まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

伝説のホテルマン・高野 登 氏の名言

月曜日, 10月 29th, 2012

日本に「ザ・リッツ・カールトン・ホテル」と
     ホスピタリティの概念を根づかせた
     伝説のホテルマン・高野 登 氏の名言

                『致知』2012年11月号
                 特集「一念、道を拓く」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html

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 ◆  99℃は熱いお湯だけれども、あと1℃上がって100℃になると、
   蒸気になって、蒸気機関車を動かす力が出る。
   しかし、99℃ではまだ液体だから蒸気機関車は動かせない。
   この1℃の違いを意識しながら仕事をすることが、
   リッツ・カールトンの仕事の流儀でした

 ◆  「想像力に翼をつけないと夢には届かない」
    という言葉があるのですが、
    やっぱり夢に届くには想像力を働かせるしかないと思うんです

 ◆  やっぱり男はね、気を働かせられないとダメなんですね。
   僕は気遣いと気働きは違うと思っているんです。
   女性は細やかな気遣い、心配りが大切ですが、男がするのは気働き。
   木下藤吉郎(豊臣秀吉)が織田信長の草履を温めていたのは、
   気遣いじゃない。あれはしたたかな気働きです

 ◆  リッツ・カールトンがいま評価されている理由は、
   そういう日常の小さなこと、
   日本人として当たり前のことをやり続けて、
   自分たちの当たり前のレベルを上げていっているという、
   それだけなんです。
   それだけで感性は磨かれていきます。

 ◆  目の前のことに
   これ以上ないほどに真剣に取り組めば必ず道は拓けるし、
   自分が思いもよらなかった場所に運ばれていく
 

「塔和子を歌う」

日曜日, 10月 28th, 2012

 沢 知恵 (さわ・ともえ=歌手)

                『致知』2012年11月号
                       致知随想より

└─────────────────────────────────┘

いまから十六年前、二十数年ぶりに会った人たちに
「知恵ちゃんなの? 大きくなって」と迎えられました。

最後に会ったのは私が四歳の頃、私には何の記憶もないのに、
皆さんが大粒の涙を流して歓迎してくれるのです。
戸惑いながらもその涙の意味にハッと思い当たりました。

瀬戸内海の小さな島に牧師だった父に連れられていったのは、
生後六か月の一九七一年夏のことでした。

そこで迎えてくれたのはハンセン病元患者の人たちです。
戦後まもなく発見された特効薬プロミンによって
完治していたにもかかわらず、
当時ハンセン病は感染や遺伝の恐れがある病気と考えられていて、
患者は隔離生活を送っていました。

子供をつくることも禁止され、
断種、堕胎などの強制手術もされていたのです。

それゆえ患者の人たちは赤ちゃんを
見たり触ったりすることはありませんでした。
だからこそ「大島に赤ちゃんが来た日」は
強烈な印象を与える事件だったのでしょう。

そこに思いが及んだ瞬間、
私の目から一滴の涙がこぼれ落ちました。

以来、四国や中国地方で仕事があると、
決まって大島青松園を訪ね、皆さんと親交を深めてきたのです。

大島へ通うようになり、三年ほど経った頃でしょうか、

「塔和子さんのことはご存じ? 
 塔さんはあなたのことをよく覚えているよ」

と入所者の方から言われました。
私も塔さんのことはよく知っていました。

塔さんは療養所の入所者自治会が発行している
月刊誌『青松』に詩を発表されていました。
ご自身もハンセン病を患いながら、
しかし病気のことにはほとんど触れず、それでいて
私を射抜くような言葉を詩にしている。

少ない文字数にもかかわらず、
圧倒的なオーラを放つそのページに、
なんという迫力のある詩を書く詩人だろうと圧倒されていました。

ある時、思い切って病室を訪ねてみると、
パジャマ姿のおばあさんがベッドに横たわっていました。

その姿からはあれほど力強い詩を書く詩人には
とても見えませんでした。

しかし私が「沢です」とご挨拶した途端、
「沢先生のお嬢さんなのね」とおっしゃり、
後光が立ち上るような印象を受けたことをいまでもよく憶えています。

以来、大島へ行くと必ず塔さんのお部屋にも
顔を出すようになり、いつしか一番長く話をするのが
塔さんになっていました。

お訪ねするととにかく詩や芸術の話ばかり、
頭から爪先まで全部詩で埋まっているような人でした。

「あなたも歌手でしょ、詩も書くのでしょ」と言いながら、
ものを生み出す苦しみや詩を書く喜びなどを
たくさんたくさん話しながら、私を励ましてくださいました。

塔さんとお会いしてしばらく経った二〇〇一年、
大島で初めてのコンサートを開きました。

島の外から大勢の人に来ていただいて
療養所を肌で知ってもらいたい、
そんな思いから行った企画でした。

その頃にはいつか塔さんの詩を
歌えたらいいなと漠然と考えていました。

それからおよそ十年が経ちました。

私も四十歳に近くなり、いろいろな経験も積みました。
改めて詩を読んでみると、塔さんが詩で
何を言おうとしていたのか、その切なさが
心に沁みてくるようでした。

塔さん自身、ご高齢で寝たきりということもあり、
まだお元気なうちに歌いたいという気持ちもありました。

最初は軽い気持ちで詩集を読み始めましたが、
いったん読み出すとじっくりと全部読まずにはおれませんでした。

塔和子という人にとって、その詩は命そのものであり、
私が塔和子を歌うことは即ち塔和子を生きることなのだ――。
そう思い至った時、私は肉声でこれを発してみなければ
いけないと感じました。

塔さんの分厚い三巻の全集には
およそ千編の詩が収められています。

そのすべてを声に出して読みました。
まる三か月がかかりましたが、
私にとってなんと幸せで豊饒な時間だったことでしょう。

その中から八つの詩を選び、最初に曲がついたのが
「胸の泉に」という詩でした。

かかわらなければ

この愛しさを知るすべはなかった

この親しさは湧かなかった

(中略)

何億の人がいようとも

かかわらなければ路傍の人

私の胸の泉に

枯れ葉いちまいも

落としてはくれない

 
十代で発症して瀬戸内の小さな島に送られ、
隔離された塔さん。

世間との関わりを断たれた生活を余儀なくされながらも、
彼女は「かかわらなければ、かかわらなければ」と
魂の声を上げている。

人と関わることによって生まれる幸も不幸も、
陰も陽もすべて受け入れて生きる覚悟がそこには示されています。

塔さんは私に「言葉を生み出すことは苦しいことなのよ」と
何度かおっしゃったことがあります。

自身の弱さや情けなさを嘆いている詩もたくさんありますが、
見栄や虚飾を排し、自分にも他人にも神様にも嘘をつかず、
真っ直ぐに、正直に生きていく。

悩みも苦しみも弱さもすべて自分で引き受けて生きていく
本当に自立した女性のあり方を、
私は塔さんから教えていただきました。

幸せも喜びも苦しみも悲しみも、
ささやかな日常の中に全部あるんだよ。

希望を見出したかったら、その日常を丁寧に生きていくことだよ。

塔さんとの特別な交わりを許された幸運に感謝しながら、
その詩に込められたメッセージを
これからも永く永く歌っていきたいと思っています。

○誌面未公開。孤高の詩人・塔和子さんのPHOTO&
 沢知恵さんとの貴重なツーショット写真はこちら
 http://ameblo.jp/otegami-fan/

「業即信仰」

土曜日, 10月 27th, 2012

  米倉 満 (理容「米倉」社長)

           『致知』2012年11月号
                 致知随想より
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私の祖父・米倉近が弱冠二十二歳で
理容「米倉」を開業したのは大正七年のことでした。

後に近の義父となる後藤米吉は、
当時西洋理髪の本場といわれた英国で理容技術を習得し、
「三笠館」という理髪店を開業した人物でした。

その義父と同じ理容の道を志し、日本橋に店を構える
「篠原理髪店」に祖父が弟子入りしたのは、年の頃十三歳。
両親と別れての暮らしはさぞ寂しかったことでしょう。

しかし、一人前になるまで家には戻らないと修業に専念し、
二十一歳になるまでの八年間一度も
親と顔を合わせることはありませんでした。

独立開業する際には、修業中に祖父の腕を見込んだ
名士たちの後押しもあって、
築地の精養軒ホテルの一角という一等地で開業。

関東大震災で店が焼失したことで、
銀座の中央通に移りましたが、
「米倉」は一流のお客様を相手にして、
満足させる銀座の床屋だという矜持が祖父の力の源でした。

実際、店には日本画家の伊東深水氏、作曲家の山田耕筰(こうさく)氏や、
陶芸家の川喜田半泥子(かわきた・はんでいし)氏をはじめ、
個性溢れる一流のお客様が顔を連ねる理容店として賑わい、
今日に至るまで多くの名士の方に親しまれてきました。

その中には松下電器(現パナソニック)の
創業者・松下幸之助氏もいらっしゃいましたが、
かつて松下氏はほとんど容貌を気にされず、
頭髪もぞんざいだったそうです。

ある時、そんな松下氏と初めてお会いする機会があった祖父は、
即座に

「あなたはあなたの顔を粗末にしているが
  これは商品を汚くしているのと同じだ。

 会社を代表するあなたがこんなことでは会社の商品も売れません。
 散髪のためだけに時間をつくるというような心掛けがなければ、
 とても大を成さない」

と言い放ったといいますから大したものです。

もちろん祖父の言葉に悪意は微塵もなく、
むしろ自らの仕事に対する誇りから生まれたものといえるでしょう。

仕事に打ち込む中でお客様を満足させたいという
姿勢を貫いてきたからこそ、経営の神様に対しても
思いの丈をぶつけることができたのだと思います。

「誠にもっとも千万で、至言なるかな」

と口にした松下氏は、祖父の言葉に意気を感じられたのでしょう。
祖父との出会いを機に身だしなみにも気を使われるようになり、
「米倉」をご贔屓くださるようになったのです。

私が理容師としてまだ駆け出しの頃、
祖父の鞄持ちとして熊本県の阿蘇まで赴いたことがありました。

現地では松下電器の代理店を集めた年に一度の大会が開催されており、
祖父はそこに招かれたのでした。

宿泊先でのことです。

二人きりになった晩、祖父は堰を切ったように
自らの歩みを語り始めました。

既に晩年を迎えていた祖父は、
特別に私に伝えたいという思いがあったのでしょう。
その中にはこんな話がありました。

祖父の母は大変信仰心の厚い方で、

「おまえの守り本尊は観音様であるから、
 毎月十八日はお参りに行きなさい」

と言われた祖父は母の言いつけをよく守っていました。
ところがある月の十八日の朝、祖父は寝坊をしてしまい、
慌ててお参りを済ませるも開店時間に間に合わないことがありました。

ちょうどその時分に店を訪れた松竹の大谷竹次郎氏は
祖父の不在を知り、後日改めて来店された際、
開口一番こう聞かれました。

「君は何か自信をなくしたことでもあるのか」と。

祖父が驚いて聞き直すと、大谷氏は
観音様にお参りに行くことそれ自体はよいが、
開店中に主人が留守とはどういうことか。

お客様に不自由をさせて、ご利益などあるだろうかと懇々と諭され、
最後に

「客商売は、客が店の信者なのだ」

とおっしゃったそうです。

祖父は我が身を恥じたといいます。
お客様を差し置いて観音様をいくら拝んでも、

ご利益などあろうものかと。そして理容業という生業に打ち込むことが、
そのまま信仰になりうるのだという確信を得たのでした。

業即信仰。

祖父はこの時の教訓をこの四文字に込めたのです。

このことに関連して、世の中にある無数の業には、
それ自体に良し悪しがあるわけではなく、
その業を行う者の人格のいかんによって良し悪しが決まる。

それゆえに理容師は、理容の技術を磨き高めることはもちろん、
教養を身につけ、お客様と誠実に相対する中で、
理容師的人格を高めることの大切さも訓えられました。

また祖父は、日頃から

「毎日が開業日」

と口癖のように言っていたことを思い出します。
店というのは古くなると惰性に流れだらしなくなるから、
毎日が開業日のように新鮮な気持ちで場を清めれば、
自然と仕事に励む気分が湧き上がってくるというのです。

理容「米倉」は四年前に創業九十周年を迎え、
その間祖父の業に対する信仰心の如き思いは
父、叔父を経て四代目である私へと受け継がれてきました。

業を高めることが、そのまま自己を高めることになる――。

これが理容師として、四十年間歩み続けてきた私の実感です。

業即信仰という祖父の祈るような仕事に対する姿勢を胸に、
理容師として生涯を全うできるよう
これからも一途に歩み続けたいと思います。

吹奏楽のカリスマ指導者・丸谷明夫氏の名言

木曜日, 10月 25th, 2012

全国最多24回の金賞受賞・
      吹奏楽のカリスマ指導者・丸谷明夫氏の名言

                『致知』2012年11月号
                 特集「一念、道を拓く」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html

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 ◆ 子供たち一人ひとりがその気になって本気でかかってきよったら、
   少々下手な者同士でもかなりいいところまで行きますよ。
   
   例えは悪いですが、
   一人ひとりが自爆する覚悟で向かってくるのと、
   最新兵器を持った数人がいて他にやる気のない大勢が
   集まっているのとでは大分差がつきます。

 ◆ 指揮棒に合わせて完璧に吹くだけなら
   型どおりの演奏にしかならない。
   それぞれの持ち味を生かしながら、
   結果として合わさった音が生き生きしている。

   これが日本一になれるかなれないかの差です。

 ◆ 中途半端な苦労をしている奴でひねくれているのがよくいますが、
   もうズタズタに、生きるか死ぬかの苦労をした奴は、
   そんなものをも超越してしまって本当に純粋になるでしょう。
   そういう子に育てたいんです。

 ◆  子供は喜びや幸せは誰かが
   運んできてくれるような気でいるんですが、
   そんなはずはないわけで、
   苦労した者が苦労した分だけちゃんと喜べるようになっている。

   

 ◆  我われもとかく能率のいい方法や、
   すぐ上達する方法を考えがちなんですが、
   そういうものはなくて、やっぱり変わった手、
   相撲でいえば猫騙しなんかを使わず、
   がっぷり四つの寄り切り、
   譜面に書いてあることにきちっと応える王道――王の道、
   それを貫いていくしかないと思うんです。
 

成功の条件は「VW」の二文字

水曜日, 10月 24th, 2012

  山中 伸弥 (ノーベル医学生理学賞受賞者・
         京都大学iPS細胞研究所所長)

          『致知』2012年11月号
             特集「一念、道を拓く」より
    http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_pickup.html

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僕がアメリカのグラッドストーン研究所に留学していた頃、
恩師から「VW」という言葉を教わりました。
科学者として成功するためには、この二文字が大事だというんですね。

ビジョンのVとワークハードのWの頭文字で「VW」。

長期的な展望としっかりした目標を持ち、
懸命に努力を重ねればその一念は必ず叶うということです。

日本人はワークハードにかけては世界に誇れますが、
ビジョンをはっきりさせることなしに、
とにかく一所懸命実験しているだけ、
一所懸命勉強しているだけという状態に陥りがちだと感じています。

iPS細胞の目的の一つははっきりしていて、
医療応用を一日も早く実現し、
病気で苦しむ患者さんの治療に貢献することです。

そのために、私はある時はロボットに徹して
着実にプロジェクトを進めていく必要性を感じています。

ただiPS細胞の可能性は絶対にそれだけではないはずで、
若い世代の人たちから思いもかけなかった
使い方のアイデアを出してもらいたいと切実に願っています。

日本がやらなくとも、アメリカが中心になって
どんどん研究を進めていくのは間違いありませんが、
あちらの国が手を出さない部分もいっぱいあるんですね。

特に難病の治療などビジネスになりにくい、
製薬会社が手を出さないような部分は切り捨てに近い状態で、
これには国からの支援が不可欠です。

僕自身も毎年フルマラソンに出場したりしながら
民間からの寄付を一所懸命集めていますが、
やはり国からのお金に比べると何百分の一程度にしかなりません。

利潤追求の姿勢からは見過ごされてしまうような
病気の治療を推進していくことが、日本の使命だと考えています。

我われは実際にiPS細胞をつくって
科学技術の可能性は凄いと実感しました。

医学や生物学が進むといまは夢物語にすぎないことが
「できるようになるんじゃないか」と期待が持てる。
多くの人の地道な研究が積み重なると
ブレークスルー(突破口)が生まれます。

たまたま我われはiPS細胞をつくりましたが、
その前に多くの科学者の血の滲むような研究がありました。

大事なのは少しでも多くの知的財産を生み出すことで、
欧米に対する競争意識を保ち、
その競争意識を研究の促進へと
繋げていくことだと感じています。

 「奇跡の看護術はこうして生まれた」

火曜日, 10月 23rd, 2012

  紙屋 克子 (筑波大学名誉教授)

      『致知』2012年11月号
        特集「一念、道を拓く」より
        http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_pickup.html

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まずアメリカの論文を調べてみたのですが、
意識障碍に関する研究がなかったのです。
え? アメリカにもないんだ。であれば、
もう自分たちでつくるしかないと。

【記者:しかし周りには教科書も研究論文も何もないわけですよね】

そうですね。皆目見当がつかないので、
患者さんをじーっとよくよく見て考えたんですね。
すると、あることに気づきました。

健康な人は日中起きて、夜間眠っている。
一方、意識障碍の患者さんは夜中開眼している人もいれば、
昼間いくら声を掛けても、睡眠状態にある人もいたりと、
睡眠と覚醒がバラバラなんです。これではいけない。

健康な人は日中起きて活動する。
睡眠は日中活動した脳を休息させて、
翌日の活動に備えるためのものですから、
夜眠らせて、昼間は覚醒させる。

そうすれば刺激に対する患者さんの反応が
よくなるだろうと考えました。

それから、健康な人は横になって食事はしない。
健康な人は行動を起こす時、たいてい座るか立っています。

だから、胃が食べ物を受け入れやすい形状にするためには、
まず起こして、座位にしないといけないと気づき、
さっそく実行しましたところ、ドクターが飛んできて、
「何をするんだ、君たちは!」と。

【記者:ああ、医師から抵抗された】

私どもの活動と意図を話しますと、賛否両論。
医局対看護チームの対立になったのですが、私たちが
「もともとドクターの仕事である業務の補助をしている
時間とエネルギーを、新しい看護の勉強や実践にも使いたい」
と訴えたのでいよいよ大変なことになりましてね。

最終的には、こちらの言い分が通って、
ようやく私たちのやりたい、
新しい看護を工夫してできる環境が整ったわけです。

【記者:具体的にはどんなことをされたのですか。】  

例えば、人間は通常一日約1・5リットルの唾液が出るのですが、
患者さんからはそれほどの唾液量は吸引しておらず、
肺炎も起こしていない。

ということは飲み込んでいるということであり、
それなら食べることができるのではないかと考えました。

それまであまり意識に上っていなかったことを
丁寧に観察して考えていくと、刺激に対して
反応を引き出すことが可能ではないかと思うようになり、
食べる、排泄する、感情を表現するといったことを
項目ごとにつぶさに調べていきました。

さらに、人間の赤ちゃんの成長理論から、
人間が人間になっていくプロセスを辿ってみたらどうだろうとか、
本当に試行錯誤でいろいろなことをやってみました。

そうすると、それまで治療法がないと言われていた
遷延性意識障碍の患者さんの中に食べられるようになったり、
行動を起こせるようになった人たちが出てきたのです。

そういう積み重ねの中で、意識障碍の患者さんは、
反応しないわけではなく、反応できるような環境づくり、
適切な刺激を与え続けていく生活を
もう一度組み立て直すことが必要だということが分かってきました。

         (略)

私はよく看護師の皆さんに

「一番新しい教科書は、いま目の前に横たわっている
 患者さんご自身ですよ」

と言うんです。

そういう意味で、専門職はチャレンジャーでも
なくてはいけないと思うんです。

教科書から学べるのは安全で確立された、
既に誰かがやってくださった成果ですよね。

けれど、本当に私たちに期待され、
求められていることは、
いま目の前に横たわっている患者さんが
私たちに示しているということです。

ただ、それは見る視点を持たない人には何も見えず、
聞く耳を持たない人には何も聞こえないのです。

そして常に感性を磨いていない人の心には
何も響いていかないものだともいえます。

常に見る視点、
人の意見を尊重する耳、
かつ、豊かな感性がなければ、
看護師としてのミッションは
果たせないのではないかと思っています。

「人間の運命を決める“命の器”」

月曜日, 10月 22nd, 2012

    宮本 輝 (作家)

        『致知』2012年11月号
       特集「一念、道を拓く」より
  http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html

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【記者:宮本作品には波瀾万丈な生い立ちからくる
    「影」のような部分が感じられません。
    そういうものは昇華されたのでしょうか】

人よりいろいろな経験はしてきたかもしれませんが、
僕自身は深刻になったり、人生を悲観することはなかったんですね。

そしてどこかに

「十年先か二十年先か分からないけれど、
  必ずこれが自分の宝物に替わる」

と思っていたところがありました。

【記者:渦中にある時から】

そうです。まずもってパニック障碍になって
会社を辞めざるを得なかったけれども、
それがなかったら小説家になっていないでしょう。

青年期は混乱していた家庭から逃避するように、
文学の世界へ浸っていきましたし。

結核病棟に放り込まれて死んでいく人を何人も見たことも、
病棟での人間ドラマも、人生のあらゆることが
後の作品に生かされていると思います。

【記者:人間における運や縁というものをどのようにお考えですか】

出会いというのは、偶然ではないと思うんですね。
これは動かしようのない一つの法則性があって、
どんな人に出会うかは自分次第なんですよ。

そう思いません? 

運の悪い人は知り合う人もやっぱり運が悪いですよ。
やくざの下にはやくざが集まる。
性悪女は性悪男とくっつく。
これは不思議なものです。

仮に性格のいい人と付き合っても、次第に離れていきます。

だから「嫁さんは立派だけど、亭主はねえ」
なんていうことはなくて、
家庭の中に入ってみたら似た者同士ですよ。

どちらか一方だけが悪いなんていうことはない。

それを分かりやすい言い方をすると、
「命の器」だと僕は言うんです。

人と人は、その人の最も核となるもの、
基底部を成している傾向性が共鳴し合う。

要するにどんな人に出会い、縁を結んでいくかは、
その人の「命の器」次第ということです。
そして、その出会いの質を変えるには、
自分が変わるしかないんです。

【記者:自分の「命の器」以上の出会いも縁もないと】

と思います。

そういう意味では、今回の作品もそうですが、
僕は善き人たちが繋がり合っていくことで、
ささやかであっても人間的に成長したり、
小さな幸福や幸運の連鎖が起こるような、
そんな作品を書こうと思ってずっとやってきました。

 「人間一人一使命」

日曜日, 10月 21st, 2012

  松井 直輝 (学校法人泉新学園理事長・学園長)

                『致知』2012年10号
                      致知随想より
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人間は誰もが自分にしか成し遂げられない
固有の使命を持ってこの世に生まれてくる。

人間一人一使命――これが私の考えです。

そして私の使命は、幼児教育で日本を変えることです。

日本は近年、家庭崩壊、学級崩壊、犯罪の低年齢化、
ニートの増加等々、様々な問題を抱え、
国の行く末に深刻な危機感が募っています。

これらはいずれも人間教育の崩壊と深く関わっていると言えるでしょう。

私はこの問題解決の鍵を握るのは、
幼児期の態度教育であると考え、
その実践と普及に全力で取り組んでいます。

私が亡くなった母の後を継ぎ、
大阪と和歌山で3つの幼稚園を運営する
泉新学園の学園長に就任したのは平成13年でした。

長年学園長を務めていた母は地元の信望も厚く、
園は多くのご家庭から園児をお預かりして
活気に満ちていました。

私はそれまで園長として一つの園の運営を担ってはいましたが、
全体を統括する学園長の経験は当然ありません。

保護者の間からは、

「うちの子はあなたの園に入れたのではない、
 あなたのお母さんの園に入れたのです」

といった不安の声も上がり、入園数は低迷。
5年後には全体の約4分の1に当たる
100人減という危機的状況に至りました。

ところがその翌年から再び園児は増え始め、
短期間のうちに元の水準に戻るV字回復を実現できたのです。
その原動力となったのが態度教育でした。

私はかねてより国民教育の父と謳われた森信三先生の教えを、
高弟である寺田一清先生や石橋富知子先生を通じて学び、
そこで説かれる態度教育の素晴らしさを実感していました。

学園長就任は、この教えを当園に導入する絶好の機会となったのです。

導入に当たり、私は森先生の教えである
躾の三原則(挨拶の励行、元気な返事、履き物を揃える)と
立腰(腰骨を立て姿勢をよくする)に
食育(食事のマナー)を加えた5つを
態度教育の根幹に据えました。

ただし、これらを園児に身につけさせるためには、
まず園児を指導する教師自身が
十分に実践できていなければなりません。

当初は当園の教師にも、こちらが話している最中に
下を向いていたり、呼んでもきちんとした返事が
返ってこないような態度がしばしば見受けられました。

人の意識を変えるのは容易ではありません。
効果を期待して導入した研修に全員が反発し、
ドロップアウトという不本意な結果に終わったこともありました。

それでも諦めることなく模索を続け、行き着いたのが朝礼でした。

スランプに陥った野球選手は基本に返って素振りを繰り返します。
同様に職場が立ち返るべき基本、それは朝礼であると私は確信しています。

朝礼は業務連絡の場に止まらず、
取り組み方次第で挨拶、返事をはじめ
態度教育の基本を磨くかけがえのない研修の場となります。

毎朝真剣に実践すれば、一人ひとりに染みついた
思考、感情、行動が徐々に変化し、
新しい習慣が身についていきます。

当園も5年間の試行錯誤を経て、教師が変わり、
自ずと園児の教育にもよい効果がもたらされるようになりました。
しっかりとした朝礼が定着した頃から、
園児数は再び増え始めたのです。

「活力朝礼」といわれる当園の朝礼は、
いまでは全国から1,000人以上もの見学者が訪れ、
導入された組織の社風が3か月で一変すると反響を呼んでいます。

内容は挨拶に始まり、その日の業務や連絡事項の確認、
テーマを決めてのディスカッション、
各自が取り組んでいるテーマの発表等で、
所要時間は僅か10分。

一人ひとりがその短い時間の意義を理解し、
全力で取り組んでいます。

誌面で十分お伝えできないのが残念ですが、
朝礼中は元気な声が飛び交い、皆の心が一つになり、
朝一番から全力疾走できる構えができます。

園の運営が再び軌道に乗り、
今後のことを模索していた折、ある方から、

「男の器量は嫁さんに聞けばすぐ分かる」

と言われ、さっそく妻に自分の印象を尋ねてみました。

「あなたはお金をすべて教育につぎ込む人だから、
 経済的な期待はしていません。
 だけど将来は総理大臣とも友達になるくらいの人だと思う」

思いがけない言葉でしたが、確かに自分が携わる
幼児教育を突き詰めれば、日本の将来を左右する
重要な仕事と言えます。

これまで抱いていたイメージを変えて取り組まなければ、
と考えを改めたところから、
私は幼児教育で日本を変えるという
自分の使命を自覚したのでした。

冒頭に記したように様々な問題を抱える日本の現状を、
態度教育を通じて打開していくため、私は平成20年に
NPO法人エンジェルサポートアソシエーションを立ち上げ、
各地での研修や講演会、子育て教室に精力的に取り組んでいます。

教育で何より大切なのは、子供たちに自分が愛されている実感を
持たせることだと思います。

愛情溢れる教育環境の中でしっかりとした
態度教育を施している園からは、
子供の集中力や自律力が養われ、
三学期までかけて実施する学習が一学期で終わった、
運動会の練習が短時間で終わるようになった等々、
様々な報告が寄せられ、手応えを感じています。

今後も己の使命に邁進して日本の教育を立て直し、
それが世界に尊敬される国づくりに通じれば幸いです。

『教育勅語の真実』

金曜日, 10月 19th, 2012

 世界から称賛される日本人の美質を育んだ
 『教育勅語の真実』

    伊藤 哲夫
    
     ⇒ http://shop.chichi.co.jp/item_detail.command?item_cd=939

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◆ 日本人を日本人たらしめた「教育勅語」
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 今年7月30日で明治天皇が崩御されてから100年が経ちました。
 その即位から始まり、
 明治期は日本にとって、
 まさに激動の時代だったといえます。

 維新後、
 開国とともに日本に流れ込んできた
 西洋文明や自由民権思想によって
 皇室や日本的な精神文化を軽視する向きが強くなりました。

 知識人の間では鹿鳴館(ろくめいかん)で踊ることが
 西洋的・近代的であるとされ、
 中には日本語廃止論を唱える者まで現れたのです。
 

 この価値観の混乱を憂えたのが明治天皇であり、
 本書ではそのご下命を受けた
 井上毅(こわし)がいかにして「教育勅語」を起草したのか、
 彼の人生を通してそこに込めた思いが描かれています。
 

 国を一つにまとめるには、
 まず「日本の国のかたち」は何かを突き止めなければなりません。
 『古事記』や『日本書紀』など
 国学を中心とした古典研究に
 猛烈に取り組んだ井上は、一つの気づきを得ました。

 それは、「しらす」という
 天皇の徳に基づく治世こそ日本の国体であり、
 これを守ることが国民教育の土台であると考えたのです。

 そこから草案を作成、
 「天皇の師」といわれた元田永孚(もとだ・ながさね)に教えを請い、
 約1か月に及んで何度も修正に次ぐ修正を重ねた結果、
 明治23年10月23日、明治天皇の御名で「教育勅語」は発布されました。

 それから長く国民教育の指針であったにもかかわらず、
 昭和20年の敗戦を契機に日本社会から葬り去られた「教育勅語」。

 現代日本の様ざまな事件や問題を鑑みると、
 明治初期と同等かそれ以上の価値観の混乱は否めません。

 そこに楔(くさび)を打つべく、
 いま再び精神的支柱として「教育勅語」の復活を望む声もあります。
 「教育勅語」起草の真実を知ることが、
 日本の精神復興の第一歩に繋がるかもしれません。

尖閣諸島を行政区域に持つ

木曜日, 10月 18th, 2012

 一触即発の危機にある
        尖閣諸島を行政区域に持つ
          沖縄県石垣市長
         
           中山 義隆 氏の名言

                『致知』2012年11月号
                 特集「一念、道を拓く」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html

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 ◆  いくら日の丸や君が代に反対したところで、
   国家の将来図は絶対に示せない。
   
   自分の帰属するところを明確に理解し、
   家族を守りたかったら地域を守らなくてはならないし、
   地域を守ろうと思ったら国家を守らなくてはいけない。
   そういう意識を国民が持てば、この国は変わっていくと思います。
 

 ◆ いまこの危機を乗り越えるのに大切なのは、
   皆が意識を共有することと言えないでしょうか。
   意識が一つになってさえいれば
      解決できることがたくさんあると思うんです。

 ◆ 政治家自らが話を誤魔化すことなく
   明確な国家観や将来像を語り、それを実行する。
   私はこの国を再興し、誇りを取り戻すスタートは
   そこからだと思います。

 ◆ もし尖閣を取られるようなことがあれば、
   領土拡大を目指す中国が石垣島から
   170キロ先まで進出してくることになります。

   そうなると日中中間点は85キロ先になり、
   我われの目と鼻の先まで軍艦がやってくる。