけることができたのだと思います。

「誠にもっとも千万で、至言なるかな」

と口にした松下氏は、祖父の言葉に意気を感じられたのでしょう。
祖父との出会いを機に身だしなみにも気を使われるようになり、
「米倉」をご贔屓くださるようになったのです。

私が理容師としてまだ駆け出しの頃、
祖父の鞄持ちとして熊本県の阿蘇まで赴いたことがありました。

現地では松下電器の代理店を集めた年に一度の大会が開催されており、
祖父はそこに招かれたのでした。

宿泊先でのことです。

二人きりになった晩、祖父は堰を切ったように
自らの歩みを語り始めました。

既に晩年を迎えていた祖父は、
特別に私に伝えたいという思いがあったのでしょう。
その中にはこんな話がありました。

祖父の母は大変信仰心の厚い方で、

「おまえの守り本尊は観音様であるから、
 毎月十八日はお参りに行きなさい」

と言われた祖父は母の言いつけをよく守っていました。
ところがある月の十八日の朝、祖父は寝坊をしてしまい、
慌ててお参りを済ませるも開店時間に間に合わないことがありました。

ちょうどその時分に店を訪れた松竹の大谷竹次郎氏は
祖父の不在を知り、後日改めて来店された際、
開口一番こう聞かれました。

「君は何か自信をなくしたことでもあるのか」と。

祖父が驚いて聞き直すと、大谷氏は
観音様にお参りに行くことそれ自体はよいが、
開店中に主人が留守とはどういうことか。

お客様に不自由をさせて、ご利益などあるだろうかと懇々と諭され、
最後に

「客商売は、客が店の信者なのだ」

とおっしゃったそうです。

祖父は我が身を恥じたといいます。
お客様を差し置いて観音様をいくら拝んでも、

ご利益などあろうものかと。そして理容業という生業に打ち込むことが、
そのまま信仰になりうるのだという確信を得たのでした。

業即信仰。

祖父はこの時の教訓をこの四文字に込めたのです。

このことに関連して、世の中にある無数の業には、
それ自体に良し悪しがあるわけではなく、
その業を行う者の人格のいかんによって良し悪しが決まる。

それゆえに理容師は、理容の技術を磨き高めることはもちろん、
教養を身につけ、お客様と誠実に相対する中で、
理容師的人格を高めることの大切さも訓えられました。

また祖父は、日頃から

「毎日が開業日」

と口癖のように言っていたことを思い出します。
店というのは古くなると惰性に流れだらしなくなるから、
毎日が開業日のように新鮮な気持ちで場を清めれば、
自然と仕事に励む気分が湧き上がってくるというのです。

理容「米倉」は四年前に創業九十周年を迎え、
その間祖父の業に対する信仰心の如き思いは
父、叔父を経て四代目である私へと受け継がれてきました。

業を高めることが、そのまま自己を高めることになる――。

これが理容師として、四十年間歩み続けてきた私の実感です。

業即信仰という祖父の祈るような仕事に対する姿勢を胸に、
理容師として生涯を全うできるよう
これからも一途に歩み続けたいと思います。

「危機管理」

9月 16th, 2011

  佐々淳行 

(初代内閣官房内閣安全保障室長)──────────────────────────────────

 (政府は)やはり安全保障会議設置法を早急に適用すべきです。
 これによって各省庁が縦割りでバラバラにやっていた取り組みが
 内閣に集中できるんですよ。

 僕は内閣安全保障室長在任中の一九八六年十一月に起きた
 大島三原山の噴火でこの法律を使ったんです。

 噴火の後、最初は国土庁に十九省庁を集めて
災害対策会議が始まりました。

災害の名称をどうするかとか、
日付を元号にするか西暦にするかとか、
そんな会議を延々とやっているんです。

地元の町に溶岩が迫る様子をNHKが生放送していて、
一万三千人が大爆発で死亡するかもしれないという時にですよ。

そこで僕は内閣官房副長官の藤森昭一さんと一緒に
クーデターを起こしました。

藤森さんが中曾根康弘さんに
「伴走いたしましょう。総理」と進言したんです。
伴走というのは国土庁の災害対策会議とは別に
安全保障会議設置法による安全保障会議を
立ち上げるという意味です。

国土庁ではとても手に負えない事態に備えて、
後藤田正晴官房長官の総指揮で
別の動きを始めることを決めたわけですね。

ところが、後藤田さんは
「安保会議設置法もまだできたばかりで
 難しい局面があるかもしれないけれども、
 佐々君、君やれ」と。

中曾根さんも
「全責任を俺が負うから、おまえ指揮しろ」と言うんですよ。

僕自身には何の権限もありませんが、
総理の命令ということであればやむを得ません。
指揮を執らせていただきました。

すぐに都知事の鈴木俊一さんに
海上自衛隊出動要請を促しました。
さらに島民を避難させるのに必要な
民間のフェリーなども含め約四十隻を編成し、
南極に行く途中の観測船「しらせ」まで
現地に向かわせたんです。

一万二千トンの「しらせ」が救援に来るわけでしょう。
島民は、その姿を見ただけで安心しましてね。

国土庁の災害対策会議が終わった午後十一時四十五分頃、
僕たちはすでに島民に避難指示を出していました。
それで午前四時までには全島民一万人と観光客三千人を
全員船に乗せました。

その頃には東京の公立学校などを確保し
毛布や握り飯の準備が進められていた。
これが危機管理というものです。

       『致知』2011年6月号
        佐々淳行氏と渡部昇一氏の対談記事より