まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

 「魅力ある経営者たちに共通したもの」

水曜日, 2月 15th, 2012

  城山 三郎 (作家)

      『一流たちの金言』より
  ─────────────────────

日本信販の山田光成さんは
断られても断られても百貨店に通い詰めて、
とうとう何社かを説得して契約し、
日本信販をスタートさせる。

口で言ってしまえば簡単です。

だが、百貨店と契約するまでには
筆舌に尽くし難い苦労があったはずです。

いろいろなアイデアを抱く人はたくさんいます。
だが、それを創業に持っていき、軌道に乗せられるかどうかの
境目はここなんですね。多くはここを乗り越えられず、
アイデアは単なるアイデアで終わってしまう。

(その境目を乗り越えさせるものは)
「魔」でしょうね。

情熱と言ってもいいし狂気と言ってもいい。
何かをやるなら「魔」と言われるくらいにやれ、
「魔」と言われるくらいに繰り返せ、ということです。

渋沢栄一は埼玉の農家から出てきて一橋家に仕える。
侍になりたいんですね。
ところが、割り当てられたのは勝手番。
これでは上の人と話し、認めてもらうチャンスがない。

だが、上の人が毎朝乗馬の訓練をする。
この時なら話すチャンスがあるということで、
渋沢は馬と一緒に走って自分の思いや考えを上の人に話す。
毎朝それをやる。
すると、あいつは見どころがあるということで、
そこから彼の人生は開けていく。

渋沢は3つの魔を持っていた。

吸収魔、建白魔、結合魔です。

学んだもの、見聞したものをどんどん吸収し、
身につけてやまない。
物事を立案し、企画し、それを建白してやまない。
人材を発掘し、人を結びつけてやまない。
   
普通にやるんじゃない。大いにやるのでもない。
とことん徹底して、事が成るまでやめない。
そういう「魔」としか言いようのない情熱、狂気。

根本にそれがあるかないかが、
創業者たり得るか否かの分水嶺(ぶんすいれい)でしょう

「熊本の名校長・最後の授業」

月曜日, 2月 13th, 2012

                                   

大畑 誠也

(九州ルーテル学院大学客員教授)
        
            『一流たちの金言2』より~
            ───────────

私が考える教育の究極の目的は
「親に感謝、親を大切にする」です。

高校生の多くはいままで自分一人の力で
生きてきたように思っている。
親が苦労して育ててくれたことを知らないんです。

これは天草東高時代から継続して行ったことですが、
このことを教えるのに一番ふさわしい機会として、
私は卒業式の日を選びました。

式の後、三年生と保護者を全員視聴覚室に集めて、
私が最後の授業をするんです。

そのためにはまず形から整えなくちゃいかんということで、
後ろに立っている保護者を生徒の席に座らせ、
生徒をその横に正座させる。
そして全員に目を瞑らせてからこう話を切り出します。

「いままで、お父さん、お母さんに
 いろんなことをしてもらったり、
 心配をかけたりしただろう。
 それを思い出してみろ。
 
 交通事故に遭って入院した者もいれば、
 親子喧嘩をしたり、こんな飯は食えんと
 お母さんの弁当に文句を言った者もおる……」
 

そういう話をしているうちに涙を流す者が出てきます。

「おまえたちを高校へ行かせるために、
 ご両親は一所懸命働いて、
 その金ばたくさん使いなさったぞ。
 
 そういうことを考えたことがあったか。
 学校の先生にお世話になりましたと言う前に、
 まず親に感謝しろ」

そして

「心の底から親に迷惑を掛けた、苦労を掛けたと思う者は、
 いま、お父さんお母さんが隣におられるから、
 その手ば握ってみろ」
 
 
と言うわけです。

すると一人、二人と繋いでいって、
最後には全員が手を繋ぐ。
私はそれを確認した上で、こう声を張り上げます。

「その手がねぇ! 十八年間おまえたちを育ててきた手だ。
 分かるか。……親の手をね、これまで握ったことがあったか?
 おまえたちが生まれた頃は、柔らかい手をしておられた。
 
 いま、ゴツゴツとした手をしておられるのは、
 おまえたちを育てるために
 大変な苦労してこられたからたい。それを忘れるな」

その上でさらに

「十八年間振り返って、親に本当にすまんかった、
 心から感謝すると思う者は、いま一度強く手を握れ」
 

と言うと、あちこちから嗚咽が聞こえてくる。

私は

「よし、目を開けろ。分かったや?
 私が教えたかったのはここたい。
 親に感謝、親を大切にする授業、終わり」
 
 
と言って部屋を出ていく。
振り返ると親と子が抱き合って涙を流しているんです。

 「小さな電気屋の明るい経営術」

日曜日, 2月 12th, 2012

     
             山口勉(でんかのヤマグチ社長)

        『致知』2012年2月号「致知随想」
         ※肩書きは『致知』掲載当時のものです
                   http://ameblo.jp/otegami-fan/

………………………………………………………………………………………………

地元に大型量販店がくる――。
 
こんな話が私の耳に飛び込んできたのは、
町の電気屋「でんかのヤマグチ」が東京都町田市で、
創業三十年を過ぎた平成八年でした。

「噂で終わってくれ」

と願ったのも束の間、近隣にあっという間に
六店もの大型量販店ができたのです。

三十年以上商売をしてきた経験から、
売り上げが年に三十%近くも落ちることが見込まれ、
事実、三、四年の間に借金は二億円以上にまで膨れ上がっていきました。

まさに、会社が存続するか否かの瀬戸際です。
生き残るためにはどうするか。

悩みに悩んで私が出した結論は十年間で粗利率を十%上げ、
三十五%にすることでした。

当時大型量販店の粗利率の平均は約十五%で、
地元の電気屋が約二十五%程度でした。

周りからは、

「そんなことできっこない」

という声が
大多数でしたが、それ以外に
生き残りの術は浮かばなかったのです。

私がまず決めたのは、大型量販店のように
商品を安売りするのではなく、
逆に「高売り」することでした。

この頃当店は約三万四千世帯のお客様に
ご利用いただいていましたが、
これだけの数では本当の意味で
行き届いたサービスはできません。

そのため商圏をなるべく狭くし、
ターゲットを五十代からの
富裕な高齢者層に絞り込んで三分の一にまで縮小しました。

そして一万二千世帯のお客様には
他店では真似できないようなサービスを
とことんしようと決めたのです。

顧客数を三分の一に減らした分、
月一度行っていた訪問営業を月三回に増やす。

これによって、お客様との深い人間関係ができ、
商品が少々高くても購入してくださる方が
増えるだろうと考えたのです。

訪問の際にお聞きするのは、
お客様が生活される上での
ちょっとしたお困り事についてでした。

ひと昔前の日本では何か困り事があると
隣近所で助け合い、支え合うという
相互扶助の精神が息づいていました。

私が着目したのはこの部分です。

家電製品のデジタル化が進む一方で、
地元民の高齢化もどんどん進んでいました。

当然、家電の操作が思うようにできない方も多くなりますが、
お客様のお困り事はそれだけに限りません。
ご高齢、体の不自由な方は買い物に行くのも大変です。

そのため、当店では本業とは無関係なことも
徹底してやらせていただくようにしたのです。

お客様の留守中には植木の水やりをしたり、
ポストの手紙や新聞を数日保管したり、
大雨では代わりに買い物にも出掛けたり。

これらを我われは「裏サービス」と呼び、
お代は一切いただきません。

会社のモットーも

「お客様に呼ばれたらすぐにトンデ行く」

「お客様のかゆいところに手が届くサービス」

「たった一個の電球を取り替えるだけに走る」

などに定め、

「どんな些細なことでも言ってくださいね」

とお声がけをしながら十数年、社員パート合わせて
五十名で徹底して取り組んできました。

ただしお客様との信頼関係は
一朝一夕にできるものではありません。
私が粗利率の目標達成期間を一年や二年でなく、
十年としたのもそのためです。

悪い評判に比べ、よい評判が広がるには
かなりの時間がかかります。
しかし、この姿勢を愚直に、ひたむきに
貫いていったことで、結果的に
八年間で粗利率三十五%を達成することができました。

その目標達成のため、とにかく無我夢中で
取り組んできた私ですが、
この方向でいけるかなとなんとか思えるようになったのは、
粗利率を十%上げる方針に転換して
三、四年が経過してからのことでした。

経営者として小さな電気屋が六店舗もの
大型量販店との商売競争に勝つために
いったん決断はしたものの、
本当にそんな粗利率をクリアできるのか、
お客様は本当に買ってくださるだろうか、と悩み続けました。

「この判断は正しい」

「いや、ダメだ。うまくいかない」

という思いが年中、頭の中で争いをしているような状態……。
しかし、いつも最後には

「この道が正しいんだ」

という考えが勝ちを占めるよう心掛けました。

肝心なのは一度この道を行くと決めたなら、
途中で迷わないことではないでしょうか。
思うように結果が出ないと、
あの道もこの道もよさそうだと目移りしますが、
そのたびに

「成功するまでやってみよう」

と自分に言い聞かせる。

急ぐことはなく、ゆっくりでいいから
とにかく一歩一歩を着実に歩んでいくことが大事だと思います。

会社の存続が危ぶまれた大型量販店の出現から十四年。
しかしこの間、赤字決算が一回もないことには
我ながら驚きます。

さらに、一生返せないと思っていた
二億円以上の借金を三年前に完済することができました。

人間はとことんまで追い詰められ、
地べたを這いずり回るような思いで
必死になって取り組むことで
活路が開けるものなのかもしれません。

もしあの時、量販店がこの町田に来ていなければ、
今日のような高売りをしているとは考えにくく、
そう考えると逆にゾッと寒気すらします。

現在の日本も不況が続き、
出口の見えないような状況が続いています。

しかしデメリットばかりに目を向けて
内向き思考になってしまっては、
せっかく転がっているチャンスも逸してしまいます。

いまある常識やこれまでよしとされてきたことも、
本当にこれでいいのか、と根本から疑ってみることで、
チャンスが見つかることも少なくないはずです。

現状を打破する発想は、
ピンチの中にこそ生まれるのだと思います。

「イレブンの心得」

金曜日, 2月 10th, 2012

      
 佐々木 則夫 (サッカー日本女子代表監督)

      『致知』2012年3月号
       特集「常に前進」より
         

─────────────────

私は結構ずぼらな性格なものですから、
自分自身をチェックする項目として
「11(イレブン)の心得」というものをつくっているんです。

1、責任
 
  2、情熱
 
  3、誠実さ
 
  4、忍耐
 
  5、論理的分析思考
 
  6、適応能力
 
  7、勇気
 
  8、知識
 
  9、謙虚さ
 
  10、パーソナリティー
 
  11、コミュニケーション
 
 
の11項目で、これらのうち1項目でもゼロ、
もしくはゼロに近い値があれば、
その人に指導者の資質はないと考えています。

僕の部屋にもこの項目が全部紙に書いて張ってありますが、
キャンプに行った時とか、次のトレーニングのことを考える時、
あの選手と話した時に俺の対応が横柄だったなとか、
フォローがなかったなといったことを一つひとつチェックするんです。

この解釈の仕方も皆さんとは少し異なるかもしれませんが、
例えば「責任」というのは僕個人の狭い範囲ではなく、
自分が日本の女子サッカーの将来を担っているのだという意味合いです。

また、代表選手については、僕がいつも選抜をしているんですが、
その時のキャンプの状態を見て、
次は選ばれるか選ばれないかという緊迫した状況の中で
選手はやっているのに、僕の背中に「情熱」が
感じられなかったらよくないだろうと。

こういうチェックを一つひとつ自分でしていかないと、
ずぼらな僕はつい流されていってしまいますし、
スタッフも逐一

「監督、きょうは全然情熱なかったですよ」

なんて言わないと思うんです(笑)。

ただ、指導をする時にあんまりこのことばかり考えていたら
動きが取りづらいので、選手の皆には自分の中の、
ある一線については予め伝えてあるんですよ。

例えば総務の子が皆に何かを伝達しているのに、
返事をしていないなんて時には、
その一線から出ているので僕は叱りますね。

トレーニングでも、失敗を恐れて
全然チャレンジしていないような子がいたら、
やはりガツンと叱る。

その時に

「あの子、なんで則さんに怒られたか分かる?
 ミスを怖がって自分のプレーを全然してないからよ」
 

というふうに、誰が見てもその基準が分かるようには
なるべくしているつもりです。

 「天命追求型の生き方、

水曜日, 2月 8th, 2012

              
  白駒 妃登美 (結婚コンサルタント・マゼンダスタッフ)

       『致知』2012年3月号
          特集「常に前進」より
       ────────────────────────

この時、発病前に読んだ話を思い出しました。
 
人間の生き方には西洋の成功哲学に代表される
「目標達成型」とは別に「天命追求型」があるというのです。

天命追求型とは将来の目標に縛られることなく、
自分の周囲の人の笑顔を何よりも優先しながら、
いま、自分の置かれた環境でベストを尽くす。

それを続けていくと、天命に運ばれ、
いつしか自分では予想もしなかった高みに
到達するという考え方です。

そこでは、自分の夢だけを叶えるfor meより、
周囲に喜びや笑顔を与えるfor youの精神、
つまり志が優先されます。

私は天命追求型、目標達成型という視点で
歴史を捉えたことはありませんでしたが、
これからお話しするように、
天命追求型はまさに日本人が歴史の中で培った
素晴らしい生き方であることに、
闘病を通してようやく気づいたのです。
 

      * *

天命追求型に生きた歴史上の人物といえば、
豊臣秀吉はその好例でしょう。

秀吉は徳川家康、織田信長と比べて大きく違う点があります。

家康や信長が殿様を父に持つのに対し、
秀吉は農家に生まれたことです。

農民の子の秀吉が最初から天下統一を夢見たでしょうか。
通説によると、秀吉は
「侍になるために織田家の門を叩いた」
ということになっていますから、
おそらく若き日の秀吉は、
天下を取るなど考えてもいなかったに違いありません。
しかし、秀吉の人生はその夢を遙かに超えてしまうのです。

ご存じのとおり、秀吉は最初、信長に
“小者”という雑用係の立場で仕えました。

雑用係は、もちろん侍の身分ではありません。
けれども、信長が秀吉を雇い入れた時、
きっと秀吉は、農民の自分に
目をかけてもらえたことに胸を躍らせ、
心から感謝したのではないでしょうか。

だからこそ、たとえ雑用係の仕事にも
自分でできる工夫を施したのだと思います。

寒い日の朝、信長の草履を懐に入れて
温めてから出した話は有名ですが、
草履一つ出すにも喜んでもらえるようアイデアを加えたのです。

やがて足軽となってからも信長を喜ばせたい
という思いは変わらず、一層の信頼を得て侍に、
さらに侍大将、近江国・長浜城の城持ち大名へと登り詰めるのです。

私のことを振り返ると、目標達成に突っ走っていた時は、
確かに夢は叶いました。
受験勉強、就職活動、子育て、
すべてにビジョンを描き目標を立ててやってきました。

しかし、見方を変えれば夢しか叶わなかったのです。
夢を超えた現実はやってきませんでした。

では、秀吉はなぜ夢を超えることができたのでしょうか。
想像するに、秀吉は最初から天下取りなど考えず、
いつも“いま、ここ”に全力投球する生き方を
貫いたからだと思います。

自分の身の回りの人たちに
喜んでもらえることを精一杯やっていった。
その結果、周囲の応援を得て次々と人生の扉が開き、
天下人へと運ばれていったのではないでしょうか。

まさに天命追求型の人生だったのです。

○博多の歴女・白駒妃登美氏の公式ブログ
 http://ameblo.jp/hitomi-mazenda/

「誰しもが自分の中のエベレストを登っている」

月曜日, 2月 6th, 2012

      
       
   栗城 史多 (登山家)

             『致知』2012年3月号
              特集「常に前進」より
         ─────────────────────────────

マッキンリーを登頂してからは、
とにかく無我夢中で世界の最高峰を登り続けました。

ただ、その中で感じたのは、
登山がいかに孤独な世界であるかということでした。

頂に立った時の感動や山で得た学びを、
帰国後友人に伝えようとしても、
まったく理解してもらえなかったんです。

だからよく登山は観客なきスポーツとか
非生産的行為といわれるんですが、
やっぱりこの感動を多くの人と共有したい。

どうにか伝えられる方法はないかなと思っていた時に、
偶然、あるテレビ局から
「インターネットの動画配信をやりませんか」
というお話をいただいたんです。

2007年、世界第6位の高峰、
ヒマラヤのチョ・オユーを登る時でした。
ただ、一つ問題があって、番組のタイトルが
「ニートのアルピニスト 初めてのヒマラヤ」
という名前だったんです(笑)。

それで、日本全国のニートや引きこもりの方から
たくさんメッセージをいただきました。

「おまえには登れない」とか、中には
「死んじゃえ」とかですね。
そういう悪いメッセージばかり。

それでも1か月以上かけて登っていきました。
しかし、頂上付近で天気が悪くなってガスがかかってしまい、
断念せざるを得なかったんです。

それで一回、5,300メートル地点にある
ベースキャンプまで下りていきました。

するとまた、誹謗中傷の嵐です。
「ああ、やっぱりダメだった」
「夢って叶わないんですね」と。

いったん8,000メートルまで行くと、
もの凄く体が衰弱するんです。
酸素が3分の1なので、気圧も3分の1になり、
体の水分がどんどん外に抜けてしまう。

そのため脂肪だけでなく筋肉まで落ちて、
全然力が入らなくなるんです。

ただ、このまま終わるのはどうしても悔しかった。
私は3日だけ休養を取り、再アタックしました。

そして、5日間かけて頂上につくことができたんです。

すると、それを見ていた人たちの言葉が
180度変わりました。

それもただ、「栗城は凄い」とかではなく、
「僕も本当は夢があって、諦めていたけど、
  もう一回やろうと思いました」とか
「私も何か始めようと思いました」と。

で、その時に思ったんです。

「ああ、自分だけが山に登っているんじゃない。
 皆それぞれ、見えない山を登っているんだな」
 
 
って。

講演会をしていても、
「この間の試験受かりました」
「夢叶えました」と、
私のところに報告に来てくれる人が多いんです。

先日も、41歳でようやく教員試験に受かって
先生になれたという方が報告にきてくださったりしました。

その人にとっては教員試験が見えない山であり、
エベレストです。

そして、誰しもが自分の中のエベレストを登っているわけです。
勿論、中には挫折してしまった人もいるでしょうが、
私はそういう人たちと夢を共有して、

「自分はできない」「無理だ」

と思っている心の壁を取っ払いたい。
見えない山に挑戦し、ともに成長していきたい。
それが私の目指す登山なんです。

 「未来は歴史の上にある」

日曜日, 2月 5th, 2012

   唐澤 るり子 (唐澤博物館代表)

    『致知』2011年10月号「致知随想」
     ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

…………………………………………………………………

 東京練馬の閑静な住宅街の一角に、
 江戸から昭和にかけての教育資料を展示する
 唐澤博物館があります。
 
 当館は私の父、教育史研究家・唐澤富太郎が
 長い歳月をかけて収集した数万点におよぶ研究資料の中から、
 特に選りすぐった七千点余りを展示しています。

 日本で最初に使われた国語教科書や第一号の卒業証書、
 時代を映す通知簿、児童作品、玩具など、
 当時実際に使われていた実物の資料がぎっしりと並んでいます。

 驚くべきことに、これらの夥しい資料は、
 富太郎が五十歳を過ぎてから個人で全国各地を巡り
 収集したものです。
 
 そして平成五(一九九三)年、富太郎八十二歳の時、
 自宅収蔵庫を改築して唐澤博物館を開館。
 
 晩年、「これらのものは執念で集めた」と語ったように、
 富太郎は教育史研究という一点に人生を懸けた人物でした。

 
     * *

 唐澤富太郎は明治四十四(一九一一)年、
 新潟の出雲崎に生まれます。
 生来、探求心が旺盛で、学業・操行ともに優秀だった富太郎は、
 小学生時代すでに「将来は必ず博士になる」と志を抱いていました。
 
 その後十四歳で上京し、師範学校で研究に没頭。
 更に学位論文で中世仏教教育を研究したことで
 仏教観が身体に沁みこみ、その後の研究姿勢に大きな影響を与えます。

 唐の禅僧・百丈懐海の言葉

 「一日不作一日不食」(一日作さざれば一日食らわず)
 
 
 を自ら揮毫し、仕事部屋に掲げ、研究に没頭していました。
 給料はすべて研究に費やし、貧しかったためスーツは一着だけ、
 破れるまで新しいものは買わないほどの徹底ぶりでした。

 また、研究生活には盆も正月もなく、
 いつも「引っかかったら鬼だぞ」と言って
 仕事場に籠もるのです。
 
 取り掛かったら一心不乱、研究に専念する。
 まさに、自他ともに認める「研究の鬼」でした。

 戦後、日本教育史に携わるようになった富太郎は、
 昭和三十年から三十一年にかけて
 『教師の歴史』『学生の歴史』『教科書の歴史』の
 近代教育史三部作を出版し、脚光を浴びます。
 
 その後、世界の教科書に目を向け、
 五十四か国の教科書を収集し、
 三十六年『世界の道徳教育』を発刊します。


 
 

 この本が世界から注目され、翌年ユネスコの招聘に応じて
 ドイツで講演を行っています。

 その折に欧米十六か国の教育現状を視察したのですが、
 最後に辿り着いたボストン美術館で衝撃を受けます。
 
 そこで日本庭園を背景に展示されていたのは
 江戸期の浮世絵や調度品で、西洋にはない
 日本独自の美の素晴らしさを再認識しました。
 
 同時に、日本の文化財が海外に流出し
 注目を集めているにもかかわらず、
 当の日本人が日本のよさをあまり理解していない
 愚かさに憤りを覚えるのです。

 ボストンから帰国した富太郎が
 戦後の教育史研究を改めて見て気づいたのは
 「児童が不在である」ということでした。
 当時は教育制度や法令といった
 上から目線の研究ばかりが為されていたのです。

 それに対して富太郎は、現実にその時代を生き、
 教育を受けた児童そのものに視点をあてた研究にこそ
 意味があると考えました。
 
 そして子供たちが実際に使ったノート、筆箱、
 ランドセル、教材、教具など、
 児童を取り巻くありとあらゆるモノを通して、
 その実態に迫ろうとしたのです。

 ここから全国各地を巡り教育資料を収集するという
 新たな研究生活が始まります。

 当時の日本は、終戦によって価値観が一変し、
 新しいものばかりが追求された時代です。
 
 一度は捨てられ埃にまみれたような教育資料を
 宝の如く大事に両手で抱え、自宅に持ち帰る日々が続きました。

 前例のない型破りな研究に、同業者からは
 冷淡な目で見られることもあったようです。
 それでも富太郎は資料保存の意義を熱心に語り、
 全国の教え子や教育関係者を巻き込んで収集にあたったのです。

 富太郎は
 
 
 「モノにはそれをつくった人、使った人、
  大事にとっていた先人の知恵や心がこもっている。
  それを感じ取ることが大切である」
  
  
 と常日頃から口にしていました。
 百万言を費やしても、実物の持つ情報量には
 敵わないというのです。
 
 そのため、新しいものばかり取り入れ、
 古いものは捨てるという当時の軽薄な風潮が
 許せなかったのでしょう。
 
 そして常人には理解し難いような収集活動に奔走することで、
 高度経済成長で商業主義に蝕まれる危険性に
 警鐘を鳴らそうとしたのでした。

 唐澤コレクションの中には、
 戦前どこの小学校にもあった奉安殿
 (教育勅語や御真影を納めるため学校の敷地内に造られた施設)や
 教育内容の一変を象徴する墨塗りの教科書もあります。

 GHQの占領政策によって戦前の教育が否定されて以来、
 当の日本人が自らの教育の実態を省みることが
 少なかったのではないでしょうか。
 
 歴史の真実を物語るこれらの資料を遺した功績は
 大変意義深いものだと感じます。

 生前、富太郎はよく
 
 
 「未来は歴史の上にある。
  過去を知らずして未来はつくれない」
  
  
 と申しておりました。
 
 父・富太郎が自らの命のすべてを懸けて
 後世に遺してくれたものを、
 一人でも多くの方々に伝えることが私の役目であり、
 使命であると感じています。

「自ら習い、盗まなければ身につかない」

土曜日, 2月 4th, 2012

 
  一龍斎 貞水 (講談師、人間国宝)

      『致知』2009年4月号
          特集「いまをどう生きるのか」より

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最近の若い人はよく、
「教えてくれないからできない」なんて言うけれども、
そういう人間は教えたってダメですよ。

カメラだって、シャッターを押せば
写真を写すことはできる。
けれども、カメラ、写真の神髄は、教えようがない。
つまり、教えてくれないんじゃなくて、
自分が何を受け止め、感じるかでしょう。

だから伝統芸というのは上の人が後に続く人に、
ついてこいというものではない。
後に続く者が先人の芸、技を盗み、
自分の中に取り込んで練り上げてゆく。
それが伝統を守ることに繋がってゆくのだと思います。

僕はたまに

「貞水さんはあまり後輩にものを教えませんね」

って言われるけど、僕らは教えるんじゃなくて
伝える役なんです。
伝えるということは、それを受け取ろう、
自分の身に先人の技を刻み込もうとするから
伝わっていくもの。

教えてくれなきゃできないって言ってる人間には、
教えたってできませんよ。

実は我々も若い頃、自分の技の拙いのは
先輩が教えないからだって
愚痴っていたことがありました。
そうしたら師匠に言われましたよ。

「おまえたちは、日頃いかにも弟子だという顔をして
 俺の身の回りの世話をしているくせに、
 俺が高座に上がっている時、
 それを聴こう、盗もうって気がちっともない。
 ホッとして遊んでる。
 
 俺が高座に上がっている時は、
 どんなに体がきつかろうと、
 お金を払って見に来てくださっている
 お客様のために命懸けでしゃべってるんだ。
 
 その一番肝心な時に、聴いて自分から習おう、
 盗もうって気がないからうまくならないんだ」

『松下幸之助 成功の秘伝75』から

金曜日, 2月 3rd, 2012

『松下幸之助 成功の秘伝75』(渡部昇一・著)より
 

 幼い頃から松下幸之助を
 尊敬の念をもって見つめ続けてきたという著者は
 かつて松下氏の依頼を受けて伝記を執筆し、
 氏の晩年には月に一度、
 直接話を聞いてその教えに触れたといいます。

 本書は松下氏と親交のあった著者が、
 自身の体験に基づく深みのある解釈を
 織り交ぜながら、氏の歩んだ生涯をたどり、
 氏が体得し実践してきた成功の秘伝を
 75のテーマに厳選したものです。

    *     *

   松下さんは数多くの苦労をしてきたが、
   苦労話を偉そうに話していない。
   「いまから見れば大変なようだが、
    当時としてはそんなでもなかった」
   という見方ができるのは、
   自分を客観視できる“大人”の証拠である。
                 ―― 第一章 大をなす者の条件 より

   若さの特権とは、時として
   最も危険な要素を無視して
   決断を下すところにある。
   若さと蛮勇がない人は、
   一業を興す人にはなれないのである。
                 ―― 第二章 少青年期をいかに過ごすか より

   本物の商売人には
   お客さんを喜ばせたいという
   本能が備わっている。
   徹底的に相手側を喜ばせたいという気持ちが
   なければ、商売は絶対にうまくいかない。
                 ―― 第三章 商売の心得 より 

   どんな貴重なものでも量を多くすれば、
   ただに等しい価値をもって
   提供することができる。
   そうすれば貧乏から生ずるあらゆる悩みは
   除かれていく――これが松下さんの得た悟りであった。
                 ―― 第四章 経営とは何かより

  
   独立した商売人としての松下さんの最初の成功は、
   頑張りつつ柔軟に転換したというところに理由があった。
   事業家は頑張らなくてはいけない。
   しかし、固執してはいけないのである。
                 ―― 第五章 経営者の資質 より

    *     *

 人生の指針となるものから、
 事業経営に関する幅広いテーマについて、
 具体的なエピソードを紹介しながら、
 松下氏の生き方、考え方に迫っていきます。

 その中でも、氏が自転車で
 品物を運んでいた際に自動車に跳ね飛ばされ、
 走ってきた電車に危うく轢かれそうになる
 という大事故に遭ったときの話は印象的です。

 氏は命の危険にさらされながらも、
 大した怪我を負わなかったことから、
 かえって自分は強い運の持ち主であると
 信じるようになったといいます。

 また、松下氏が両親から受けた影響や
 丁稚小僧時代の実体験の数々は、
 その後の大経営者・松下幸之助の
 人生観、仕事観のベースを明らかにしており、
 一読の価値ありです。

 どのようにして「経営の神様」、
 松下幸之助は生まれたのか。
 
 本書には「成功するための秘伝」が
 多岐にわたって紹介され、
 人生や仕事に活かすヒントに溢れています。
 自信をもっておすすめする一冊です。

「現場力の高め方」

木曜日, 2月 2nd, 2012

      
       
  遠藤 功 (早稲田大学ビジネススクール教授、
        ローランド・ベルガー会長)

     『致知』2012年2月号
       特集「一途一心」より
         

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現場力を高めるにはどうすればいいのか――。
経営者にとって痛切な願いであり、永遠の課題であるに違いない。

しかし、それは社長が現場に出ていって
「おまえたち、もっとしっかりしろ」と檄を飛ばすことではない。
現場力というボトムアップの動きは、
実はトップダウンからしか生まれない。

重要なのは、経営者が現場に対してことあるごとに

「君たちが会社のエンジンなんだぞ」

と働きかけ、モチベーションを高めること。

現場の仕事をよく見て、

「この前のあの改善、よかったな」

と褒めること。

そして貢献した人物を正しく評価して登用していくことである。
経営者がこの努力を怠っては現場力の向上はあり得ない。

そもそも現場には慣性の法則が流れている。
現状のまま、決められたことを繰り返していることが
現場にとって一番楽である。
しかし、それでは現場は進化しない。

私がコンサルタントとして企業に入り、
まず着手することは、自分たちがいかに惰性に流され、
言われたことしかやっていないのかを気づかせ、
目を覚まさせることである。

それには「あなたたち、ダメですよ」と叱っても意味がない。
よいお手本、よい事例を実際に見せることが最も効果的である。

そこで私の顧問先で現場力の優れた他企業に連れていき、
見学をし、社員の話を聞いてもらう。

例えば、トヨタ自動車の生産現場に連れていき、
働いている人の話を聞かせると、
やはり皆「すごい」と驚く。

トヨタでは、年間約六十万件の改善提案が出て、
その九十%は実行されている。

当然品質もよくなり、コストダウンもできる。

見学に訪れた一人の社員が、トヨタの社員に

「どうしてこれだけの改善ができるのですか?」

と質問したことがある。

うちの会社はできないのに、なぜできるのか、
という素朴な疑問である。

それに対し、トヨタの社員は

「なぜできないのですか?」

と逆に質問していた。

これが現場力の決定的な違いだ。

トヨタでは自分たちの業務を改善するのが
当たり前だという企業風土が根づいている。
一方、現場力の弱い企業には改善するという風土がない。

この事例からも分かるように、
現場力は一朝一夕に高まるものではなく、
時間をかけてつくっていく組織能力である。

一年やそこらの取り組みで、簡単に手に入るものではなく、
五年、十年かけて根づかせていくもの。
倦まず弛まず現場力の重要性を説き続け、
その仕組みをつくり、根づかせるのが経営者の仕事といえる。