まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「バレー界の名将・松平康隆氏の飴と鞭論」

火曜日, 1月 17th, 2012

      

   『致知』1981年7月号より
      
      
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現代の人の中では、亡くなりましたが、
愛知揆一さんという政治家に一番影響を受けています。

愛知さんが教えてくれたことに、
立体史観というのがあります。

どういうことかというと、視野の狭い人は点でしか判断できない、
ちょっと視野を広くすると線になり課長クラスの仕事ができる、
さらに広くすると面になり、大会社の部長クラスだ。

面を上下へ延ばすと円筒形になる。
そうなると樋口清之さんではないが、
梅を見ただけで「梅ぼしと日本刀」という本が書けるようになる。

バレーボールで世界一になろうというなら
最大の円筒形になれというのです。

とくに立体的に過去を勉強しろ
エジソンもキュリーも学びなさい、
バレーと関係ないと思ってはいけないというのです。

それ以来私は円筒形を続けるためにも、
努力して交友関係を広げています。
スポーツ界で私はいちばん交友は多いと思います。

円筒形がなぜバレーに関係があるかというと、
それがアメになるのです。

バレーの選手が、例えば図書館へ行って勉強したいという、
あるいはなぜポーランドにワレサという新しい指導者が
出てきたかなどといいだすと、
そんな暇があったら練習しろというのが、
バレー馬鹿のいうせりふです。

私はそうはいわない。

お前がポーランド問題に関心があるのなら、
きょうの練習三時間やるよりも、新聞社の編集委員に会って来い、
俺が紹介してやろう、といいます。
そうして話を聞いてやる。

そしてポーランドはそういうことになっているのかというと、
コートの上では私にしごかれている選手が、この問題については
監督より上なのだという気持ちになれますよ。

これはおだてです。
ほめる材料を与えるわけです。
しかも監督が馬鹿にされることにはなりません。

むしろそういう示唆を与えてくれたことに対する尊敬というか、
情を感ずる、そういうプラスがあるのです。
アメというものを、私はそこまで広く受けとめています」

企業の中で英語教育をやらせるのもアメだし、
専門外のセミナーに行かせるのも、
アメを心得た指導者のやることです。

そんな時間はもったいない、
自動車の一台も売ってこいというのは、点か線の発想です。

 「第二の人生の指針をくれた妻の手紙」

月曜日, 1月 16th, 2012

       
 日野原 重明 

 (聖路加国際病院理事長、名誉院長)
        
  『致知』2012年2月号
            特集「一途一心」より
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私は一九七〇年、五十八歳の時に
 よど号ハイジャック事件の現場に居合わせました。

 よく晴れた朝の七時頃、富士山の真上を飛んでいると、
 日本刀を抜いた若者たちが座席から立ち上がり、その一人が
 
 
 「我われ日本赤軍はこの飛行機をハイジャックし、
 北朝鮮の平壌を目指して直行することを命ずる」
 

  と叫んだんです。
 
 私も含め、百二十二人の乗客と客室乗務員は
 全員麻縄で手を縛られました。
 
 機長は機転を利かせて
 「北朝鮮に行くにはガソリンが足りないから」と嘘を言い、
 いったん福岡に降りて給油することになりました。
 そこで子供や老人たちは解放されました。

 北朝鮮へ向かう途中、赤軍の若者たちは
 「機内に本をいくつか持ち込んでいるから、
   読みたい者は手を挙げよ」
 と言って本のタイトルを読み上げていきました。
 
 赤軍の機関誌、金日成や親鸞の伝記、
 伊東静雄の詩集などが挙がり、
 最後にドストエスフキーの『カラマーゾフの兄弟』がありました。
 しかし乗客は誰一人として手を挙げようとしない。

 そんな中、私一人だけが
 「『カラマーゾフの兄弟』を貸してください」
 と手を挙げた。すると文庫本五冊を膝の上に
 置いてくれましてね。
 
 あぁ、これを読んでおれば、何か月抑留されても、
 心が支えられると思いました。

 開いてみると冒頭に『聖書』の教えの一節が出ていました。
 
 
 「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、
  死なば多くの実を結ぶべし」
  
  (ヨハネによる福音書十二章二十四節)。

 私もここで一粒の麦となって死んでしまうかもしれない。
 けれども私のこれからの振る舞いが、
 後に続く人たちに何かの結果を及ぼすかもしれない――。
 そういう気持ちを持って心を静かにし、
 皆のためにできるだけのことをやろうと考えたんです。

 私たち乗客は事件から四日目に全員無事、
 韓国の金浦(きんぽ)空港で解放されることになりました。
 
 靴底で大地を踏んでその土の音を聞いた時
 「無事、地上に生還した」と感じました。
 
 そして「あぁ、これからの私の人生は与えられたものだ」
 と思いました。

 帰国すると、千人を超える皆さんから
 お見舞いやお花が届いていました。
 
 私たち夫婦は皆さんに感謝の意を表し、
 礼状を出すことにしたのですが、
 妻は私の文章の後に続き、こんな言葉を添えました。

「いつの日か、いづこの場所かで、
 どなたかにこのうけました大きな
 お恵みの一部でもお返し出来ればと願っております」

 妻は無口で出しゃばらず、いつも控えめな女性でしたが、
 この言葉は私を驚かせ、妻に尊敬の念を覚えさせました。
  
 そしてこの言葉が私の第二の人生の指針となりました。

 その後しばらくして、マルティン・ブーバーという
 哲学者の本を読んでいた時に

 「人は創(はじ)めることさえ忘れなければ、
  いつまでも若い」
  
 という言葉に出合いました。
 そうだ、いままでやったことのないことをやってみようと。

 その四年後、私はライフ・プランニングセンターを創設して
 予防医学の重要性などを訴え、
 八十九歳の時に「新老人の会」を立ち上げ、
 七十五歳以上の新しい生き方を提唱してきました。
 
 その会に掲げた
 
 
 「愛し愛されること、創めること、耐えること」
 
 
 という三つのモットーは、それまでの私の人生体験を
 踏まえてつくられたものなんですね。
 
 つまりああいう事件に遭遇したことが、
 私に本当の生きる意味というものを教えてくれたんです。
 

 「人間のプロになれ」

日曜日, 1月 15th, 2012

 杉原 輝雄 (プロゴルファー)

   『致知』2008年8月号「致知随想」
 ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

……………………………………………………………

■前立腺がんの告知
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

医師から「前立腺がん」の宣告を受けたのは、
11年前のことになる。

プロゴルファーとして40年目を迎えた年だった。

すぐにも手術が必要だと言われたが、
休めば一から体づくりをしなければならない。
60歳を迎えていた私にそんな時間はなかった。

手術を拒否して投薬治療をすることに決め、
食事も健康食に切り替えた。
さらに、短時間の運動で大きな効果が得られる
加圧トレーニングを開始し、
この体でやれるところまでやってやろうと決めた。

投薬をしながらではあるが、
71のいまもおかげさまで現役を続けている。
国内では通算54勝の戦績を収め、
気がつけば永久シード権を持つ
現役最年長のプロゴルファーになっていた。

一昨年には、つるやゴルフオープントーナメントの予選を通過し、
結果的にそれは米国のサム・スニード選手が残した
レギュラーツアーでの世界最年長記録を上回るものとなった。

決して満足な結果を残せているわけではないが、
試合に出る以上は目標を持ち、
どこまでもそれに挑戦していきたいと感じている。

私がゴルフを始めたのは小学校五5の時、
キャディーのアルバイトをしたことがきっかけだった。

そのバイトは中学校に上がってからも続け、
土曜の午後と日曜になると、たいていゴルフ場へ足を運んだ。
卒業する頃にはプロになれればいいなと思ったが、
いまのように養成所があるわけではない。
ゴルフ場で選手の近くにいるのが一番勉強になるだろうと思い、
洗濯係などもしながらプロになる道を探っていた。

私のことを「練習の虫」と言う人がよくいるが、
20歳でプロテストに合格してからも、
練習量はまるで足りなかったと思う。

ただ、私は試合で負けた人たちすべてを、
自分のライバルだと考えていた。
またゴルフ界に限らず、世の中で活躍している人であれば、
誰もがワンサイド・ライバル──
つまり、こちらで勝手にライバルだと決めて、
決して負けないつもりで生きてきた。

■人間の使命
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ゴルフにおける勝者は一つの試合にたった一人しかいない。
だからこそ、無数の負けとどう向き合うか、
また悲観的な状況にあっても、決して腐らず
一所懸命に取り組むことが大切になってくるのである。

そのことを私に教えてくれたのは、
オーストラリアのグラハム・マーシュという選手だった。

彼はもともとゴルフが下手で、
しばらくして日本ツアーに参戦できるようになったものの、
プレーの運び方が非常に鈍く、
他の選手やギャラリーたちをいつも苛々させていた。

約30年前に名古屋で開催された
中日クラウンズで彼と一緒に回った時、
初日、二日目とも成績は振るわず、
彼も私も予選落ちは確定と言える状態だった。

しかしマーシュは懸命だった。

18番ホールのグリーン上で、
入ろうが入るまいが大した意味のないパーパットを沈めようと、
彼は入念に芝目を読んでいたのである。

一方、勝ち目のない試合だと踏んでいた私は、
彼のプレーを苛立ちながら眺めていた。

しかしそのパーパットを着実に沈めたマーシュは、
翌週ぐんぐんと調子を上げ、
予選を通過するどころか、
見事優勝を決めてしまったのである。

その日の調子が良かろうが悪かろうが、
目の前にある一打一打を一所懸命に打たなければいけない、
常にベストを尽くさなければいけないと教わった出来事だった。

ゴルフは努力をしさえすればいい結果が
得られるものではないが、
どんな時でも一所懸命に取り組んでいないと、
よい結果には繋がりにくい。
その時その時において常にベストを求められるのは、
人生においても全く同じではないだろうか。

思えば小学校の頃からゴルフの世界に携わらせていただき、
いろいろな方にお世話になった。
昔はいまのように試合数が多くなく、
出場したくてもできなかったことがたくさんあった。

いまの若いプロゴルファーの多くは、
小さな頃から自分のクラブを与えられ、
試合に出られることも、練習をさせてもらえることも
当然のように思っている。

もっとも、私自身も気がつくのが遅かったが、
誰のおかげでゴルフをしていられるのかと考えた時、
私は試合後にお世話になったスポンサーや
コースの支配人宛に礼状を出すことにした。
40歳を過ぎた頃だっただろうか。

私は人は皆、生まれた時から“人間のプロ”になる
という使命を担っているのではないかと考えている。

人間であれば心があるのだから、
挨拶もするし、相手への思いやりも当然持つことだろう。
何も特別なことは必要なく、
当たり前のことを当たり前にできるようになれば、
その人は人間として立派なプロなのだ。

ゴルフに限らず、その世界の上位クラスで
活躍をする人は一流の素質か、
それに近いものを持っている。
しかし人間として一流でなければ、
その人の値打ちは半分以下になってしまう。

人間のプロ──。
病気や年齢の壁に立ち向かい、
自らに挑み続けることもその条件の一つであると思う。

「どん底の淵から私を救った母の一言」

木曜日, 1月 12th, 2012

              
       
   奥野 博 (オークスグループ会長)
        
    『致知』1998年8月号
      特集「命の呼応」より

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【記者:昭和四十二年、四十歳のときに経験された倒産が、
    今日の奥野会長の土台になっているようですね】
    

倒産が土台とは、自分の至らなさを
さらけ出すようなものですが、
認めないわけにはいきません。

戦後軍隊から復員し、商社勤務などを経て、
兄弟親戚に金を出してもらい、
事業を興したのは三十歳のときでした。

室内設計の会社です。
仕事は順風満帆でした。
私は全国展開を考えて飛び回っていました。

だが、いつか有頂天になっていたのですね。
足元に忍び寄っている破綻に気づかずにいたのです。
それが一挙に口を開いて。

【記者:倒産の原因は?】

「滅びる者は、滅びるようにして滅びる」。

これは今度出した本の書き出しの一行です。

倒産の原因はいろいろありますが、
つまるところはこれに尽きるというのが実感です。
私が滅びるような生き方をしていたのです。

出資者、債権者、取引先、従業員と、
倒産が社会に及ぼす迷惑は大きい。
倒産は経営に携わる者の最大の悪です。

世間に顔向けができず、私は妻がやっている美容院の二階に
閉じこもり、なぜこういうことになったのか、考え続けました。

すると、浮かんでくるのは、
あいつがもう少し金を貸してくれたら、
あの取引先が手形の期日を延ばしてくれたら、
あの部長がヘマをやりやがって、
あの下請けが不渡りを出しやがって、
といった恨みつらみばかり。

つまり、私はすべてを他人のせいにして、
自分で引き受けようとしない生き方をしていたのです。

だが、人間の迷妄の深さは底知れませんね。
そこにこそ倒産の真因があるのに、気づこうとしない。

築き上げた社会的地位、評価、人格が倒産によって
全否定された悔しさがこみあげてくる。

すると、他人への恨みつらみで血管がはち切れそうになる。
その渦のなかで堂々めぐりを繰り返す毎日でした。

【記者:しかし、会長はその堂々めぐりの渦から抜け出されましたね】

いや、何かのきっかけで一気に目覚めたのなら、
悟りと言えるのでしょうが、凡夫の悲しさで、
徐々に這い出すしかありませんでした。

【記者:徐々にしろ、這い出すきっかけとなったものは何ですか】

やはり母親の言葉ですね。

父は私が幼いころに死んだのですが、
その三十三回忌法要の案内を受けたのは、
奈落の底に沈んでいるときでした。

倒産後、実家には顔を出さずにいたのですが、
法事では行かないわけにいかない。
行きました。

案の定、しらじらとした空気が寄せてきました。

無理もありません。
そこにいる兄弟や親族は、私の頼みに応じて金を用立て、
迷惑を被った人ばかりなのですから。

【記者:針の莚(むしろ)ですね】

視線に耐えて隅のほうで小さくなっていたのですが、
とうとう母のいる仏間に逃げ出してしまいました。

【記者:そのとき、お母さんはおいくつでした?】

八十四歳です。母が「いまどうしているのか」と聞くので、

「これから絶対失敗しないように、
 なんで失敗したのか
  徹底的に考えているところなんだ」
 
 
と答えました。
すると、母が言うのです。

「そんなこと、考えんでもわかる」

私は聞き返しました。

「何がわかるんだ」

「聞きたいか」

「聞きたい」

「なら、正座せっしゃい」

威厳に満ちた迫力のある声でした。

【記者:八十四歳のお母さんが】

「倒産したのは会社に愛情がなかったからだ」

と母は言います。心外でした。
自分のつくった会社です。
だれよりも愛情を持っていたつもりです。

母は言いました。

「あんたはみんなにお金を用立ててもらって、
 やすやすと会社をつくった。

 やすやすとできたものに愛情など持てるわけがない。
 
 母親が子どもを産むには、死ぬほどの苦しみがある。
 だから、子どもが可愛いのだ。
 
 あんたは逆子で、私を一番苦しめた。
 だから、あんたが一番可愛い」
 
 
 
母の目に涙が溢れていました。

「あんたは逆子で、私を一番苦しめた。
 だから、あんたが一番可愛い」

母の言葉が胸に響きました。

母は私の失態を自分のことのように引き受けて、
私に身を寄せて悩み苦しんでくれる。
愛情とはどういうものかが、痛いようにしみてきました。

このような愛情を私は会社に抱いていただろうか。
いやなこと、苦しいことはすべて人のせいにしていた
自分の姿が浮き彫りになってくるようでした。

「わかった。お袋、俺が悪かった」

私は両手をつきました。
ついた両手の間に涙がぽとぽととこぼれ落ちました。

涙を流すなんて、何年ぶりだったでしょうか。
あの涙は自分というものに気づかせてくれるきっかけでした。

「打つ手は無限」

水曜日, 1月 11th, 2012

      
       
  中西 勝則 (静岡銀行頭取)
        
     『致知』2012年2月号
    連載「私の座右銘」より

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 二〇〇八年九月十五日、リーマンブラザーズが倒産。
 折しもこの直後に米国から帰国した私は、
 ことの重大さを察知し、矢継ぎ早に営業の現場に指示を出すとともに、
 お取引先の資金繰りに不安が生じないよう、
 都心部に潮が引くように資金が流れ込んでいくのに逆らって
 資金集めに奔走しました。

 この時、私の脳裏にバブル時代に頭取を務められた
 酒井次吉郎氏のことがよぎりました。
 
 異常な熱気を帯びた日本経済の先行きに疑問を感じた酒井頭取は、
 地方銀行本来の役割を思い起こされ、
 都心の大企業やノンバンクから貸出金を回収。
 後のバブル崩壊の影響を最小限度に止める決断を下されました。

 二年ほど前、お亡くなりになる三週間前に
 お見舞いに訪れた際のことです。
 
 優れない体調を押して、諭すように静岡銀行の歴史を
 順を追ってお話しくださいました。
 
 話が一時間に及ぶと、最後は心配する奥さんに
 促されるように席を立ちましたが、
 何かを伝えようと懇々と話してくださった姿が
 懐かしく思い出されます。

 先の東日本大震災においてもあらゆる手を講じてきましたが、
 地域経済、特に観光産業が受けるダメージを軽減しようと、
 行員が自発的に宿泊施設の利用に動いてくれたことは、
 利他の心が具体的な行動となって表れた嬉しい出来事でした。

 利他の心も消極的な姿勢では、
 目の前の困難に立ち向かうことはできません。
 
 積極性をもって臨めば打つ手は無限に存在するのです。
 
 そのことを私に指し示してくれた詩を最後にご紹介します。
 
 実業家である故・滝口長太郎氏が遺された詩で、
 題は「打つ手は無限」  。

   すばらしい名画よりも
 
 
   とてもすてきな宝石よりも
 
 
   もっともっと大切なものを
 
   
   私は持っている
 
   
   どんな時でも
 
   
   どんな苦しい場合でも
 
   
   愚痴は言わない
 
   
   参ったと泣き言を言わない
 
   
   何か方法はないだろうか
 
   
   何か方法はあるはずだ
 
   
   周囲を見回してみよう
 
   
   いろんな角度から眺めてみよう
 
   
   人の知恵も借りてみよう
 
   
   必ず何とかなるものである
 
   
   なぜなら打つ手は常に
 
   
   無限であるからだ

「君はどういう考え方で部下指導をするんだ?」

月曜日, 1月 9th, 2012

       
       
 福地 茂雄 (アサヒビール相談役)
        
    『致知』2012年2月号
      特集「一途一心」より

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「惚れられるより惚れよ」という営業哲学も、
そういう中で叩き込まれました。

私が入社した頃は恵まれていて、
特に大阪ではビール会社といえば
アサヒビールというくらい浸透していたんです。

けれどもその勲章を持って回ったらダメだと。

アサヒビールという看板を抜きにしてもお客様から信頼され、
求められるような人間になれ。
そのためにはお客様から好かれようと思ったらダメだ。
こっちから好きになることだと。

そういう大切なことを叩き込んでくれたのがブラザーでした。
ですから新人の頃にマンツーマンで仕事の基本から、
技術的なことからものの考え方から
キッチリと教える体制をつくることは非常に大切だと思います。

それから、人間は着るものに応じて太くなるものですね。
立場が人をつくるんです。

だから課長になれば課長らしくなってくるし、
支店長になれば支店長らしくなるし、
社長になれば社長らしくなってくる。

小さい服を着ていたらいつまでも大きくなりません。
一度大きめの服を着せてみたら、
結構服に合わせた人間ができてくるものです。

自分の息子やよく知っている人間に対する時ほど、
あいつはまだ若いと躊躇しがちですが、
チャンスを与えることが大事です。

初めて課長になった時に支店長から、

「君はどういう考え方で部下指導をするんだ」

と聞かれたので、

「自分のできないことは部下に求めません。
  できることは徹底して求めます」
 
 
と答えたら、

「君は落第だ。
 上に立つ者は自分ができないことでも
 部下に求めなければならないものだ」
 
 
と言われました。

「前後際断、瞬間燃焼」

土曜日, 1月 7th, 2012

       
       
  斎藤 智也 (聖光学院高校野球部監督)
        
     『致知』2012年2月号
     特集「一途一心」よ

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私は選手たちに「前後際断(さいだん)」とか
「瞬間燃焼」といった言葉を
よく使うんですが、これを教えるのに
最適なトレーニングがあります。

もともとは塩沼亮潤先生の大峯千日回峰行から
ヒントを得たのですが、毎年夏の大会前になると、
夜中に地元の吾妻連峰に登り、
懐中電灯と熊除けの鈴を持って暗闇の中を
五時間かけて一人ずつ下山させるんです。

山の雄大さ、険しさ、水の清らかさ、
この大いなる自然に身を委ねなさいと、
満天の星空を眺めるところからスタートする。

山を下りるのも真っ暗闇で怖い。
そこから徐々に日が差して辺りが明るくなってくる。

クライマックスは朝四時半頃。
雲海が飛び込みたくなるような思いに駆られるほど、
凄く綺麗なんですよ。
そこから太陽の光が少し差し込んでくる。

で、この時に子供たちの足が止まるんです。
雲海から出てくる太陽を皆、心待ちにしているんですね。

そしてパーッと太陽が出てきた時の、あの凄い感動……。
泣いている子もいます。きっと自分が
野球をやっていることの意味を噛み締めたり、
夏の大会を間近に控えた怖さと向き合うんでしょうね。

私なりに、お坊さんが瞑想して
無の境地に迫ろうとする意味は何かと考えてみると、
邪念の塊、雑念の塊、私利私欲の塊、
こうしたものから解放されるためには、
邪念、雑念、私利私欲に襲われ続けないと
消えていかないことが分かってきました。

だから怖い、負けたらどうしよう、嫌だ、嫌だ……、
そうやっていろいろなことを考えながら歩いていく中で、
その子の頭は雑念だらけ。

その雑念を、自然が忘れさせてくれるということもあるんですが、
でも最後はそこから解き放たれる自分自身を見つけるんですね。

これは勝負の世界でも一緒ですよ。

負ける怖さを骨の髄まで味わい続ける。
だから解き放たれる。

その時、やっと勝負事を天に任せられる状態になって、
夏の大会にさぁ行こうか、潔くやろうぜ、という気持ちになる。
選手たちには勝つも負けるもない。
ただ一瞬一瞬やり切るだけ、という状態になる。

それが、甲子園に行っても

「おまえら、ホントに預けてるの」

「引っ張り込んでるだろ、勝負事を」

「私利私欲の塊集団!」

なんて言いながら試合をやっている時があるんですね。
そういうシーンが多い時は負けが近い時です。

潔く、試合展開にも一切こだわらず、一喜一憂せず、
まさに前後際断、過去も未来もすべて消す。
まさにいまだけ、一途一心、という境地で臨める時は強いです。

夏の大会に入る前にその状態を完成させてしまえば、
後の結果は本当はどちらでもいいんですよね。

 「医師としての原点」

木曜日, 1月 5th, 2012

       
日野原 重明 

(聖路加国際病院理事長、名誉院長)
        
      『致知』2012年2月号
        特集「一途一心」より
     ───────────────────────────

医師としての原点を語る時、外せないのが、
医局に入ったばかりの頃、最初に担当した
結核性腹膜炎の十六歳の少女です。

彼女には父親がおらず、母親が女工として働いていました。
家が貧しくて彼女自身も中学に行かず働いていたのですが、
ある時、結核を患って入院してきたんです。

その病室は八人部屋で、日曜になると
皆の家族や友人が差し入れを持って見舞いにくる。

でも彼女を訪ねてくる人はほとんどいない。
母親は日曜も工場で働いていたから、
見舞いにもなかなか来られなかったんです。

私は日曜になると教会の朝の礼拝に出席するため、
同僚に彼女のことを頼んでいました。

ところがある時、その同僚から

「日野原先生は、日曜日は
  いつも病院に来られないから寂しい」
 
 
と彼女が言っていたと聞かされましてね。
以来私は朝教会に行く前に、病室へ顔を出し、
それから礼拝に出るようにしたんです。
これはその後の私の医師としての習慣にもなりました。

ところが当時は結核の治療法がなかったために、
どんどん容態が悪くなっていってね。

非常に心配していたんですが、ある朝様子を見に行くと、

「先生、私は死ぬような気がします……」

と言うんです。私は

「午後にはお母さんが来られる予定だから、頑張りなさい」

と言いました。

すると彼女はしばらく目を閉じて、
また目を開いて言葉を続けました。

「お母さんはもう間に合わないと思いますから……、
  私がどんなにお母さんに感謝していたかを、
  日野原先生の口から伝えてください」。
 
 
そうして手を合わせた彼女に、私は

「バカなことを言うんじゃない。死ぬなんて考えないで!
  もうすぐお母さんが見えるから、しっかりしなさい」
 
 
と言って、その言葉を否定したんです。

ところが見る見るうちに顔が真っ青になっていったので、
私は看護師を呼んで「強心剤を打って延命しよう」と言い、
弱っている彼女に強心剤をジャンジャン打った。

そして「頑張れっ、頑張れっ!」と大声で叫び続けた。

彼女はまもなく茶褐色の胆汁を吐いて、
二つ三つ大きく息をしてから無呼吸になりました。

私は大急ぎで彼女の痩せた胸の上に聴診器を当てましたが、
もう二度とその心音を捉えることはできませんでした。

私は彼女の死体を前にして、どうしてあの時

「安心して成仏しなさい。
  お母さんには、私があなたの気持ちを
  ちゃんと伝えてあげるから」
 
 
と言ってあげられなかったのだろう。
強心剤を注射する代わりに、
どうしてもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか、
と悔やまれてなりませんでした。

私は静かに死んでいこうとする彼女に、
最後の最後まで鞭を打ってしまったわけです。

この時に、医師というのは
ただ患者さんの命を助けるのじゃない。

死にゆく人たちの心を支え、死を受け入れるための
援助をしなければならないのだと思いました。

その強い自責の念が、
後にターミナルケア(終末の患者へのケア)や
ホスピスに大きな関心と努力を払い、
人々が安心して天国や浄土に行くにはどうしたらよいかを考え、
そういう施設をつくる行為へと繋がっていったんですね。

「六十か条の“選手心得”」

木曜日, 1月 5th, 2012

      
       
 深井 浩司(新潟県立佐渡高校野球部監督)
        
       『致知』2012年2月号
       特集「一途一心]

─────────────────────────────────

私が監督になってからキャッチボールや
全力疾走といった基本的な練習から始めたのですが、
そこで気づいたのは部員の日常生活の乱れでした。

挨拶ができず、遅刻をしたり、
授業中に居眠りをしたりする生徒が大勢いる。

そこで日頃の行動規範などを定めて部員全員に配り、
毎日唱和させることにしたんです。

練習や試合の心構えなど六十か条を記したもので、
もともとは私の母校・丸子実業高校野球部の
恩師だった中村良隆先生が作られた
六十六か条を現代風にまとめ直しました。

高校野球は人間教育の場であるという基本線を踏まえながら、
師弟が一体となって甲子園を目指すものだという考えの下、
六十か条を
「一般心得」「練習心得」「試合心得」「生活心得」の
四つに分類したんですね。

もっとも初めて生徒に配った時には、
すぐに伏せられてしまいましたが(笑)、保護者にも全員配り、

「私はこういう信念で指導させてもらいます。
  もしこれに外れるようなことをしたら
  すぐクビにしてください」
 
 
と伝えました。

野村克也さんが「負けに不思議の負けなし」と言われますが、
試合の敗因は必ずこの中に隠されていると考えています。

例えば

「グラウンドの恥はグラウンドで返せ。
 言い訳、詫びる言葉は厳に慎め、
 自己の責任解消は口で談ずるべきではない」。
 
 
悔しい思いをしたら言い訳をするのではなく、
一回でも多く素振りをしたり、一球でも多く捕球の練習をする。
そういう見えない努力を重ねなさいということですね。

他にも

「球場に足を踏み入れたら気力で相手に勝て、
 一に闘志、二に闘志、三に気合、余力は残すな」
 
 
「チャンスは必ず生かせ。次のチャンスは期待するな」

「同じ投手から二度負けるな。
 研究して、打ち崩せ、これが根性だ」
 
 
「勝負の厳しさを知れ、理屈は通らない、結果だけが評価される。
 高校野球は人生と同じ一本勝負である」
 
 
などがあります。

私は技術が六で気持ちが四のチームと、
技術が四で気持ちが六のチームがあったとしたら、
後者が勝つのが高校野球だと思うんです。

平凡なことを習慣化して取り組めば大きな力になる。
きょうは気分がいいから元気を出すけど、
別の日は嫌なことがあったから声を出さない、
といった気まぐれは絶対にいけない。

そういう日常の心得をこの中に込めたつもりです。

『一日一言』から

水曜日, 1月 4th, 2012

●『安岡正篤一日一言』(1月2日)

 人間は何事によらず新鮮でなければならない。
 ところが いかにすれば新鮮であり得るかといえば、
 やはり真理を学んで、真理に従って生活しなければいけない。
 もっと突っこんで言えば、人間としての深い道を学ぶ。
 正しい歴史伝統に従った深い哲理、真理を学び、それに
 根差さなければ、葉や花と同じことで、四季に従って
 常に魅力のある、生命のみずみずしさを維持してゆく
 ことはできるものではない。

●『森信三一日一語』(1月1日)

 「人生二度なし」
 これ人生における最大最深の真理なり。

●『坂村真民一日一言』(1月1日)

 日本を
 楽しい国にしよう
 明るい国にしよう
 国は小さいけれど
 住みよい国にしよう
 日本に生まれてきてよかったと
 言えるような
 国造りをしよう
 これが二十一世紀の日本への
 わたしの願いだ

●『中江藤樹一日一言』(1月1日)

 父母のおんとくはてんよりもたかく、海よりもふかし。
 あまりに広大無類の恩なるゆえに、
 ほんしんのくらき凡夫は、むくいんことをわすれ、
 かえって恩ありとも、おんなし共、おもわざるとみえたり。

●春日潜庵(かすがせんあん)

 人生百年、大凡(およそ)二十年前は蒙々篤(もうもうえん)たるのみ。
 二十歳後より六十に至るまで中間四十年なり。
 これを過ぎて以往は、縦令(たとえ)衰えざるも、
 窮竟(きょうきょう)用を做(な)さざるなり。

 これを以てこれを観れば、百年の中久しといえども
 四十年間に過ぎず。その余は蒙々篤たるのみ。

 悲しいかな、悲しいかな、この四十年間、
 徳を立て、業を立つる者それ幾何人ぞや。
 その余は腐草朽木とともに 泯滅(びんめつ)して止む。
 荀(いやしく)も志ある者、それ悲しむべきか、悲しむべからざるか。

 
●人生劈頭(へきとう)一箇の事あり。
 立志これなり。

幕末の陽明学者、西郷南洲も傾倒した真固豪傑の士は
時代をこえて、生ある者に決意を迫ってきます。

●最後に明治天皇御製。

 さしのほる 朝日のことく さわやかに
 持たまほしきは 心なりけり