まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「窓際社員が成し遂げた奇跡のごみ改革」

木曜日, 3月 15th, 2012

      
  鈴木 武 (環境プランナー)

   『致知』2007年2月号
   特集「一貫(いちつらぬく)」より

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 排出物の分別置き場には、いくら分別の注意書きを貼っても
 真面目に読んでくれる人はほとんどいません。
 
 だからといって、指示通りに出してくれない社員を
 その場で呼び止めて注意しても効果はありません。
 
 自分の仕事と関係なく、やりたくもないゴミ出しを
 やらされて頭にきている人を説教すれば、
 火に油を注ぐようなものです。
 
 「あの生意気な環境の新人はなんだ」と反感を買い、
 その後の協力が望めなくなるばかりか、
 悪い噂が広がりクビにつながる可能性もあります。
 
 だから私は、こうしなさいと命令したことは一度もありません。
 指をさしたらその相手は敵になるのです。
 
 ではどうやって無関心な社員の意識を喚起し、
 気分よく協力してもらうか。
 すべては仕掛け、仕組み、工夫次第です。

 まず、前日の夕方に分別の棚を
 全部きれいに片付けて雑巾がけをしました。
 
 そして各コーナーに一つずつ、
 排出物を模範的なやり方で出しておくのです。
 
 翌朝各部署から排出物を持ってきた人がそれを見ると、
 
 
 「よそは結構きれいに置いてるな。
   いいかげんな出し方はできないぞ」
  
  
 となります。
 
 出しておいた排出物がモデルになって
 私の代わりにしゃべってくれるのです。
 
 出しておく位置を毎日少しずつ変えておけば
 不自然な感じはせず、私が演出していることがばれずに済みます。
 
 コピー用紙の束を持ってきた人が、
 縛り方が悪いために荷崩れしてしまった時には、

 「これは私がやりますから」
 
 と、まず自分がやって見せながらうまく協力を求めます。
 
 
 「実はこの荷造りでは、業者のおばちゃんが腰を痛めるし、
  引き取りの値段も減ってしまうんです。
  だからできれば次からは、おばちゃんのためにも
  こんなふうに縛っていただけるとありがたいんですが」。
  
  
 そう言えば、「分かった、考えとくよ」と、
 怒りに火が点かないし、
 「俺もやるよ」と手伝ってくれる人も出てきます。

 それから、私は七つ道具を常に携帯して
 いろんな場面で活用しました。
 
 ゴミの出し方について説明する時など、
 懐からおもむろに十手を出して指し示しながら話をする。
 まるで漫画です。
 
 しかめっ面をしていた相手の表情も
 「それ、何ですか」と和らぎ、
 笑いの中で分別に興味を持ってもらえるのです。

 日光江戸村で仕入れてきた大判金貨も、
 たいていの人は現物を見たことがありませんから
 興味を持ちました。
 
 ゴミを捨てに来た社員に触ってもらい、
 重さを実感してもらいながら、
 この百グラムの金塊(きんかい)は、
 携帯電話のICに使われている金メッキを
 5000~7000台分集めることでできるんですよ、
 とうんちくを披露します。
 
 金貨とともに分別の大切さが強く印象に残り、
 噂が広まって他の人も見に集まってきます。
 分別意識を高めてもらう絶好のPRになるのです。

 置き場が隣接していたガラスと電池は、
 なかなか指定通りに分別されず、
 よく二つが混じった状態で放り込まれていました。
 
 考えに考えた結果、私は一つの妙案を思いつきました。

 排出物を入れる缶の位置を、
 床から1メートル高く設置したのです。
 
 人間の心理とは面白いもので、
 入れ物が床にあればろくに分別もせずに放り投げるけれども、
 位置が少し高くなっただけで、
 そばまで寄ってきて丁寧に分けて入れる。
 
 これは劇的な効果がありました。

 何をやるにせよ、それにとことん燃えて取り組んでいると、
 次々とアイデアが閃くものです。
 
 朝の3時、5時、6時と閃いては目が覚め、
 メモしたアイデアを私は次々と実行していきました。
 
 その結果、それまでゼロに等しかった
 松下通信工業のリサイクル率は99%になり、
 それによって約2億円かかっていた
 廃棄物の処分費が節減できました。
 
 工場内はほとんどゴミのない状態となり、
 33か所ある排出物置き場はいつ開けても空っぽです。
 
 その運動は他の松下グループにも広がり、
 私が定年を迎えた平成14年には、
 松下グループ全体で98%のリサイクル率が実現しました。

 こうした活動は通常、トップダウンで進められるものです。
 松下通信工業のようにボトムアップで改革を成功した実例は
 これまで日本になく、常識をひっくり返す快挙でした。

 多くの企業で
 
 「うちの社長は頭が固くて駄目だ」

 「下がガタガタ言ったって、
  上がやる気ないんだからできるわけない」
  
 といった愚痴が聞かれます。
 
 しかし、力のない窓際族でも、知恵と努力と工夫を重ねれば、
 一万人の会社でも改革することはできるのです。
 
 

 「一日一センチの改革」

水曜日, 3月 14th, 2012

      
  鈴木 武 (環境プランナー)

    『致知』2007年2月号
     特集「一貫(いちつらぬく)」より

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 ほとんどの方が気づいていないことと思いますが、
 いま、私の住む東京都目黒区では、
 区内にある自動販売機の脇に、
 これまでなかった空き容器の回収ボックスが
 次々と設置されています。
 
 定年後にボランティアで区内の掃除を
 するようになって驚いたのは、
 空き容器のゴミのあまりの多さでした。
 
 自販機のそばに回収ボックスがついていないことが
 原因だと考えた私は、まず行政にその現状を訴えました。
 
 しかし先方は
 「条例条文にそのような項目はありません」と
 繰り返すばかりで埒(らち)があかない。
 
 次に町内会を訪ねてみましたが、ここはもっとやる気がない。
 いざこういう問題に直面しても、
 それをどこへ持っていったらいいかというのは、
 意外に分からないものなのです。
 
 結局私は、一人で動き始めました。
 
 
 どうやったか。

 自販機をよく見ると、設置されている住所、
 メーカーの管理ナンバーと連絡先が記してあります。
 そこに番号非通知で電話を入れてこう言うのです。

「ちょっと控えていただけますか。
  こちら目黒区○○町○番地、管理ナンバー○○○○。
  この自販機の回収ボックス設置をお願いいたします」

「どちら様でしょうか?」

「近くの住民です。よろしくお願いします」

 十日もすれば回収ボックスが設置されています。
 私はいま、外で回収ボックスのない自販機を
 見かけるたびにこれをやっています。
 
 
 あ、見つけた。
 
 ピッピッピッと電話して、はいおしまい。
 
 地元のボランティアの方々にお教えすると、
「おもしろいわね」と大勢の人が真似するようになり、
 回収ボックスの設置がどんどん進むようになりました。
 
 住民からこれだけ多くの声が届くようになると、
 メーカーも新たに自販機を設置する際には
 同時に回収ボックスの設置もせざるを得なくなります。

 私は平成十四年に松下通信工業を定年退職し、
 現在、緑豊かな美しい地球を子どもたちに残す
 ゴミゼロ運動を展開しています。
 
 その目標を実現するために、いちいち行政や法に訴えて
 大騒ぎをする必要はありません。
 
 まず自らが行動すること。
 小さなことを淡々と実践し続けることによって、
 ちっぽけな一人の人間が世の中を
 大きく変えていくことができるのです。
 
 私はこの呼吸を、現職時代にゴミ問題に
 奮闘する中で会得しました。
 
 
 

 ものの見方・考え方を養う

月曜日, 3月 12th, 2012

『何のために働くのか』よりの紹介。

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 安岡正篤先生は思考の三原則として、
 次の三つをあげておられます。

  ・根本的にものを見る。
  ・多面的にものを見る。
  ・長期的にものを見る。

 安岡先生が言っておられるように、大局的にものを見る、
 ものの根本を見ることはとても大事です。

 私たちが物事を判断する場合、
 ともすれば枝葉末節(しようまっせつ)にばかり
 目がいきがちですから、常に
 「果たしてこれが本質なのかどうか」と
 考える習慣をつけるといいでしょう。

 また、近視眼的にならないように、
 できるだけ長期的視野に立ってものを考えてみる。
 そして、いろいろな角度から
 多面的にものを考えてみる態度も大切です。

 さらに、「策に三策あるべし」と言うように、
 常にA案、B案、C案と三つの案を用意しておき、
 いろんなケースに備えるのも大事なことです。

 この思考の三原則は自分一人で考える
 というものではなりません。
 「君はどう思う」と周囲の人に問いを投げ掛けて、
 意見を聞いてみるようにするべきです。
 特に、多面的にものを見るためには、
 いろんな人の意見を聞くのが一番です。

            

「自己改革の6つのキーワード」

土曜日, 3月 10th, 2012

      
       
  大谷將夫(タカラ物流システム社

    『致知』2012年4月号
      特集「順逆をこえる」より
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 多くの経営者が近年の経営学を勉強されて
 効率化を図られているのは非常にいいことだと思います。
 私はこれを合理主義の経営と名づけて、今日まで取り組んできました。

  ところが職場で働く人間を大事にしたり、
  モチベーションを上げていって
  実力以上の力を出してもらうという人間に立脚した経営、
  これを人間主義の経営と言っていますが、
  これがいまの経営者は非常に弱いように思うんですね。

 合理主義を追求して、例えば10部門中9部門までが
 赤字だった長崎運送の場合、1部門を残して
 あとは全部切り捨てればよかったかといえば、
 そんなことないですよ。
 
 本当は再建できる要素があるかもしれないのに、
 赤字だから切り捨てろというのではあまりに短絡的です。

 ですから私の経営の基本にあるのは、
 一つが合理主義に則った業務改革・業務改善、
 そしてもう一つは人間主義に基づいた意識改革。

 どれだけ合理的・効率的に考えていいことばかり言っても、
 元気の出ない人がそれを実行しても効果は上がりませんよね。

 私は社長として就任する前の日曜日に
 全社員320名を集めて、
 経営方針発表会を開きました。
 
 そうしたらいままで社長の顔すら見たことがない
 という社員が半分近くいたんですよ。
 そんな会社では、社長がいくら発破をかけても伝わりませんよね。

 私はその場で全員に訴えかけました。
 きょうから会社が変わっていくから、
 皆さんも意識を変えてくれよと。

「明るく、

 元気に、

 前向きに、

 いまやる、

 頭をつかってやる、

 必ずやる」

 これは私が掲げた自己改革の6つのキーワード。

 もちろんただやろうじゃないかと
 精神論を唱えるだけではなく、
 具体的な再建計画も全員にお伝えしました。
 
 会社が危機的状況に置かれていることすら
 知らない社員もいましたから、
 ここで全員の意識を一つにまとめて一丸となって頑張ろうと。

 すると、社員の目の色が変わりましたね。
 懇親会では舞台から降りて
 社員一人ひとりと握手して回りました。

 興奮する社員もいれば涙ぐむ社員までいて、
 それはもう大変な盛り上がりでした。

 320人もいれば本当にいろんな社員がいます。
 でもね、そういう人たち全部をまとめて
 一つの方向へ引っ張っていくのが
 社長の一番重要な役割だと私は思っているんですよ。
 
 社員もまた会社でそれぞれ役割を担っているわけですから、
 私はオーケストラでいう指揮者みたいなものだと思います。

 その日から私は一気に勝負をかけました。
 なんせ十年間だらだらしていた会社だから、
 様子を見ながらなんて言っていたら
 またすぐ元の意識に戻っちゃう。
 
 最初の3か月が土台づくりの勝負だと思って、
 もう朝から晩まで
 
 
 「これじゃあかん」
 
 「君の考えはどうなんや」
 
 
 と叫び通しでしたね。

 それまでぬるま湯みたいなところで、
 見せかけだけの仕事をしている人が多かったから、
 実際320人の社員がいても
 戦力的には7掛けくらいで見ていましたよ。
 つまり224人。

 でもね、もし彼らがやる気になって
 普通の人の1,2倍働くようになったら
 384人分の戦力になるでしょ。
 
 そうしたら同じ人員のはずが、
 モチベーションが上がっただけで
 新規に160人採用したのと同じことになる。

 だからいかに社員を元気にさせることが
 重要かってことですね。
 
 一人を単に一人と勘定しているようでは、
 本当の会社の実力というものは見えてきません。

不便だけど不幸でない

金曜日, 3月 9th, 2012

言葉は要りません。
ただ観て下さい。

アルバム ライナーノートから

 人生の途中で乳がんになり、夫が悪性リンパ腫と闘った知人の女性が、「不運だけど不幸じゃない」と言った。生まれながらにして手足のない先天性四肢欠損症の佐野有美さんは、「不便だけど不幸じゃない」と微笑む。与えられた状況を受け入れながら前進する人の言葉はズシリとくる。私たちは五感(視聴嗅味触)を生ずる五つの感覚器官の五官識の世界にいる。有美さんはそれを超えた六識の世界を持っている。私たちには見えない、感じられない力を四肢の代わりに持っている。
それは幼いころからの母親の厳しい訓練で得たのか、諦めない不断の努力によって培われたものなのか…。

小学校の校長先生は、「あみちゃんが何事にも一生懸命に取り組んでいる姿を見て、ラクをしよう、ズルをしようという子がいなくなりました。あみちゃんの頑張りや前向きな姿勢が刺激になって、ほかのたくさんの子を変えていきました」と母親に告げた。人を変える力を持っているのだ。
本人は、「もし悩んでいる人がいたら、私には手がないけど、心の手を差し伸べたい。わたしには足がないけれど、真っ先に駆けつけてそばにいてあげたい」と思っている。

アルバム『あきらめないで』は、「誰にでもやさしくなりたい」という、有美さんの、「心に寄り添いたい」というメッセージである。聴き進むにつれ、ドキドキしてくる。私たちは抱きしめたり、走ったりできるが “ココロの欠損症” なのではないのかと。

「心底笑っているか?」「本当に見えているか?」「チャレンジしているか?」と自問せざるを得ない。
2011年3月11日、私たちは普通であることの大切さに改めて気付いた。立ち止まって矜持や忍耐、互恵について考えたり、己を省みた人も多いだろう。
歩み続けてきたから今日があり、今を一生懸命に生きるから明日がある。そういう時代が生んだアルバムであることは確かだ。

「川端康成さんが見せた涙」

木曜日, 3月 8th, 2012

      
  伊波 敏男(作家・ハンセン病回復者)

         『致知』2012年4月号
         特集「順逆をこえる」より
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私の人生を振り返ると、
人との出会いに恵まれたと思いますね。

出会いということでは、私が作家になった原点は
川端康成さんとの邂逅だと思います。

川端さんは『雪国』を発表した昭和十年頃、
ハンセン病療養所に収容されていた一人の青年と出会うんです。

彼は自身の魂の葛藤を原稿にするのですが、
世に発表していいレベルか分からない。

それで売れっ子作家だった川端さんに原稿を送りつけるんです。
それを読んだ川端さんは大変感動して、
『文学界』に掲載するための仲介の労を取った。

それが北条民雄の『いのちの初夜』といって、
増刷に増刷を重ねる大ベストセラーとなりました。

そういう繋がりを持っていたことから、
川端さんは昭和三十三年に沖縄に講演で招かれた時、
沖縄のハンセン病の子供たちに会いたいとリクエストされたんです。

小中学生合わせて五十六人の作文の中から私が選ばれ、
お会いする機会を得ました。中学三年の時です。

驚きましたね。

当時ハンセン病療養所に外来者が入るにはマスクをして
消毒済みの長靴を履いて、と完全防備するのが普通でしたが、
川端さんはワイシャツ一枚。

「関口君、作文を読みましたよ」

と言って、手を握ろうとしたから、慌てて手を引いたんです。

そうしたら悲しそうな顔をしてね、
今度はご自分の椅子を引き寄せ、私の両太腿をはさみ、
唾がかかるほどの近さでお話しされました。

私は北条民雄の全集に掲載されていた
川端さん宛ての手紙文を覚えていたんです。

「僕には、何よりも、生きるか死ぬか、
  この問題が大切だったのです。
  文学するよりも根本問題だったのです。
  生きる態度はその次からだったのです」

「人間が信じられるならば耐えていくことも出来ると思います。
 人間を信ずるか、信じないか」

諳んじてていた北条の手紙の一部を口にすると、
川端さんはふわーっとシャボン玉のような涙を浮かべ、

「……君は分かっています、北条民雄の悲しみが分かっていますよ」

と。そして、

「いっぱい蓄えなさい。そしていっぱい書きなさい」

と言われました。

随行の方々から時間だと促され、
川端さんは部屋を出ていかれました。

しかしもう一度戻ってこられて、

「関口君、欲しいものはありますか」

と聞くんです。

「本が欲しいです」と答えたら、一か月後、
木箱でたくさんの本が送られてきました。
本を読むことによって
夢をたくさん描くことができたと思っています。

「人生は、踏み切る、割り切る、思い切る」

水曜日, 3月 7th, 2012

             
  津田 晃 (野村證券元専務)

     『致知』2012年4月号
      連載「二十代をどう生きるか」より

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 昨今の厳しい経済情勢下、希望する会社に就職できずに
 悩んでいる若い人は多いだろう。
 
 私が就職した四十年前といまでは随分事情も異なるが、
 本来の希望とは異なる道を歩んできた私の体験は、
 なにがしかの参考になるのではなかろうか。

 私は商社で活躍していた父の勧めで商社マンを志し、
 早稲田大学の商学部へ入学した。
 
 在学中に広告にも興味を持ち、
 就職先は大手商社か電通に絞り込んでいた。

 就職活動の時期、親しい友人の一人が日本脳炎に罹って出遅れ、
 彼には昭和四十年不況の煽りで不人気だった
 証券会社くらいしか求人は残っていなかった。
 
 彼から頼まれて野村證券の大学OBとの懇談会に
 付き合いで参加したところ、後でOBの一人からご連絡をいただいた。
 
 証券会社はこれからバラ色だ、と熱心に入社を勧められたのだ。
 
 無下に断るわけにもいかず、ゼミ担当の教授に相談してから
 返事をすることにした。

 貿易論の教授からは初志を貫いたほうがよいと言われたが、
 広告論の教授の見解は違っていた。
 
 海外事情に詳しいその教授は、
 アメリカでは証券ビジネスが急成長しており、
 いずれ日本もそうなるだろうとの見解を示され、
 どうせ選ぶなら自分を求めてくれる会社がよいと勧められた。
 
 私はそのアドバイスに心を動かされ、
 それまで考えもしなかった
 野村證券への入社を決意したのだった。

 ところが入社後の仕事は、
 最初にイメージしていた顧客の資産管理の仕事とは
 大きく異なっていた。
 
 研修が終わるや分厚い高額所得者名簿と商工名鑑を渡され、
 これを見て自分でお客様を探してこいと命じられ
 ショックを受けた。
 
 案の定、訪問先では
 「証券会社なんて縁起が悪い」などと罵られ、
 塩を撒かれたり、名刺を目の前で破られたりと
 散々な目に遭った。

 大変なところに入ってしまった……。

 悩んで入社を勧めてくれた教授のもとへ相談に行った。
 その時いただいた言葉はいまも心に残っている。
 
 
 「人生は、踏み切る、割り切る、思い切るの三切るだ。
 
  踏み切ったらまずは割り切って一所懸命やってみなさい。
  それでダメなら思い切ればいいじゃないか。

  君は踏み切ったばかりでもう思い切ろうとしているが、
  それはまだ早い。
  もうしばらく割り切って続けてみるべきだ」

 私は原点に返って仕事に打ち込むことにした。

「仕事の鬼になれ」

火曜日, 3月 6th, 2012

道場 六三郎 (銀座ろくさん亭主人)

             『致知』2012年4月号
              特集「順逆をこえる」より
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  修業時代は先輩やオヤジさん(親方)から
  非常にかわいがってもらえて、
 別段辛いことってなかったですね。

 僕は調理場でも何でも、
 いつもピカピカにしておくのが好きなんです。
 例えば鍋が煮こぼれしてガスコンロに汚れがつく。
 
 時間が経つと落とすのが大変だから、
 その日のうちにきれいにしてしまう。
 そういうことを朝の三時、四時頃までかかっても必ずやりました。

 それで、オヤジさんが来た時に
 「お、きれいやなぁ」と言ってもらえる。
 その一言が聞きたくて、もうピカピカにしましたよ。
 だからかわいがってもらえたんですね。

 それと、毎日市場から魚が入ってくるんですが、
 小さい店ですから鯛などは一枚しか回ってこない。
 
 でも僕は若い衆が大勢いる中で、
 その一枚を自分でパッと取って捌きました。
 そうしないと、他の子に取られてしまいますから。

 ただ最初のうちはそういうことを、
 嫌だなぁと思っていたんです。
 
 というのも、「いいものは他人様に譲りなさい」と
 親に言われて育ってきましたから。
 
 半年ぐらい随分悩んだんですが、
 でもそんなことばかりをやっていたら、
 自分は負け犬になってしまう。
 
 だから僕も、まだ青いなりに
 「仕事は別だ」って思ったんですよ。
 仕事だけは鬼にならなけりゃダメだ、と。
 そう思って、パッと気持ちを切り替えたんです。

 結果的にそういう姿勢が先輩や親方からも認められ、
 それからはもう、パッパ、パッパと仕事をやるようになりました。
 
 僕の若い頃には「軍人は要領を本分とすべし」
 よく言われたものです。
 
 要領、要するに段取りでしょうな。
 だから要領の悪い奴はダメなんですよ。
 そうやって先輩に仕事を教えていただくようにすることが第一。

 仕事場の人間関係の中でも一番大事なのは
 人に好かれることで、もっと言えば
 「使われやすい人間になれ」ということでしょうね。
 
 あれをやれ、これをやれと上の人が言いやすい人間になれば、
 様々な仕事を経験でき、使われながら
 引き立ててもらうこともできるんです。

 ただし、ダラダラと働いても仕事って覚えられないんですよ。
 自分でテーマをつくらないと。
 
 僕の場合は若い頃から、今年は何と何と何と何とを覚えようと、
 必ずノートに書くようにしてきました。
 そしてそれを何とか仕上げるよう努力していく。
 
 今年は何をする、そして一年が過ぎる。
 来年は何をする、俺ができないのは何だ? と。
 それを探して、今年はこれとこれだけは覚えようということで、
 一つずつ自分の課題をこなしてきました。

 結局のところ、ものを覚えるというのは、
 覚えるべきことを自分で探すことから
 始まるんじゃないですか。
 
 教わろうという気のある者は、
 自ら盗むようにして学び、吸収していく。
 人から言われて嫌々やっていたのでは、
 いつまで経っても成長しませんね。

「坂村真民先生の詩魂を後世に」

日曜日, 3月 4th, 2012

       
                   
         中村 剛志 (愛媛県砥部町長)

        
        『致知』2012年3月号
            「致知随想」より

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『致知』の読者にお馴染みの仏教詩人・坂村真民先生が
九十七歳の天寿をまっとうされて五年の歳月が流れました。

先生は生前、

「念ずれば花ひらく」

をはじめ数多くの詩を発表され、
その求道の生活から生まれる珠玉の言霊から優しさ、
勇気や希望を感じ取られた方も多いのではないかと思います。

先生が四十年以上をお過ごしになった
私どもの愛媛県砥部(とべ)町では、
その偉業をなんとか顕彰できないものかと考え続け、
生誕百周年に当たる平成二十一年、
私が町長として発案したのが記念館を建設することでした。

まずは同年一月発行の『広報とべ』で
町民の皆様に次のように語り掛けました。

「私の夢は『坂村真民記念館』を創ることです。
  より多くの人に、真民さんの詩に触れていただき、
  自然愛、人間愛の尊さと、平和への感謝と祈りを
  学んでいただきたいと思っています」

幸いに記念館建設の願いは多くの町民のご賛同を得、
町議会のご理解をいただいて、
建物の本体工事がほぼ終了しました。

今年の三月十一日にはオープンし、
全国のファンの皆様を迎え入れる運びです。

私が記念館建設を打ち出したのには、
いくつかの背景がありました。

当町はこれまで伝統工芸の砥部焼を観光や
地域おこしの軸としてまちづくりを進めてきました。

しかし、近くに高速道が完成してからは
国道沿いの販売店にかつてのような活気がなくなり、
新たなまちづくりの施策が求められていたのです。

「坂村真民先生生誕百年記念の集い」開催の話が
持ち上がったのは、そういう時でした。

準備段階で気づいたのは、
全国には私が思っていた以上に
先生のファンがたくさんいらっしゃることでした。

実際、集いにはイエローハット創業者の鍵山秀三郎さんや
托鉢者の石川洋さん、早稲田大学元総長の奥島孝泰さんなど
高名な皆様にご臨席を賜り、
「朴(ほう)の会」という先生を慕う会の会員さんも
たくさん集まってくださいました。

地元にいてはなかなか分からないことですが、
先生の詩や言葉がここまで深く
日本中に根を張っていることに
私は驚きを禁じ得なかったのです。

真民先生の詩や歩みを
より広く知っていただくのが当町の役割。
それがひいては町の活性化にも繋がる――。

そう考えた私はご遺族に快諾をいただいた上で
建設計画を発表しました。

総予算は約二億五千万円。
町の財政負担を少しでも減らすため、
六年前の町村合併の折に出た合併特例債を活用し、
全国の皆様から寄付金を募ることにしました。

現在、寄付金の額は五千万円に及んでおり、
浄財をお寄せいただいた皆様への感謝の思いは
とても言い尽くせません。

建物は鉄筋コンクリート造り平屋建てですが、
随所に木板を配し、瓦屋根を取り付けて
温かみを醸し出しています。

二百坪の室内には先生自筆の詩が書かれた扁額や軸、
色紙、さらに言葉が書かれた葉や木片なども多数展示予定で、
先生が詩を創作された居間「たんぽぽ堂」の様子も
再現したいと考えています。

先生は生前、テレビにも多数出演されており、
在りし日のインタビューや対談の様子を紹介する
映像のコーナーを設けることで、
お人柄をより身近に感じていただけることでしょう。

我われ砥部町民にとって
真民先生はとても親しみのある存在でした。

「朴庵」と名付けた建物内で、
毎月五十人前後のファンの皆様に講話をされていました。

県庁所在地の松山でやればもっと注目を集められたろうに、
先生はそれをよしとせず、地元での小さな集まりを
とても大事にされていたのです。

また、平成三年、仏教伝道文化賞を受けられた際には、
多額の賞金をそのまま町の発展のためにと寄附されています。
このように町を深く愛されたからこそ、
町民もまた先生を慕ったのではないかと思います。

真民先生を知る人は皆、その優しく慈愛溢れる
お人柄に魅せられました。
先生が宇和島東高校などで教鞭を執られていた頃の
教え子の皆さんもそうおっしゃるところをみると、
きっとお若い頃から温厚な方だったのだと思います。

私もかつてライオンズクラブに所属していた時、
先生に講演を依頼したことがあります。

先生は詩作に集中するため夕方に床に就き未明に起床、
近くの重信川まで歩いて大地に額ずいて祈る
という求道者さながらの生活を長年続けられていました。

午後七時からの講演はご無理かと思い相談したところ、
快く応じてくださったことをいま懐かしく思い出されます。

しかし、先生の作品はただ優しく温かいだけではありません。
私の大好きな「鳥は飛ばねばならぬ」をはじめとして、
人生に処する上での厳しさが伝わってくる詩が数多くあります。

鳥は飛ばねばならぬ

人は生きねばならぬ

怒濤の海を

飛びゆく鳥のように

混沌の世を生きねばならぬ(後略)

私自身、厳しい町政運営を迫られる中で
幾度となくこの言葉を吟味し、救われてきました。

この言葉の力はおそらく、未明混沌の時刻に起床し
神仏や自らと厳しく対峙された
先生の姿勢そのものなのだと感じます。

当町の記念館が、そういう祈りにも似た
真民先生の詩魂を広く伝える場となれば、
こんなに嬉しいことはありません。

 「仕事は自ら探し出すもの」

土曜日, 3月 3rd, 2012

       
 桜井 正光 (リコー会長)

   『致知』2012年3月号
   連載「20代をどう生きるか」より
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 私がリコーに就職したのは一九六六年。
 オリンピック景気を最後に日本の高度経済成長期が終わり、
 「証券不況」という大きな不況の真っ只中だった。

 そもそもなぜリコーを希望したかというと、
 私は小さい頃から「これはなぜ動くのか」とその構造が知りたくて、
 買ってもらったばかりのおもちゃの解体に
 熱中するような子供だった。
 
 その好奇心が高じて理工学部へ進学。
 そして学生時代に熱中したのはカメラだった。
 
 必然的に就職先は製造業で、
 特にカメラを製造している企業を希望して、
 リコーに行き着いたのだ。
 
 ところが、面接時に衝撃的なことを言われた。
 
 
「いまほとんどカメラはやっていないよ。
  いまのうちの主力は複写機(コピー機)だ」
 
 
「???」

 当時、複写といえばガリ版刷りで、
 私は複写機そのものがどんなものか分からなかったが、
 咄嗟に「複写機でもいいです」と答えた。
 
 さらに「なぜこの時期にリコーなんだ? うちは無配だよ」
  と言われた。その瞬間、「無配」が何かが思いつかず、
 「いや“無敗”は望むところです」と答えた。
 
 いま振り返ると、よく通ったものだと思う。

 
 そうして最初に配属されたのは原価管理課という部門だった。
 しかし、不況の真っ只中、会社も無配の状態である。
 上司に言われたのは「おまえたちにやる仕事はない」と
 いうことだった。
 
 最初こそ仕事がなくて楽だと思ったが、
 三か月も経つと何もする仕事がないというのは
 こんなにつらいものなのかと身に沁みて感じた。
 
 他の部署の人たちが仕事をしていることへの焦り。
 また、もっと本質的な部分で、
 自分は会社や社会に何も貢献できていないという
 「役割」のなさへの焦りがあった。
 後々振り返って、社会人のスタート段階で
 
 
 「仕事があるありがたさ」
 「する仕事のないつらさ」
 
 
 を体感できたのは幸せだったと思う。

       * *

 さて、そこで私は
 「こうなったら、自分で仕事を探そう」と決意した。
 原価管理課は、製品の原価を計算し、
 コストダウンを提案して実践する部署だった。
 
 提案は誰に対して行うのか、我われの提案を
 利用する人たちにとってそれは十分な情報かどうか、
 もっと欲しい情報はないのか、ヒアリングに向かったのである。
 
 提案の利用者は、開発、設計、生産部門だから、
 各部署を回ってみると次第に自分がすべき仕事が見えてきた。
 
 複写機を取ってみても、いくつもの製品があり、
 それぞれの製品間で部品が類似しながらも
 微妙に違うものを使っていることに気がついた。
 
 
 「本当に違う必要があるのか」
 
 「コストアップの原因になってはいないか」……。
 
 
 いまならコンピュータで類似部品一覧を管理しているだろうが、
 あの当時、技術や設計の人間は手間隙かかる
 類似部品のリスト化に手をつけていなかった。
 
 私は五か月間、倉庫にこもって部品図面を種類ごとに分類。
 材質や形状、原価などを加えたリストを作成し、設計部署に渡した。
 その後、改善したほうがいい部分を指摘してもらい、
 どんどんブラッシュアップしていった。
 
 すると、現場は「部品を探す手間が省けた」と
 重宝してくれる一方で、同じような形状であれば
 一番安い部品を選ぶようになり、
 大きなコストダウンに繋がったのである。
 この経験から私が若い人たちに伝えたいことは、
 
 
「仕事は上司から与えられるものではなく、
 自分で探し出すもの」

 ということだ。
 
 自分の仕事のアウトプットを利用するお客様は誰なのかを考え、
 その人たちの役に立つことを探して実行すれば、
 必ず成果となって現れる。

 すなわち、それは自主自立、自己責任の全うということであり、
 いま日本全体で最も求められていることではないだろうか。