まほろばblog

Archive for the ‘歴史’ Category

林謙三先生の幻書、復刻

土曜日, 5月 13th, 2017

山寺 本

 

先日、「林謙三『隋唐燕楽調研究』とその周辺」

と題された共編訳本が、著者の山寺三知さんから贈られて来た。

共に古琴研究家である奥様の美紀子さんとは夫唱婦随、

公私共に同じ道を歩まれる。

 

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彫刻家であり、東洋古楽研究家でもある故林謙三先生。

私は、若き日に奈良のご自宅を訪問したのだった。

当時、正倉院の古楽器と楽譜を復元され、

「天平の音楽」を音盤にも刻まれた。

そのオリエンタルで古雅な調べに、胸がときめいたものだった。

あれから50年もの歳月が過ぎ去ってしまった。

 

林謙三

 

その忘れかけていた記憶を、

山寺さんが掘り起こしてくださったのだ。

戦後、大陸に生きる最後の文人としての郭沫若の名は、

私の耳にも入っていた。

何と、この林先生が書かれた論文を、朋友

郭沫若が翻訳して大陸で上梓したのだった。

だが、あいにく戦争で原本が失われてしまっていたのだ。

それを山寺さんが、半世紀以上埋もれた名本を蘇らせたのだった。

郭ます若

 

林先生の多才多識に舌を巻き、

郭大人にはその造詣の深さに驚愕し、

そして、山寺さんの学識の豊かさと旺盛な探求心に感動するものです。

この専門書、なかなか我々が読みこなす事は難しいが。

しかし、名も知れぬところに、歴史上、

着実に学術の道が継承されていることを讃嘆したい。

おめでとうございます。

お疲れさまでした。

 

 

鳥取慕情Ⅱ

金曜日, 5月 5th, 2017

鳥取慕情 2

 

とある日、鳥取の郷土史研究家の中嶋二三男さんという方から、メールを頂いた。

何でも「北海道開拓に出た旧鳥取藩士の遺した落書き」という遺構を取り上げたもので、

そこに何年か前に書いた祖母の「鳥取慕情」を一部掲載させてほしい、というものだった。

それが鳥取と釧路の友好関係に繋がるよう、と祈りつつ快諾させてもらった。

その定本が先日送られて来たこの「郷土史の資料を読む会」が編集された

野口英世から出雲に関わる七稿に亘る力作であった。

 

鳥取慕情 3

 

改めて、移住開拓当時の様子を読み直したが、そこには辛苦というには、

凄まじい毎日があったことが想像してもし尽くされないものがあった。

先日、小泉武夫先生の会のあと、釧路の魚谷さんが語っておられたが、

当時の開拓者が、余りの辛さに多くの家族が鳥取に帰る者も多かったと聞く。

そこで、辛抱に辛抱を重ねたものが、今の釧路を作ったと語っておられたが、

北海道の各地各人が、同じような辛い日々を送られたに違いない。

 

鳥取慕情 1

 

 

殊に、道北から道東にかけての厳冬と戦った人々には、敬意を表するものだ。

吾がまほろばの大橋店長は士別出身で富山から、

島田編集長は利尻島出身で石川から出向いて来たと言う。

あの厳北や孤島で不自由極まりない土地で、どのような日々を過ごされたか、

皆一言半言では語り尽くせないものがある。

かかるご先祖の労苦あって、今日の我々がある事を忘れてはならない。

 

http://www.mahoroba-jp.net/blog/2009/03/post_459.html

「新しき扉、古き回廊」

http://www.mahoroba-jp.net/about_mahoroba/tayori/oriorino/oriorino200903tottori.htm

「鳥取慕情」

オスマン・ハリダご夫婦、トルファンから!!!

水曜日, 6月 1st, 2016

神山夫婦

 

先日の森下自然医学の「燦々会」で、

初めてお会いすることが出来たトルファン出身で、

日本に帰化した神山オスマン・ハリダご夫妻。

「シルクロード株式会社」を興されたように、

中国新疆ウイグル自治区に位置するトルファンは、

まるで孫悟空や玄奘三蔵の古代の夢の世界。

お声を聴いただけで、懐かしさに胸キューンとします。

きっと、自分も彼の地の砂漠で、生活した日々があったのでしょう。

そこで採れるブドウの数々。

そして干しレーズンの豊かさと美味しさ。

神山(天山山脈のこと)さんの西域の農園で造られたレーズンを直輸入して、

日本国内で販売されています。

 

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ご主人は、今貿易コンサルタントの仕事で、今大忙しとか。

ウイグルでの輸出入業の同胞が、彼を頼って来日される。

とてもたくましく、埼玉に大きい一軒家を購入するまでに。

奥様は、神秘的な西域美人で、動きがしなやか、お声も麗しい。

トルファンと言うぐらい、トルコとの人と物の交流が盛んであった。

どことなく東西混淆が異国情緒を醸しているのかもしれない。

日本文化の原型が、唐などを通って中東・西域からやって来た。

奈良当時の人々の驚きが、いかに大きかったか。

古代染めの吉岡幸雄氏が語っていたが、

「染めは、奈良・平安がピークで、当時の再現は今はできない」ほど、

技術も素材も群を抜いて素晴らしかったのだ。

日本人の原質を訪ねる上でも、もう一度、

西域文化・文物・食物を学び直す必要があるのではなかろうか。

神山さんとのお付き合いの中で、

普段にはない不思議な感覚と体験を得られた。

一般的な国内外の方々とは一味も二味も違う

彼らの生き方や暮らし方を学びたいと切に思う。

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(奥様手作りの「ラグ麺」。美味しさこの上ない。マルコポーロが、これを伝えてパスタになったという。動画が再現できないのが残念。)

金容雲先生、講演会

水曜日, 6月 1st, 2016

金容雲先生 4

先日、韓国在住の「日韓友好海苔」の後藤吉助翁から、

札幌で金容雲漢陽大学名誉教授の講演会が、

韓国領事館50周年記念であるから行きましょう、

というお誘いがあり、昨日、ロイトンホテルに駆け参じた。

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金先生は、数学者にして歴史学者、文明評論家としての顔を持たれる。

先生とは後藤翁と共に、ソウルと東京でお会いして、親交を頂いている。

韓国のバートランド・ラッセル(Bertrand Russell)と呼ばれ、

当日「原型史觀でみる韓日文化の比較と題して論じられ、

きわめて示唆に富む溜飲の下がる思いに、時の過ぎるのを忘れた。

日本=百済説のご本に始まる一連の日韓文明論は、自国優越説に傾くことなく、

数学者としての冷静沈着な思考論理は、静平な説得性に富み、

ことに東京で生まれ育ったバイリンガルという利点は、

古代語の文献を両国語で考察出来る強みから、

専門学者でも到達出来えなかった歴史解読に至り、

日本人である私をして納得せざるを得ない必然性に富んでいる。

 

金容雲先生 2

 

訪韓して、胸襟を開き、ともに青年時に奈良に惹かれたこと、

数学者岡潔先生を尊敬している点など、多々共感するを喜び合い、

日韓民族の違いを超え、年齢を超えての友情を温められた。

まほろばの語源とアリランの意味の共通性を指摘されたことがあった。

まほろばが、新たなる日韓友好の一助となれば、と願うばかりである。

かつて、共に力を合わせて国造りした兄弟である。

倭詩Ⅱ』に掲載される

アリランと倭し美し」と「故郷忘じ難く、同胞睦み易し」の

両編を是非とも読まれて戴きたい。

日韓友好の鍵が書かれている。

先生曰く「最も近くして、最も遠い国、日本と韓国」。

反日・反韓を助長することなく、親日・親韓の機会を増し、

友好の道筋の一条の光明を見出して行きたいものである。

先生のまたの来日を期し、再会を楽しみにしています。

益々お元気でご活躍のことを。

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右から後藤吉助翁、金容雲先生、韓恵進大韓民国総領事。

 

 

 

「富士山徐福フォーラム国際大会」

火曜日, 5月 31st, 2016

三国会議

 

先回、お知らせした「富士山徐福フォーラム国際大会」。

いよいよ10月、山梨に於いて中国、韓国、日本の三国研究総会があります。

2020年に、世界無形文化財に指定される運びとか。

その前段階でもあるこの大会を、盛り上げて是非とも成功させたと思います。

当日、私も宮下家子孫として発表する予定です。

是非とも、ご参加をほどを。

(下の記事は、日本代表でもある地元・土橋寿氏の記事です)

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明治維新志士の書

水曜日, 4月 20th, 2016

小原道城先生 7

 

先日、家内と所用で中央の公官庁に出かけた。

すぐ近くのビルに「書に探る鼓動の幕末維新展」の展示会の掲示があった。

 

小原道城先生 5(古典の中に前衛ともいえる創意に溢れる「副島密」の横額)

 

面白いとばかり、立ち寄ると、あいにく休館日。

横のドアを押すと、中で書道教室と展示室が連なっていた。

「どうぞ、お入りください。今日は休館日なので、お金がとれません。

でも、ご覧ください」と、ご親切に、ご案内戴いた。

その方が、主催者で書家の小原道城氏であった。

あの明治維新に生きた志士たち25名の43点が一堂に並ぶ。

勝海舟、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などなどの名筆が、

この北海道にあるとは、驚きである。

 

小原道城先生 6

(伊藤博文の信書)

 

当時の志士というより、一般の若者の教養の高さは、その筆致に伺えるだろう。

ことに、事を成したこの博文は、甲論乙駁、色々言われるが、それ以前に、

人間としての格というか、学識や胆力や体験の深さが並ではない。

この境に至れずして、なかなか物言いはできない気迫を感じた。

惑いのない、迷いのない、筆致の址に、命がけの日常が伺える。

小原道城先生 3

 

この富岡鉄斎の軸。

万巻の書、万里の旅をせよ、といった鉄斎の内に蔵する学識は半端ではない。

無尽蔵の知恵蔵から溢れ出る、画と文は百年を超えても色あせない。

京都の維新の激動の地にて活躍し、それを実写した鉄斎は、

晩年益々冴えわたった、というから面白い。

それは若年の豊穣なる蓄えがあったからだ。

若きうちに、学びたまえ!と。

小原道城先生 4

 

贋作が多いとされる西郷隆盛の豪快な書。

山岡鉄舟にも似る筆使い。

豪壮の気風に、惑いのない終始。

当時、漢文の素養をみな一応に身に着けて背骨バックボーンを形成した。

戦後、その教育を失し、海月なす漂える国となってしまった。

今一度、行きて戻らぬ気概を学ぶべきである。

 

小原道城先生 2

 

榎本武揚の晩年の書である。

隣に、若書きの書があるが、明らかに目覚ましい境地となっている。

若き日は、月並みの志士のそれであるが、

老齢になって一つ一つ味わい深い文字が互いに呼応している。

若くして、函館五稜郭にて惨敗し、その後救われて明治政府の高官に。

その波乱万丈の人生の裏表が、見事に浮き出ている。

小原館長も激賞している傑作の逸品である。

なかなか味わい深い。

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門外漢の家内と談笑する小原館長。

全く筆も持たぬ彼女であるが故に、ズケズケと物言う。

本質をいうので、先生も話に乗り、色々教えてくださった。

学生の頃から、書の博物館設立の夢を以て、

何と個人の所蔵が4000点にまで及ぶという。

これが北海道でなされているというから驚異的な事業である。

独りの志、国を動かす。

まさに、志士に通じる小原先生の大志である。

 

 

あさきゆめみし・・・・・・

金曜日, 4月 1st, 2016

あさきゆめみし

 

30日の道新に漫画家・大和和紀さんが特集されていた。

「あさきゆめみし」や「ハイカラさんが・・・」などの題名は聞いたことがあるが、

読んだこともなく、お名前は失礼ながら知らなかった。

事務所の女性陣は、「懐かしい!」と叫んだ。

札幌出身で、50年の画業。

すごい人がいたもんだ、と感心。(無知ですみません)

その彼女の最初のころのエピソードが面白い。

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・・・・・・・・・・18歳で漫画家になった大和和紀は、その数年前、

高校の修学旅行で初めて京都を訪れた。

生まれ育った北海道にはない町家の格子戸や嵯峨野の竹林を目にして、

「日本ってすてき」と感激した。・・・・・・・・・・・・・

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私も、同じ歳、奈良に行って、懐かしいと感じた。

それが人生の転機でもあった。

彼女の描くものは、源氏物語とか額田王とか、日本の古典が多いらしい。

見ると典雅で、細部が描けていて、よく勉強されているなーと感心することしきり。

彼女の言う通り、北海道には無い伝統文化故に惹かれたのだろうが、

魂といえば大袈裟だが、元々、古典の記憶というものを持ち合わせていた、

としか考えられない。

北欧に似た北海道の大地に、そのような感性はなかなか育ちにくいだろう。

しかも、高校生の大の仲良しが、同級の

あの漫画家の山岸涼子さんだったというから驚きである。

だが、あのという私は山岸さんを知らないし、読んでもいない。

驚くべきは、「日出処の天子」という聖徳太子を題材に、「ヤマトタケル」など

多くは日本の古典を描いている点が、二人の共通している点である。

共に、北海道出身で活躍されて、女流漫画家では大御所とか。

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まほろばの近所に、これも日本の歴史ものを描かせたら右に出る者なしの

「ヤマタイカ」「宗像教授シリーズ」の星野之宣氏がおられる。

北の大地で、日本の歴史文化を語るのも場違いでないということに

勇気付けられた、今日この頃である。

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明治維新という過ち

金曜日, 8月 28th, 2015

明治維新という誤り

 

今朝、市場で見た日経新聞。

その書籍紹介欄に「明治維新という過ち」という過激な表題が目に飛び込んだ。

実は、先月、会津若松に祖先の足跡を尋ねた際、書店で購入した一冊であった。

地方の一歴史家の会津寄りの史観に過ぎぬだろうと思っていたものが、

何とamazonランキング第一位、12刷に及んでいるというから、驚いた。

実は、この中にただならぬことが書かれている。

これは他人事ではなく、今の安倍政権が為そうとしている強権の根源が、

何であるかが、遠き歴史を遡って書かれている。

まさに、目から鱗なのだ。

私も、片親の地を会津に持ち、人事ではない身に詰まされた内容に、

近代歴史の歴史観が、ガラリと根底から覆ってしまったのだ。

すべては、一本の線で貫かれている。

納得せざるを得ない何か。

いずれ、その明治を、この日本を動かした背景が、

白日の下に晒される日も近い。

 

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縄文土偶に2億円!

木曜日, 6月 25th, 2015

かわいい!土偶ちゃん!!

新聞に掲載されたサザビーズで落札された幻の土偶。

この健康で豊満な「日本のおっかさん!!」像。

あの遮光器土偶の宇宙人とは別な姿態で、何か安心するなーーーー!

それが、ななんと、2億円。

故井上恒一氏のコレクションによるものとか。

落札者はある日本人。

よかった、海外に流出しなくて・・・・・。(以下、解説より)

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競売大手サザビーズのロンドンオークションで、縄文土偶が約2億円で落札されたことがわかった。日本の著名な古美術コレクターであった故・井上恒一氏(1906~1965年)のコレクション。当初の落札予想価格レンジは7万~9万ポンドだったが、実際の落札額ははるかに上回る101万3000ポンドで、10倍以上の高い評価を受けたことになる。

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サザビーズより

井上恒一氏は、夏目漱石、川端康成をはじめとした文豪、文化人との交友を通じて古美術品の収集を熱心に行ってきた収集家。これまでにも、国の重要文化財を博物館に寄贈するなどクオリティの高い希少なコレクションを作り上げてきた。今回出品されたのは井上コレクションの中から100点あまり。中国陶磁の至宝である青磁下蕪瓶、染付耳付花生をはじめ、朝鮮陶磁なども出品した。

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この縄文土偶は、サザビーズは「日本の縄文土偶の代表的な作品」としており、研究者やコレクターの間からは幻の作品として認知されていたもの。その井上氏が最後まで売らなかったものでもあり、加えて今回約50年ぶりに表に出てきたことも、価格高騰に勢いをつけたかもしれない。

 

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日本を救ってくれたジャヤワルダナ氏

水曜日, 5月 6th, 2015

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「七五三塩」は七つの大洋、五つの大陸、三つの山脈の和合、

即ち世界平和と人類幸福への祈りを、塩で統合することを託しました。

その中のインド洋の塩をスリランカ、元のセイロンの塩を使っていました。

ところが、それが欠品になった時、JWTの石川社長の紹介で、

八王子のスリランカ仏教の長老・ヤーラガムエ ダンミッサラ師に依頼して、

スリランカの塩を取ったことがありました。

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その塩が尽きた頃、それまでオーガニックワインを仕入れていたエコロジさんから、

スリランカ塩を取る事になりました。

ついでに、インドのガンジー農園の塩も採り、

七五三塩に混ぜています。

そのエコロジーの児玉社長からメールを戴きました。

そこには、日本を救ったJ.R.ジャヤワルダナ氏のことが書かれてあり、

驚愕しました。

恥ずかしながら、知らない事実でした。

今日、お知らせと共に、その歴史をお伝えいたします。

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おはようございます。以前から台湾の蒋介石と亡くなられたシンガポールのリ・クアン・ユーと今回紹介するジャワルダナ元大統領がサンフランシスコ講和条約の際にロシアの横暴から日本を救ったとのことは知っていたのですが、彼が宣した言葉を見たのは今回が初めてで泪を浮かべながら何回も読み直しました。仏の国、日本は素晴らしい国です。救ってくれた彼らの国に感謝をしつくしても足りません。お読みください。

 

ORGANIC WINE & FOODs IMPORTER

PASTA FRESCA PRODUCT

ECOLOGY CORPORATION

Yoshikazu KODAMA

(有)エコロジ

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日本列島分割案から日本を救ってくれた

スリランカ代表の感動スピーチ

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1952年(昭和27年)4月28日、正式に戦争状態を終結させるためにサンフランシスコで調印された日本と連合諸国との講和条約が発行された日です。
この日を以て正式に戦争が終結したのです。(正確にはこの後もアメリカ統治は今を以て続いています)
1945年8月15日、現実的に天皇陛下の玉音放送によって事実上戦争は終結しましたが、その後諸々の手続き、そしてサンフランシスコ講和条約締結までに、日本は徹底的な侵略統治計画を受けました。
それはWGIP(ウォーギルトインフォメーションプログラム)と呼ばれる日本人劣化作戦が繰り広げられ、少なくとも世界で最も長く続いた文化・伝統は徹底的に破壊され、ギネスで認定されているだけの2700年の歴史もことごとく塗り替えられてしまいました。
たった戦後の70年間で、良くも悪くもとても大きな変化を迎えた日本は、それでももっと過酷な民族が絶滅してしまうほどの危機がありました。
今現在、沖縄の反日勢力はこの日4/28を「屈辱の日」と被害妄想を並べてデモなどを行っていますが、日本の戦後統治では、日米だけでなく、イギリス、ロシア、シナを始めとした連合諸国と極限の交渉状態だったのです。
1951年サンフランシスコ講和会議において戦勝国である連合軍は、日本に対して厳しい賠償と制裁措置を求めた。
下図はソ連(当時)が提案した米英中ソの4ヶ国での分割統治の案です。

 

 

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日本の北海道・本州・九州・四国を米・英・露・支(中国の)連合国それぞれが統治しようとした計画がかなり危険な状況まで話し合いが行われていたのです。

特に共産国家ロシアの執念は深く、ロシアがかつてどのような虐殺を行ってきたか、そして現在中国がチベットなどでどれだけの弾圧・殺戮を行っているのかを考えれば、それがどれだけ日本にとって深刻だったのかは想像に難しくはないでしょう。
もちろん様々な駆け引きが行われ、その影響は大きいものではありましたが、その分断統治の危機を救ってくれたのは、セイロン(現スリランカ)代表ジャヤワルデネ氏の演説だったのです。
1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効の前年に行われた連合国家51カ国が集まる講和会議において、この様なスピーチを行ってくれたのです。

 

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 私の国の政府を代表してのみ話すことが出来るわけですが、然し日本の将来に対して一般的態度の中でのアジアの諸国民の感情を、私は表明出来ると主張します。アジア諸国民が、日本は自由でなければならないということに関心を持っているのは、なぜでありましょうか。 それは日本とのわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり、日本を保護者にして盟友として見上げていた時に、アジア隷従人民(アジアの諸国民)が日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります。 私は、(日本が掲げた)アジア共栄のスローガンが隷従人民に魅力のあったこと、そして、ビルマ、インド及びインドネシアの指導者により国々が解放されるかもしれないという希望によって、日本人と同調したという前大戦中に起こった出来事を思い出すことができるのであります。

空襲や東南アジア軍の指揮下にある膨大な、軍隊の駐屯及びわれわれが連合国に対して天然ゴムの唯一の生産者であった時、われわれの主要商品の一つであるゴムを枯渇せしめたことによって、もたらされた損害は、われわれに対してその賠償を請求するつもりはありません。
何故ならば、われわれは、アジアの無数の人々の生命を高貴な言葉、偉大なる教師であり、仏教の創始者である、仏陀のメッセージ、すなわち『憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ、消え去るものである』という言葉を信ずるからであります。
 

故に、この条約の目的とする所は、日本を自由にし、日本の回復に何ら制限をも課さず、日本が外部からの侵略及び内部よりの破壊に対して、自らの軍事的防衛力を組織するようにすること、そうするまでには日本防衛のために友好国家の援助を要請すること、並びに日本経済に害を及ぼすような、いかなる賠償も日本から取り立てないことを保証することであります。
 
スリランカ代表 J.R.ジャヤワルダナ氏

これを目の当たりにした主席全権吉田茂以下、日本の随行員らは、スリランカ代表のJ.R.ジャヤワルダナ氏の演説に大いに感動しました。

吉田茂はスリランカの若い代表と会って、スピーチの感謝をしました。

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この感動の演説が連合国の空気を一変して、日本への講和条約締結に至ったのです。

その影響は計り知れません。

そしてその後、ジャヤワルダナ氏と日本の交流は続き、閣僚・首相・大統領としてたびたび訪日。
更に政界引退後も日本を訪れています。
また日本の仏教関係者をスリランカに招待するなど日本とスリランカの交流にも多大な尽力をしました。
1989年 昭和天皇の大喪の礼に、本人の希望により夫人とともにプレマダーサ大統領に代わって参列。
既に肩書きは「前大統領」だったが、元首級参列者・大統領同格の国賓として待遇されました。

1991年 日本の仏教関係者の招待で広島市を訪れ、広島平和記念資料館を見学しています。

1996年11月1日 90歳で死去に際し献眼、角膜提供。

「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言により、片目は日本に贈られた。彼の遺言通り左目は長野県の女性に移植されたそうです。

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