まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

掌/てのひら

水曜日, 4月 11th, 2012

先ほどのさださんの「転宅」を開いたら、「掌」という曲があった。
懐かしいーな、と思って、もう一枚貼り付けてしまった。
極めて私的な嗜好で恐縮ですが、・・・・・・・・。

人それぞれに人生があって、
それぞれに刻まれた掌のしわがある。
この歳になると、急に手の甲に張りがなくなって、
しわが増え、自分自身が驚いてしまう。

人生の悲しみや喜びは、この掌が一番知っているかもしれない。
若い頃、自分の持ち唄で、よくこの曲を歌っていたが、
何とも遣る瀬無い歌詞に、自分を映すことがある。

掌のしわは、深くても悲しむことは無い。
人のしわより深いほど、人を思い遣られるのだから・・・・・・。

「ABCD+Eの発想」

水曜日, 4月 11th, 2012

      
 小林 陽太郎 (富士ゼロックス会長)

    『致知』1994年5月号
       特集「積極一貫」より

          ※肩書は『致知』掲載当時です

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当社では1976年にTQC
(※TQC=企業の中のあらゆる人が参加して
 進める品質管理、全社的品質管理)
を導入して、2年後の1978年には
当時としては画期的な商品を送り出すことができました。

  (略)

【記者:アメリカのゼロックスができなかったことを
    やったというので、その秘訣を聞かせろといってきますね】

ええ。親ができないことを孫がやったようなものですからね。
英語で話すわけですから、パンチが利くほうがいいだろうと思って、
最後にABCDの例え話をしたんです。

Aは「aspire」です。
最初に何か「したい」と思わなくてはならない。
クラーク先生ではないけれども、志が必要です。

次に「believe」。
自ら信じなければいけない、

志を持つのはいいけれども。
「そんなこといったってうちはできませんよ」
というのでは駄目です。

そして退路を絶って「commit」しろということです。
具体的に計画を作り、予算も人も配する。

そして最後は「do」。
やるしかないということです。

「日本語で説明すると難しくなるけれども、
 英語でいえばわかりやすいでしょう」

と私がいうと、ゼロックスのトップたちは一様に
「イエス」とうなずきました。

【記者:自ら信じるということは明るいということですね。
    その心構えで、積極的にやるんだということですね】
    

明るく、というのはまさにそうなんです。
おもしろく、楽しいということですね。

TQCのあと、ニュー・ワークウェイ運動というのを始めましたが、
その目指す方向の一つに快適なビジネス環境を
つくりたいということがあります。

環境は厳しいほうが優れたものができるという
考え方もありますが、実際はいかがでしょう。

快適な環境で、ゆとりもあって、
おもしろい仕事場のほうがクリエイティブな仕事が
できるのではないでしょうか。

実はゼロックスのトップに話をして何年かたってから、
管理職が自主的につくっている
ゼロックス・マネジメント・アソシエーション
という会があって、そこで話をしたことがあるんです。

既にアメリカ版のデミング賞に当たるゴルディー賞
というのをゼロックスが受賞していましたので
ABCDの話と昔はTQCの面で富士ゼロックスが
先生だったけれども、いまではゼロックスに学ぶ点が
たくさんあるんだという話をして帰ってきましたら、
早速何通か手紙が来ました。

「非常にいい話を聞かせてくれた.
 とくにABCDの話がおもしろかった」

という手紙だったんですが、偶然3人ほどが
「ABCDだけでは完全じゃない」と同じことを
書いてよこした人がいるんですね。
「ABCDだけでは会社というだけじゃないか」と……。

というのは「E」、つまり「enjoy」が足りないというわけです。

【記者:ニュー・ワークウェイというからには
    楽しみが欠けていては十分ではありませんね】

まったくその通りですね。
もともと私は明るく前向きに物事をとらえていかないと
展望は開けてこないんだという考え方でおります。

「空の上でお客様から学んだこと」

火曜日, 4月 10th, 2012

                                 
  三枝 理枝子 (ANAラーニング研修事業部講師)

       『致知』2012年5月号
        連載「第一線で活躍する女性」より

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入社2年目に転機が待ち受けていました。
八丈島から帰りのプロペラ機に搭乗していた時のことです。

機内が大きく揺れた際に、男性のお客様が手にしていた
ペンダントが座席の間に落ちて取れなくなってしまいました。

どうしても見つからないので、
到着地で整備士に座席を分解してもらって、
やっとペンダントが見つかったんです。

そうしたらそのお客様の目からぼろぼろと
涙が溢れ出てきたので、驚いてしまったことがありました。

実はその方の息子さんが1年前に就職祝いの旅で訪れた
八丈島で交通事故に遭って亡くなられていて、
そのペンダントは息子さんの大事な形見だったのです。

しかもそれだけではなくて、その息子さんは
自動車会社に就職が決まっていて、
ご両親は息子のつなぎ姿を楽しみにされていたそうです。

そして、ペンダントを探しに来たのは
若いつなぎ姿の整備士だった。

これはきっと息子が自分の姿を見せようと
したのだと思ったら気持ちが落ち着いて、
初めて息子の死を受け入れることができたと
涙ながらにおっしゃられたのです。

私はこの話をお聞きしていた時に、
大きな衝撃を受けました。
この方のために何もして差し上げることができなかったのだと。

もしそのペンダントを落とされなかったら、
その方はきっと悲しみに包まれたまま
降りていかれたことでしょう。

航空会社の仕事はお客様を目的地まで安全に、
かつ定刻どおりにお届けすることが一番の目的です。

でもそれだけではなく、何かで悩まれている方に、
たとえ、それが一見して分からなくても
そっと心を寄り添わせて、
少しでも気持ちが楽になっていただいたり、
元気になっていただくのも大事な仕事なんだな、
と気がついたんです。

大変難しいことではあります。
でも、何気ない会話からヒントが出てくることもありますから、
現役で飛んでいる時にはいつもお客様への
小まめなお声がけを心掛けていました。

「マザー・テレサへの質問」

月曜日, 4月 9th, 2012

      
  五十嵐 薫 (一般社団法人ピュア・ハート協会理事長)

     『致知』2012年5月号
     「マザー・テレサの生き方が教えてくれたこと」より
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かつてある新聞記者がマザー・テレサに
こんな質問をしたそうです。

「あなたがたったいま死にかけている人を
助けて何になるのですか? 

 この人は必ず死ぬのですから、
 そんなことをしても世の中は変わらないのではないのですか」

と。マザー・テレサは毅然としてこう答えられました。

「私たちは社会を変えようとしているのではありません。
 いま、目の前に餓えている人がいたら、
 その人の餓えを満たしてあげる。
 ただそれだけでいいのです。

 確かに、そのこと自体で世の中は変わらないでしょう。
 でも、目の前に渇いている人がいれば、
 その渇きを満たすために私たちはそのいのちに仕えていくのです」

彼女は別の場所ではこうも言っています。

「私たちのやっていることは僅かな一滴を
 大海に投じているようなものです。
 ただ、その一滴なくしてこの大海原はないのです」。

私たちのレインボー・ホーム
(五十嵐氏がインドに設立した孤児たちの家)もそうありたいのです。

人は「インドで僅か十人、二十人の親のない子供たちを
助けてどうなるのですか。

世界にはもっとたくさんの孤児がいるのに」と言うかもしれません。
しかし、目の前で「寂しい」と泣いている子供たちがいるのです。
それは私たちにとってかけがえのないいのちであり、
自分自身なのです。

そのいのちをそっと抱きしめてあげるだけでよいのです。

ボランティアとは、自発的に無償で他に奉仕することを
意味するのですが、その奥には

「人間は他のいのちに仕えるとき、
 自分のいのちが最も輝く」

という、生命の法則を実践で知ることに意味があると思います

「ゾウのはな子が教えてくれた父の生き方」

日曜日, 4月 8th, 2012

  山川 宏治 (東京都多摩動物公園主任飼育員)
 
     『致知』2007年5月号「致知随想」
      ※肩書きは『致知』掲載当時のものです
           

…………………………………………………………
■「殺人ゾウ」の汚名
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 
 武蔵野の面影を残す雑木林に囲まれた
 東京・井の頭自然文化園に、
 今年還暦を迎えるおばあちゃんゾウがいます。
 
 彼女の名前は「はな子」。
 私が生まれる以前の昭和24年に、
 戦後初めてのゾウとして日本にやってきました。
 
 当時まだ2歳半、体重も1トンにも満たない
 小さくかわいい彼女は、
 子どもたちの大歓声で迎えられました。
 
 遠い南の国、タイからやって来たはな子は
 たちまち上野動物園のアイドルとなりました。
 ところが、引っ越し先の井の頭自然文化園で、
 はな子は思いがけない事故を起こします。
 深夜、酔ってゾウ舎に忍び込んだ男性を、
 その数年後には飼育員を、踏み殺してしまったのです。
 

「殺人ゾウ」──。
 

 皆からそう呼ばれるようになったはな子は、
 暗いゾウ舎に4つの足を鎖で繋がれ、
 身動きひとつ取れなくなりました。
 
 餌をほとんど口にしなくなり、
 背骨や肋骨が露になるほど身体は痩せこけ、
 かわいく優しかった目は人間不信で
 ギラギラしたものに変わってしまいました。
 
 飼育員の間でも人を殺したゾウの世話を
 希望する者は誰もいなくなりました。
 空席になっていたはな子の飼育係に、
 当時多摩動物公園で子ゾウを担当していた
 私の父・山川清蔵が決まったのは昭和35年6月。
 それからはな子と父の30年間が始まりました。
 

「鼻の届くところに来てみろ、叩いてやるぞ!」
 

 と睨みつけてくるはな子に怯むことなく、
 父はそれまでの経験と勘をもとに何度も考え抜いた結果、
 着任して4日後には1か月以上
 繋がれていたはな子の鎖を外してしまうのです。
 
 そこには
 
「閉ざされた心をもう一度開いてあげたい」、
 「信頼されるにはまず、はな子を信頼しなければ」
 
 という気持ちがあったのでしょう。
 
 父はいつもはな子のそばにいました。
 出勤してまずゾウ舎に向かう。
 朝ご飯をたっぷりあげ、身体についた藁を払い、
 外へ出るおめかしをしてあげる。
 
 それから兼任している他の動物たちの世話をし、
 休憩もとらずに、暇を見つけては
 バナナやリンゴを手にゾウ舎へ足を運ぶ。
 話し掛け、触れる……。
 
「人殺し!」とお客さんに罵られた時も、
 その言葉に興奮するはな子にそっと寄り添い、
 はな子の楯になりました。
 
 そんな父の思いが通じたのか、
 徐々に父の手を舐めるほど心を開き、
 元の体重に戻りつつありました。
 
 ある日、若い頃の絶食と栄養失調が祟って歯が抜け落ち、
 はな子は餌を食べることができなくなりました。
 自然界では歯がなくなることは死を意味します。
 なんとか食べさせなければという、
 父の試行錯誤の毎日が始まりました。
 
 どうしたら餌を食べてくれるだろうか……。
 考えた結果、父はバナナやリンゴ、サツマイモなど
 100キロ近くの餌を細かく刻み、
 丸めたものをはな子に差し出しました。
 
 それまで何も食べようとしなかったはな子は、
 喜んで口にしました。
 食事は1日に4回。1回分の餌を刻むだけで何時間もかかります。
 それを苦と思わず、いつでも必要とする時に
 そばにいた父に、はな子も心を許したのだと思います。
 
 定年を迎えるまで、父の心はひと時も離れず
 はな子に寄り添ってきました。
 自分の身体ががんという病に
 蝕まれていることにも気づかずに……。
 
 はな子と別れた5年後に父は亡くなりました。
 後任への心遣い、はな子へのけじめだったのでしょう。
 
 動物園を去ってから、父はあれだけ愛していたはな子に
 一度も会いに行きませんでした。
 

■亡き父と語り合う
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 
 思えば父の最期の5年間は、
 はな子の飼育に完全燃焼した後の
 余熱のような期間だったと思います。
 
 飼育員としての父の人生は、
 はな子のためにあったと言っていいかもしれません。
 
 残念なことに、私には父と一緒に遊んだ思い出がありません。
 キャッチボールすらしたことがないのです。
 家にじっとしていることもなく、
 自分の子どもよりゾウと一緒にいる父に、
 「なんだ、この親父」と
 反感を持つこともありました。
 
 ところが家庭を顧みずに働く父と同じ道は
 絶対に歩まないと思っていたはずの私が、
 気がつけば飼育員としての道を歩いています。
 
 高校卒業後、都庁に入り動物園に配属になった私は、
 父が亡くなった後にあのはな子の担当になったのです。
 
 それまでは父と比べられるのがいやで、
 父の話題を意識的に避けていた私でしたが、
 はな子と接していくうちにゾウの心、
 そして私の知らなかった父の姿に出会いました。 
 
 人間との信頼関係が壊れ、敵意をむき出しにした
 ゾウに再び人間への信頼を取り戻す。
 
 その難しい仕事のために、
 父はいつもはな子に寄り添い、
 愛情深く話し掛けていたのです。
 
 だからこそ、はな子はこちらの働きかけに
 素直に応えてくれるようになったのだと思います。
 
 一人息子とはほとんど話もせず、
 いったい何を考え、何を思って生きてきたのか、
 生前はさっぱり分かりませんでしたが、
 はな子を通じて初めて亡き父と語り合えた気がします。
 
 私は「父が心を開かせたはな子をもう1度スターに」と、
 お客様が直接おやつをあげるなど、
 それまでタブーとされてきた
 はな子との触れ合いの機会を設けました。
 
 父、そして私の見てきた
 本来の優しいはな子の姿を多くの方々に
 知ってほしかったのです。
 
 人々の笑顔に包まれたはな子の姿を
 父にも見てほしいと思います。

「奇跡の避難所はかくて生まれた」

土曜日, 4月 7th, 2012

      
  千葉 恵弘
   (石巻の避難所「明友館」リーダー)

     『致知』2012年5月号
       特集「その位に素して行う」より

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その日僕は石巻の実家に戻り、
母との食事を済ませてのんびり過ごしていました。

そんな中で突然これまで経験したものとは
桁違いの大きな揺れが起こって。

ただ、津波に対する意識は石巻の人には
ほとんどなかったと思うんです。

あのチリ地震(1960年)でも
津波は町に入ってこなかったといいますから。
とにかく丈夫で倒壊のおそれがない所に
逃げ込みたいという気持ちだったと思います。

明友館は石巻市不動町にある勤労者余暇活用センターという
施設の呼称で、当時10名ほどの職員が勤務していました。

指定避難所まで行くには1キロ以上の距離があり、
お年寄りには負担が大きい。

町内では倒壊による二次災害を避けるため、
明友館に逃げ込むよう我われが誘導していきました。
そんな感覚でしたから、あの津波が実際に上がってきた時には、
もうまさか! という感じでしたね。

建物の周りに津波が押し寄せる、瓦礫が流れ込む、
人が流されてくる……、
建物から覗ける範囲の視野でしたが、
水がじわじわ上がってきて、
1階にいた人が津波に追われながら駆け上がってくる。

ただ、いま自分の目で見ていること以外にはなんの情報もなく、
これが嘘か本当かも、何を信用していいのかも分からない状態でした。

その時、明友館には約140人避難民がいて
うち120人ほどはお年寄りでした。

それこそ足元もおぼつかないようなお年寄りで、
動けるのは10数人程度。

しかも明友館は指定避難所ではないため、
ラジオもなければ携帯電話も通じない。
食べる物も飲む物もなく、
とにかくそこでじっとしているしかない。

体を伸ばせるスペースもなかったので、
ギュウギュウ詰めで皆、三角座りをしていました。

※千葉氏はこの状況から、いかに避難所を運営し、
 不安に怯える避難民を統率していったのか?
 詳しくは『致知』5月号(P38~43)をご覧ください。

「究極のスープ」

木曜日, 4月 5th, 2012

      
  鈴木 紋子 (湘南教育研修センター副理事長)

     『致知』2012年6月号
      特集「その位に素して行う」より

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昭和五十年頃、鎌倉の荒れた中学校へ
赴任した時のことです。

皆からゴムまりをひどくぶつけられるなどのいじめに遭い、
しゅんとしている一年生の子がいました。
私は生徒指導担当として
「先生が付いてるから頑張りなさい」と励ましてきましたが、
三年生になるとあまり姿を見掛けなくなりました。

進路相談の行われた十二月、
彼の母親が私の元へ来てこう言いました。

「うちの子は休みが多く、点数が悪いから
 どこの高校も受けられないと担任に言われました」

その子はとても育ちのいい子だったのですが、
ある日級友からお菓子を万引きしてこいと命じられました。
学校へ行くとまた何を言いつけられるか分からないから、
次第に足が遠のいてしまったというのです。

自責の念を覚えた私は、ある私立高校まで行って事情を話した上、

「受験までに必要な勉強の基礎を、
 全部私が責任を持って教えておきますから、
 受験させていただけませんか」

とお願いし、以来二人三脚で猛勉強の日々が始まりました。

周囲に気づかれないよう暗くなった夜七時頃に彼の家へ出掛け、
英国数の基礎からみっちり三時間教えては
十時半の最終バスで駅へと向かう。

電車を降りるとタクシーは一時間待ちの行列です。
仕方なく夜道を四十五分かけて歩き、
十二時過ぎに帰宅する日々が続きました。

あんまりくたびれるのでバスの中でも眠り込み、
「お客さん、終点ですよ」の声で起こされるのが日課でした。
その甲斐あって彼は高校に無事合格し、
卒業後はイタリア料理店で働くようになりました。

その頃、我が家では主人が胃を全摘し、
肝臓がんも併発するなど、闘病生活で
体はひどく痩せ細っていました。

私は台所でいろいろなスープを作っては
主人に飲ませるなどしていましたが、
私自身も疲労からくるたびたびの目眩に悩まされていました。

前述の教え子が訪ねてきてくれたのは、
そんなある日のことです。

「ご主人様がご病気と聞いて
 チーフにスープの作り方を習って持ってきました。
 これ一袋で一食分の栄養がとれます」

と、一抱えもあるスープを手渡してくれたのです。

私は感激のあまりしばらく何も言葉が出ず、

「……これが本当の神様だわ」

と呟いて、わんわん声を出して泣いてしまいました。

すると、その子がまだ中一だった頃、

「皆にいじめられても頑張るのよ」

と私が肩を叩いて励ましたのと同じように、

「先生、泣かないでください」

と私の背中を叩いて慰めてくれたのです。

その後も彼はスープがなくなる頃になると家を訪ねてくれ、
おかげで余命三か月と言われた主人が、
三年も生き長らえることができました。

私はこのスープを「究極のスープ」と呼んでいますが、
人間同士の世の中がそうしてお互いに
尽くし合ってやっていけたらどんなにかよいだろう、
と思ったことでした。

「神は細菌に宿る」

火曜日, 4月 3rd, 2012

             中村 貴司 (リ・クーブ顧問)

        『致知』2012年4月号「致知随想」
         ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

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 数年前、和歌山のある食品工場では、
 大手飲料メーカー数社から製品の製造を請け負い、
 年間約五千トンもの茶の搾りかすが出ていた。
 
 工場ではその全量を産業廃棄物として扱ってきたが、
 時代の流れとともにリサイクル化の必要性が叫ばれ始めた。

 担当者はいくつもの業者に生ごみ処理機の導入テストを行い、
 堆肥化を図ったそうだが、いずれも排水処理や騒音、
 悪臭などの問題に直面し、頭を悩ませていた。

 そこで弊社が開発した業務用生ごみ処理機を持参し、

 「二十四時間以内に九十%以上が消滅し、
  余剰菌床は肥料になります」
  
 と伝えたところ、皆、半信半疑の様子だった。
 しかし翌日処理機の中を見て、
 「おぉ」と驚きの声が上がったのである。

 弊社が開発した生ごみ処理機は、
 自然界の土壌から抽出した特定土壌菌を特殊培養して配合した
 「クーブ菌」という細菌を用いる。
 
 それによって食品廃棄物を水と炭酸ガスに素早く分解し、
 消滅させてしまうのである。
 野菜くずなどであれば、ほんの数時間で分解消滅ができる。

 現在、滋賀県のもやし工場や鳥取県の
 大手食品スーパーなどに弊社の大型機が導入されるなど、
 全国からも少しずつ問い合わせをいただくようになった。

 これまでも生ごみ処理機を製造していたメーカーは
 多くあったが、導入後に悪臭などの諸問題が発生し、
 結局一過性のブームに終わってしまった。
 
 その理由は、開発者が微生物というものの世界を
 あまりにも知らな過ぎたことにあるだろう。

 私が環境問題に取り組み始めたのは、
 三菱重工業に勤務していた昭和四十六年頃、
 三十代前半のことだった。
 
 その数年前より日本では公害が社会問題となり、
 公害対策基本法や水質汚濁防止法など様々な法律が生まれ、
 大企業には専門の管理者を置くことが義務付けられた。

 私も新たにそうした部署に配属となり、
 微生物などの研究をしていたが、
 その後に偶然出会ったのが河野良平という技術者だった。
 
 彼もまた生ごみ処理機を開発するにあたり、
 悪臭等の問題に頭を悩ませていたが、
 微生物の世界についてはまったくの素人だった。
 
 そこで私がきちんと説明をしていくと、
 河野氏もなるほどそうかと合点がいったようだった。

 人間の性格が一人ひとり皆違うように、
 細菌もそれぞれ異なる性質を持っている。
 また、人の体調が毎日変わるように、
 細菌の体質も日々変化している。
 
 それほど繊細な対象を扱っているにもかかわらず、
 その研究が十分になされないまま
 処理機の開発がスタートしてしまったため、
 思うような結果が得られなかったのである。

 環境の世界は、どれか一つの分野を
 専門的に勉強すればよいというものではない。

 例えば私は環境に関連した国家資格を二十以上持っているが、
 自分の勉強したものが少しずつでも脳の中に残っていると、
 次の時代に何がキーワードとなるかを知る
 大きな手がかりとなる。

 これからは、微生物がどのように
 我われに関わってくるかといったことをきちんと検証し、
 いかに産業に生かしていくかが大切で、
 その主たるものの一つが生ごみ処理機ではないかと私は思う。

 江戸時代、江戸の街はパリと同じく百万都市といわれた。
 しかしそれぞれの街の生活様式は随分と違う。
 
 なかでも廃棄物、特に屎尿に関しては顕著である。
 パリではあちこちで用を足す人が絶えず、
 こんな悪臭が出てはたまらないという理由で下水道が整備された。

 一方の日本はこうである。
 徳川家康は百万の人間を食べさせていくために、
 疲弊していた関東ロームの土地に作物をつくることを考える。
 家康は屎尿をいかに有価物に変えるかを考え、
 屎尿を腐敗させて土に還元することで土壌を豊かにし、
 そこに作物を植え、人々の食料を確保しようとした。

 一説によると、人間の腸内には約百種類の菌と、
 百兆個もの腸内細菌が存在するという。
 
 祖母は私の幼い頃、
 
 
 「便所は人間にとって神聖な場所や。
  そこを出てくる時はちゃんと頭を下げて出てこいよ」
  
 とよく話していた。
 そのおかげで私は幼い頃から、
 微生物に対する敬虔な気持ちを持つことができたのだと思う。

 ある方の話によると、大便の中にあるのはほとんどが生菌で、
 完全に分解できないものはわずか三%ほどしかないのだという。
 そういう様々な菌の助けを借りて
 人間の体が維持されている。
 
 生ごみ処理機においても、攪拌機の中の環境を整え、
 活力ある細菌の居場所をつくってあげることが
 何より大事になってくるのではないかと確信している。

 いま世の中には、多くの生ごみ処理機が
 倉庫に眠ったままになってしまっていると聞く。
 我われのクーブ菌を有効活用していただくことによって、
 その処理機に再び生命を与えることができれば、
 おそらくこの産業は飛躍的に伸びていく。
 
 それが地球環境の保全へと繋がっていけば、
 開発者としてこれに勝る喜びはない。

「小林秀雄先生への質問」

火曜日, 4月 3rd, 2012

この占部さんと同じ経験が私にもある。

高校2,3年の頃、札幌に、小林秀雄さんが講演にいらした。

ちょっとほろ酔い気分で、話し始めたのが、確か「私の人生論」ではなかったか。

その老成した風格に、若かった私も魅了させるものがあったのだろう。

その後、手紙を差し上げた覚えがあるが、自分の人生において、

物事の観方を教えてくれた恩師であることには変わりない。

こういう先師が無くなったこの頃は寂しいともいえる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

            
   占部 賢志 (中村学園大学教授)

      『致知』2012年5月号
     連載「語り継ぎたい美しい日本人の物語」より

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筆者が初めて小林秀雄さんの謦咳に接したのは、
昭和48年11月8日のことでした。

文藝春秋社主催の文化講演会が宮崎県延岡市で開かれることとなり、
講師として中村光夫や水上勉、那須良輔の三氏とともに
小林さんがやって来るという情報を友人が仕入れてきたのです。
ちょうど大学3年の時です。

演題は「文藝雑感」というありふれたものでしたが、
舞台の袖から小林さんが現れると、
文字通り釘づけになってしまいました。

一番前列の真ん中の席に座っていた筆者には
小林さんの眼が印象深く残っています。
人生の一切を見尽くした達人の眼差しとは
こういうものかと感じ入ったものです。

講演の中身はこの頃連載中の本居宣長を中心としたもので、
岡潔の学問や梅原龍三郎、中川一政などの芸の妙味にも言及。
1時間は瞬く間に過ぎました。

講演が終了したのは夜の九時過ぎ、
筆者は講演担当者に小林さんの宿泊先を密かに聞き出し、
現地で落ち合った友人を誘ってホテルに向かうことにしたのです。
小林さんに何としても伺いたいことがあったからです。

ホテルに着いてみると小林さん一行は戻ってはいません。
何でも延岡名物の鮎を肴に一杯やっているのだそうです。

1時間半程待った頃でした。
玄関前に数台の車が横付けされ、
名士の一群がどっと入ってきました。

小柄ながら風格のある小林さんは一目で分かります。

よし、今しかない、そう思うや中に割って入り、
小林さんの行く手を遮ったのです。

周囲は何事かと立ち止まりました。
まごまごしてはいられない。
蛮勇を奮い起こしてこう切り出したのです。

「先生、非礼であることは承知の上ですが、
 どうしても質問したいことがあって、
 お待ちしておりました」

と。

一蹴されると思いきや、小林さんは筆者の顔をじっと見つめられる。
そして、「いいえ、構いませんよ。何でしょうか」と応じられたのです。

疲れているから御免蒙るよと言われて当然にも拘わらず、
相手をして下さった。これが筆者の生涯を決めた瞬間でした。

質問の趣旨はこうでした。

「先生は、歴史を知るとは
 自己を知ることだとおっしゃっていますね。
 この意味が今一つ分からないのです。
 どうして自己を知ることになるのでしょうか」

「人生のチアリーダー」

木曜日, 3月 29th, 2012

             佐野有美(さの・あみ=車椅子のアーティスト)

        『致知』2012年4月号「致知随想」
         ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

……………………………………………………………

「私、チアに入りたいんだけど、一緒に見学に行こうよ」

 友人からのこの誘いがすべての始まりでした。
 高校に入学し、部活に入る気もなかった私は、
 友人に付き添いチアリーディング部の練習を見に行きました。

 目に飛び込んできたのは、先輩たちの真剣な眼差し、
 全身で楽しんでいる姿、そして輝いている笑顔でした。
 
 それを見た時、
 
 「すごい!! 私も入りたい!!」
 
 
 という衝動に駆られたのです。
 しかし、次の瞬間、
 
 
 「でも私には無理……」
 
 
 という気持ちが心を塞いでしまいました。

 私には生まれつき手足がほとんどありません。
 短い左足の先に三本の指がついているだけ。
 病名は「先天性四肢欠損症」。
 
 指が五本揃っていなかったり、
 手足がないなどの障害を抱えて生まれてくるというものです。

 幼少期から母親の特訓を受け、一人で食事をしたり、
 携帯でメールを打ったり、字を書くことや
 ピアノを弾くこともできますが、
 手足のない私には到底踊ることはできません。
 
 半ば諦めかけていましたが、
 「聞いてみないと分かんないよ」という
 友人の声に背中を押され、顧問の先生に恐る恐る
 「私でも入れますか?」と聞いてみたのです。

 すると先生は開口一番、
 
 
 「あなたのいいところは何?」
 
 
 と言われました。
 
 思わぬ質問に戸惑いながらも、私が
 
 
 「笑顔と元気です」
 
 
 と答えると、
 
 
 「じゃあ大丈夫。明日からおいで」
 
 
 と快く受け入れてくださったのです。

 手足のない私がチアリーディング部に入ろうと決意したのは、
 「笑顔を取り戻したい。笑顔でまた輝きたい」
 という一心からでした。
 
 生まれつき積極的で活発だった私は、
 いつもクラスのリーダー的存在。
 そんな私に転機が訪れたのは、小学校六年生の時でした。
 
 積極的で活発だった半面、気が強く自分勝手な性格でもあり、
 次第に友達が離れていってしまったのです。

 そんな時、お風呂場で鏡に映った自分の身体を
 ふと目にしました。
 
 
 「えっ、これが私……。気持ち悪い……」
 
 
 初めて現実を突きつけられた瞬間でした。
 
 孤独感で気持ちが沈んでいたことも重なり、
 
 
 「よくこんな身体で仲良くしてくれたな。
   友達が離れてしまったのは身体のせいなのでは……」
  
  
  と、障害について深く考えるようになり、
  次第に笑顔が消えていきました。

 そのまま中学三年間が過ぎ、
 いよいよ高校入学という時になって、
 
 
 「持って生まれた明るさをこのまま失っていいのだろうか。
  これは神様から授かったものではないか」
  
  
 と思うようになり、そんな時に出会ったのが
 チアリーディングだったのです。

 初めのうちはみんなの踊りを見ているだけで楽しくて、
 元気をもらっていました。
 
 しかし、どんどん技を身につけて成長していく
 仲間たちとは対照的に、何も変わっていない自分が
 いることに気づかされました。

「踊りを見てアドバイスを送って」と言われても、
「踊れない自分が口を出すのは失礼ではないか」

 という思いが膨らみ始め、仲間への遠慮から
 次第に思っていることを言えなくなってしまったのです。
 せっかく見つけた自分の居場所も明るい心も失いかけていました。
 
 
 「チアを辞めたい。学校も辞めたい……」。
 
 
 そんな気持ちが芽生え、次第に学校も休みがちになりました。
 しかし、私が休んでいる間も、
 「明日は来れる?」と、チアの仲間やクラスメイトは
 メールをくれていました。
 
 
 「自分が塞ぎ込んでいるだけ。素直になろう」
 
 
 そう分かっていながらも、一歩の勇気がなく、
 殻を破れずにいる自分がいました。

 その後、三年生となった私たちは、
 ある時ミーティングを行いました。
 最終舞台を前に、お互いの正直な気持ちを
 話し合おうということになったのです。

 いざ始まると、足腰を痛めていることや学費の問題など……、
 いままでまったく知らなかった衝撃的な悩みを
 一人ずつ打ち明けていきました。
 
 
 「みんないっぱい悩んでいるんだ。辛いのは私だけじゃない……」

 そして、いよいよ私の番。震える声で私は話し始めました。

 「自分は踊れないから……

  みんなにうまくアドバイスができなくて……

  悪いなって思っちゃって……

  みんなに悪いなって……

  だから、だから、これ以上みんなに迷惑かけたくなくて……」

 続く言葉が見つからないまま、涙だけが流れていきました。
 そうすると一人、二人と口を開いて、
 
 
 「私たち助けられてるんだよ」
 「有美も仲間なんだから、うちらに頼ってよ」
 
 
 と、声をかけてくれたのです。
 そして最後、先生の言葉が衝撃的でした。

 「もう有美には手足は生えてこない。
  でも、有美には口がある。
  だったら、自分の気持ちはハッキリ伝えなさい。
  有美には有美にしかできない役目がある!!」

 これが、私の答えであり、生きる術でした。
 チアの仲間や顧問の先生に出会い、
 私は自分の使命に気づかされました。

 声を通して、私にしか伝えられないメッセージを
 届けたいとの思いから、高校卒業の二年後、
 二〇一一年六月にCDデビューを果たし、
 アーティストとして新たなスタートを切りました。
 十二月には日本レコード大賞企画賞をいただくことができたのです。
 
 チアリーダーという言葉には、
 「人を勇気づける」という意味があります。
 私は誰かが困っていたり、悩んでいたりする時に、
 手を差し伸べることはできません。
 
 しかし、声を届けることはできる。
 チアリーディング部を引退したいまも、
 私は人生のチアリーダーとして、
 多くの人に勇気や生きる希望を与えていきたいと思っています。