まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「『修身教授録』がひらいた世界」

月曜日, 10月 3rd, 2011

       
       
     寺田 一清  (不尽叢書刊行会代表)
     浅井 周英  (「実践人の家」理事長)
        
         『致知』2009年9月号
         特集「一書の恩徳、萬玉に勝る」より
       

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   年長者をも唸らせた森信三の教え

【寺田】 この『修身教授録』が
     広く読み継がれるようになった原点は、
     何といっても芦田恵之助先生です。 

     芦田先生は「恵雨会」という教師の勉強会を
     主宰されるほど教育界では有名な先生で、
     ある日森先生がその授業を見学に行かれ、
     当時はまだガリ版刷だった『修身教授録』を手渡された。

     すると芦田先生は非常に感激されて、
     翌日か翌々日にお電話があったといいます。

     そして後日、

     「この『修身教授録』を我々恵雨会の
     所依経(拠りどころとする経典)にしたい。
     ついては息子が経営する印刷屋で印刷して製本させてほしい」

     と頭を下げられたそうです。

【浅井】 芦田先生は森先生より20余年も年長でしたし、
     お弟子さんも多くいらっしゃった。

     その芦田先生が『修身教授録』を認められたばかりか、
     森先生の非凡さに感服して、
     晩年まで師として接しておられました。
     偉い方だったと思います。

【寺田】 森先生は出版にあたって、

     「印税は一切要りません。その代わり5巻にしてほしい」

     という条件を出されました。
     森先生の著作というのは、なぜか全5巻が多いんですよ。
     それで「躾の三原則」とか、
     原理的・実践的なものはほとんど三つです。

【浅井】 そういえば、そうですね。 

【寺田】 そうして『修身教授録』全5巻を
     芦田先生のご令息の会社から出版したところ、
     傾きかけていた印刷所が立ち直ったというくらいですから、
     そうとう広まったのでしょう。
     しかし、森先生は最後まで印税は一銭ももらいませんでした。

【浅井】 ただ、教育界では広く知られていた『修身教授録』が、
     いまは実業界などでも広く読まれるようになりました。

     それは、やはり寺田先生の功績が大きいでしょう。
     5巻あった同書を一冊に集約されたわけですから。

【寺田】 全5巻のうち一冊はまるまる女子教育に関するもの、
     またもともと満州事変の前に話された内容ですから、
     復刊するにあたっては時代にそぐわない内容もありました。

     それを私のほうで取捨選択して、一冊に凝縮したものが、
     いま致知出版社から出ている『修身教授録』です。
     これは平成元年に出させてもらいました。

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「躾(しつけ)の三原則」とは・・・

第一 朝必ず親にあいさつをする子にすること

第二 親に呼ばれたら必ず、「ハイ」と
   はっきり返事のできる子にすること

第三 履物を脱いだら必ずそろえ、
   席を立ったら必ずイスを入れる子にすること

森先生は、躾はこの3つを根本とし
これらを徹底させれば、それだけで子供が
人間としての軌道にのると説かれていました。

 「無限の力」

日曜日, 10月 2nd, 2011


                   ~~~~~~~~~~~~~~~~~

                   尾崎 まり子 (主婦、喫茶店勤務)

             『致知』2004年7月号「致知随想」
             ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

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 突然、それは本当に突然でした。
 四年前になります。
 
 お正月を過ぎてほどない日の午後、
 息子の功が意識を失って倒れたのです。
 
 不整脈から心肺停止状態に陥ったのでした。
 小学生から野球に熱中し、中学生になると
 浦安リトルシニアに入り、やがては甲子園出場、
 巨人入団を夢見ていました。
 
 そんな作文を小学六年の時に書いています。
 
 中学三年で身長百七十六センチ、体重六十三キロ、
 鍛えた筋肉質の身体は頑健で、
 学校は無遅刻無欠席、病気らしい病気を知らずにきた子でした。
 それだけに突然の異変は驚きでした。

 それから四か月、何度も訪れた危篤状態を
 驚くような生命力で乗り越え、
 平成十二年五月二十日、功は天国に旅立ちました。
 十五歳八か月の人生でした。

 振り返ると、一日二十四時間では
 とても足りないような毎日を過ごした子でした。
 
 中学生になると、土日は野球の練習や試合でいっぱい。
 
 学校では生徒会役員を一年生からやり、
 三年では学級委員長も務めました。
 
 それだけでも手いっぱいなのに、
 部活動ではバスケット部に入りました。
 
 苦手の英語も、英会話で進める授業の面白さに引かれ、
 その勉強もしなければなりません。
 
 野球の仲間、クラスメートとの遊びもあります。

 あれもやりたい。
 これもやりたい。
 でも、功はこだわりの強い性格なのでしょうか。
 
 中途半端が大嫌いで、どれ一つとして疎かにはできません。
 徹底してやるから、時間がいくらあっても足りないはずです。

「ああ、時間が欲しいよォ」

 いまでも功の声が聞こえるような気がします。
 あんなふうに生きたのも、自分に与えられた
 時間の短さを予感していたからなのかもしれません。

 といって、功は特に才能に恵まれた子ではありませんでした。
 いささか恵まれているといえば背の高さぐらい。
 
 まず運動神経も人並み、頭脳のほうも
 人並みというのが率直なところです。

 だから、何かを達成しようと思えば、
 努力しなければなりません。
 
 野球でレギュラーになるのも努力、
 生徒会役員の務めを果たすのも努力という具合です。
 そして、目標を立て努力すれば夢は叶うという確信を、
 小さい営みの中で功なりにつかんだのでしょう。
 
 いつごろからか、功はそのことを
 「無限の力」という言葉で表現するようになりました。

誰にでも無限の力があるんだよ。
 無限の力を信じれば目標は必ず叶うんだ

 お母さん、これだけはちゃんと聞いてくれよという感じで、
 夕餉(ゆうげ)の食卓で功が言ったことを、
 昨日のように思い出します。

「無限の力」で忘れられないのは、
 やはり中学三年の時の校内合唱祭でしょうか。
 
 音楽が得意というわけでもなく、楽譜も読めない功が、
 自分から立候補して指揮をすることになったと
 聞いた時は驚きました。
 
 それからは楽譜と首っ引きで指揮の練習です。
 
 腕を振りすぎて痛くなったり、
 クラスのまとまりの悪さに悩んだり、
 いろいろとあったようですが、
 功は「無限の力」を学級目標にかかげ、
 みんなを引っ張っていったのでした。

 そして、クラスは最優秀賞、自身は
 指揮者賞を受けたのです。名を呼ばれ、
 周りにピースサインを送り、
 はにかんだ笑顔で立ち上がった功。
 「無限の力」は本当だと思ったことでした。

 その二か月後に功は倒れ、帰らぬ人になりました。
 しかし、私が「無限の力」を実感するようになったのは、
 それからかもしれません。

 一緒に野球をしてきた親友は功の写真に、
 「おれがおまえを甲子園に連れてってやる」と誓い、
 甲子園出場を果たしました。
 
 「功が言っていた無限の力を信じて、看護師を目指すよ」
 
 と報告してくれた女の子もいました。

 出会い、触れ合った人たちに何かを残していった功。
 それこそが「無限の力」なのでしょう。

 私も、と思わずにはいられません。
 自分の中にある「無限の力」を信じて、
 自分の場所で、自分にできることを精いっぱい果たしていく。
 
 そういう生き方ができた時、
 功は私の中で生き続けることになるのだと思います。

 先日、用事があって久しぶりに
 功が通っていた中学校を訪れました。

 玄関を入って私は立ちすくみ、動けなくなりました。
 
 正面の壁に功の作文が張り出されていたのです。
 それは功が倒れる数日前に書いたものでした。

 あれから月日が経ち、先生方も異動され、
 功をご存知の方は三人ほどのはずです。
 
 それでも功の作文が張られているのは、
 何かを伝えるものがあると思われたからでしょう。
 
 これを読んで一人でも二人でも何かを感じてくれたら、
 功はここでも生きているのだと思ったことでした。

 最後に、拙いものですが、功の「友情」と
 題された作文を写させていただきます。

《 私にとって「友情」とは、
 信頼でき助け合っていくのが友情だと思う。

 そして、心が通い合うことが最も大切なことだと思う。

 時には意見が食い違い、言い合う事も友情のひとつだと思う。

 なぜなら、その人のことを本気で思っているからだ。

 
 相手のことを思いやれば、相手も自分のことを
 必要と感じてくれるはずだ。

 
 私には友が一番だ。

 だから、友人を大切にする。

 人は一人では生きられない。

 
 陰で支えてくれている人を忘れてはいけない。

 
 お互いに必要だと感じることが、友情だと思う。

                                                            尾崎 功        》

『生き方の流儀』

土曜日, 10月 1st, 2011

   藤尾 秀昭 「小さな人生論」

・・・・・・・・・・・「運」についての話。

米長先生は最後にこのテーマに言及され、
ねたむ、そねむ、にくむ、ひがむ、うらむ。
 そういう気持ちを持っている人に運はついてこない。
 そういう人は運命の女神から見放される
と締めくくられました。

渡部昇一先生は「惜福(せきふく) 」の話をされました。
これは自分に舞い込んできた幸福を惜しむということ。
自分に舞い込んできた幸福を使い切らないで
大事に一部とっておく。
そういう心がけの人に運命の女神は微笑む――ということです。

まさに、その通りだと思います。
両先生の話に首肯(しゅこう)しながら、
私はその時、道元の言葉を思い出していました。

古人云(いわ)く、霧の中を行けば覚えざるに衣しめる、と。
 よき人に近づけば覚えざるによき人になるなり

昔の人は霧の中を歩いていると
知らないうちに衣がしめるといっている。
それと同じように、よき人のそばにいると、
知らないうちに、自分もよき人になっている、
ということです。

道元のこの言葉は
実は運をよくする神髄(しんずい)を
教えているのではないかと思います。

どんなに才能のある人でも
悪い人の中に交わっていては
運をよくすることはできません。

よき人に交わり、よき言葉、よき教えにふれていくことこそ、
運をよくする根元であろうと思うのです。

安岡正篤師の言葉があります。

人間はできるだけ早くから、
 良き師、良き友を持ち、良き書を読み、
 ひそかに自ら省み、自ら修めることである。
 人生は心がけと努力次第である

「どのくらい我慢すればいいですか?」

土曜日, 10月 1st, 2011

       
       
            鍵山 秀三郎 (イエローハット相談役)
        
            『致知』1999年8月号
             特集「節から芽が出る」より
            

                      ※肩書きは掲載当時です。

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叩かれ、踏みつけられた思いは私にもありますが、
私の場合はどんなことでも
割合簡単に譲るようにしてきました。

人が一歩踏み込んできたら「いいですよ」と引く。
すると相手は甘く見てどんどん踏み込んできますが、
私はどんどん引く。

しかしそれがある一線に達して、
私が「ほい、待った」と言ったときは
もう一歩も譲りません。

一歩も譲らないのは私個人の利害からではありません。
これを譲ったら社員が幸せにならないとか、
社会が良くならない、あるいは相手にもよくないと思ったら
絶対に譲りません。

量販店との取り引きをやめたのもそうですが、
相手が暴力団でも譲らずにやってきました。

大勢のやくざに一昼夜以上監禁されて
「金額が記入していない白地小切手を会社から届けさせろ」
と脅されたこともありました。

小切手にどれほどの金額を書き込まれるかわかりませんから、
断じて譲りませんでした。

そのときは着ている洋服をカミソリでずたずたに切られて
家に戻ったものです。

中国の言葉に

「睡面自乾(すいめんじかん)」

というのがあります。
喧嘩がめっぽう強い青年に、村の長老が

「世の中には強い人間がたくさんいるから、
 これからは我慢して喧嘩はするな」

と諭しました。

「どのくらい我慢すればいいですか」

と尋ねた青年に、

「たとえ顔につばきを引っかけられても我慢する。
 それも拭ったりせず、自然と乾くまでほっておけ」

と長老は答えました。それがこの四文字の意味です。

私は喧嘩が強いというわけではないですが、
人生において何度も、この言葉を思い出して我慢をしてきました。

仕事も人生も大切なことは、
「いかに将来良いことを、いまやるか」
ということに尽きます。

歴史を見ましても、人間、企業、国家が
いま良くて将来も良かったということはありません。
いまが悪くて将来良くなる、あるいは、
いまが良くて将来悪くなるというのが
歴史を見てわかる方程式です。

ところが、日本ではいま、
良いことばっかりを狙っていますから、
これでは将来は悪くなるばかりです。

そうではなく、いまは苦しくても
将来良くなるであろうことを願ってやっていく。

これが人生にも仕事にも共通する
大事な心構えだと思います。

「エジソンの思考術」

水曜日, 9月 28th, 2011

        
       
            斎藤 茂太 (精神科医)
        
            『致知』2002年2月号
             特集「尽己」より
            

                      ※肩書きは掲載当時です。

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(坂村真民氏との対談記事より)

これは私自身が八十三年の人生を
生きてきて得た結論ですが、人間は、

一つは気力、

二つは人とうまくやること、

三つは百%達成しなくても悲観しない。

もちろん、望むんですが、百%達成できる人は
ほとんどいないんですから、七十%ぐらいで満足する。

この三つが大事だと思います。

坂村真民先生のおっしゃる一本の道というのは、
ぼくの言葉でいえば、根気ですよ。

いまの若い連中、根気のないのが、本当に多い。
もう一日で会社をやめるのがいっぱい、います。
しかし、人生で何かを成す上で、根気というのは不可欠です。

私の好きな話に、エジソンが電気のフィラメントになる素材を
発見するに至ったエピソードがあります。

彼は、電気のプラスとマイナスに
何をつなげば光を発するかを求めて、
その辺にあるものを片っ端から実験していった。

人間の髪の毛、こより、自分が食べ残したチーズ、
あらゆるものを実験し、その数は三千種類にも及んだが、
いい結果が得られなかった。

友人がみかねて

「もう三千回も実験したから気がすんだろう。
 そろそろ諦めたらどうだ」

といった時に、エジソンは、

バカなことをいうな。
 世の中に物質は五千五百種類あると聞いている。
 私はそのうちの三千の物質をすでに実験した。
 
 残りは二千五百。
 成功はもう目の前まできている
 

といった。このエジソンの根気のおかげで、
我々は電気という恩恵に浴している。

   (略)

精神の病気の最悪の状態は、根気をなくすことですね。

「汗のなかからホンマもんの知恵が出るんやで」

火曜日, 9月 27th, 2011

       
       
            江口 克彦 (PHP研究所副社長)
        
            『致知』1997年5月号
             特集「リーダーシップの本質」より
            

                      ※肩書きは掲載当時です。

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松下幸之助の言葉に

「風が吹くときは絶好や。凧がよう上がる」

というのがあります。
あるいは「短所は長所、長所は短所」とも言っています。

たしかに、考え方、見方によって物事は180度転換します。
だから、経営者が業績の悪さを景気のせいにしてはいけないのです。

松下が

「好況よし、不況なおよし」

と言っているのもそのことです。
松下電器がそうでした。

松下幸之助が元気だった頃は、
不況のときにむしろ取り引きが拡大しているのです。

なぜかと言いますと、
不況になると誠実で確実な企業と
取り引きをしたいと思うのが人情です。

好況のときにいくらいい成績をあげていても、
お客様のことを考えず、会社のこと、
自分たちのことばかりを考えていた企業は、
不況時には相手にされなくなります。

私が30歳になるかならないかの頃、ある経営者から、

「知恵ある者は知恵を出せ。

 知恵なき者は汗を出せ。

 それができない者は去れ。

 それがオレのモットーだ」

と聞かされたことがあります。
そのことを松下に話すと、

「その会社は潰れるな」

と言いました。そして、こう続けたのです。

「わしなら、まず汗を出せと言う。

 汗のなかから知恵を出せ、

 それができない者は去れと言う。

 汗のなかからホンマもんの知恵が出るんやで。

 生きた知恵は汗のなかから出るもんや

予言通りその会社は倒産しました。

そのように、汗を出すこと、
ほんとうの汗を流すことに徹すれば、
不況どこ吹く風となるのかもしれません。

「脳内の内部留保を厚くせよ」

月曜日, 9月 26th, 2011

       
       
            生田 正治 (商船三井最高顧問)
        
            『致知』2011年10月号
             連載「二十代をどう生きるか」より

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 私自身のことを振り返ってみて、
 二十代でまず大切だと思うのは、
 自分の頭で考える力を養う、ということが一つ。
 
 次に、様々なことに幅広く興味や関心を持つこと。
 
 私の周りを見てみても、社会的に成功を収めているのは
 好奇心のかたまりのような人がほとんどである。
 そういう気持ちを常に持っていることが、
 人をよく知ることにも繋がっていくのだろう。
 
 
 また人を知ると同時に、自国の歴史を知っておくことは
 外国人と交流をする上での必須条件である。
 
 私が社会人になってから愛読したのが、
 司馬遼太郎の一連の歴史小説だった。
 
 中でも『坂の上の雲』に描かれている
 氏の歴史観や国家観には深い感銘を受けた。
 
 氏はこの作品の中で革命によって
 短期間に近代国家をつくり、
 列強を打ち破る様を描きつつ、
 その主導者がどういった末路を辿ったかを表し、
 次代への警鐘を鳴らしている。
 
 
 また同じく氏の『世に棲む日日』には、
 “革命は三代で成立する“との記述がある。
 
 初代は吉田松陰のように思想家として現れ、
 二代は高杉晋作のような乱世の雄(戦略家)、
 そして最後に現れるのが伊藤博文や山県有朋といった
 実務家だというのである。
 
 氏のこの洞察は、ビジネスの世界にもそのまま当てはまる。
 
 但(ただ)し、現代は昔とスピードが違うので、
 経営者は一人でこのうち二役以上を兼ね、
 思想(ビジョン)を明示し、戦略を打ち立てる。
 
 それと並行する形で有能な実務家を配下につけ、
 改革を行っていくという具合である。
 
 総じて言えば仕事や読書、遊びを通じて若い頃から
 「脳内の内部留保」をできるだけ広く深め、
 また出会った方々との関係も大切にし、
 どんな物事にも対応できるよう力を蓄えておくことが
 二十代を生きる上で肝要ではないかと思う。
 
 日本国を根本的に変えていくのは
 いまの政治家や経済界の幹部層ではなく若い人の力である。
 俄かに物事は成せずとも「継続は力なり」と信じ
 何事にも粘り強く取り組んでいってほしいと願っている。
 

「人という字を刻んだ息子」

日曜日, 9月 25th, 2011

                         秋丸 由美子(明月堂教育室長)

             『致知』2007年5月号「致知随想」
             ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

※明月堂は「博多通りもん」で有名な福岡の和菓子店です。
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■医師からの宣告
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

主人が肝硬変と診断されたのは昭和54年、
結婚して間もなくの頃でした。

「あと10年の命と思ってください」

という医師の言葉は、死の宣告そのものでした。

主人は福岡の菓子会社・明月堂の五男坊で、
営業部長として会社を支えていました。
その面倒見のよさで人々から親しまれ、
たくさんの仕事をこなしていましたが、
無理をして命を落としては、元も子もありません。

私は「まずは身体が大事だから、仕事は二の次にして
細く長く生きようね」と言いました。
しかし主人は「精一杯生きるなら、太く短くていいじゃないか」
と笑って相手にしないのです。

この言葉を聞いて私も覚悟を決めました。
10年という限られた期間、
人の何倍も働いて主人の生きた証を残したいと思った私は、
専業主婦として歩むのをやめ、
会社の事業に積極的に関わっていきました。

30年前といえば、九州の菓子業界全体が
沈滞ムードを脱しきれずにいた時期です。
暖簾と伝統さえ守っていけばいいという考えが
一般的な業界の意識でした。

明月堂も創業時からの主商品であるカステラで
そこそこの利益を上げていましたが、
このままでは将来どうなるか分からないという思いは
常に心のどこかにありました。

そこで私は主人と一緒に関東・関西の菓子業界を行脚し、
商品を見て回ることにしました。
そして愕然としました。
商品にしろ包装紙のデザインにしろ、
九州のそれと比べて大きな開きがあることを思い知らされたのです。

あるお洒落なパッケージに感動し、
うちにも取り入れられないかと
デザイナーの先生にお願いに行った時のことです。

「いくらデザインがよくても、それだけでは売れませんよ。
 それに私は心が動かないと仕事をお受けしない主義だから」

と簡単に断られてしまいました。

相手の心を動かすとはどういうことなのだろうか……。
私たちはそのことを考え続ける中で、一つの結論に達しました。

それは、いかに商品が立派でも、
菓子の作り手が人間的に未熟であれば、
真の魅力は生まれないということでした。

人づくりの大切さを痛感したのはこの時です。

■「博多通りもん」の誕生
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

以来、菓子屋を訪問する際には、
売れ筋の商品ばかり見るのではなく、
オーナーさんに直接会ってその考え方に触れることにしました。

しかし、同業者が突然訪ねていって、
胸襟を開いてくれることはまずありません。
行くところ行くところ門前払いの扱いでした。

忘れられないのが、神戸のある洋菓子店に
飛び込んだ時のことです。

そのオーナーさんは忙しい中、一時間ほどを割いて
ご自身の生き方や経営観を話してくださったのです。

誰にも相手にされない状態が長く続いていただけに、
人の温かさが身にしみました。
人の心を動かす、人を育てるとはこういうことなのかと思いました。

いま、私たちの長男がこのオーナーさんのもとで
菓子作りの修業をさせていただいています。
全国行脚を終えた私たちは、社員の人格形成に力を入れる一方、
それまで学んだことを商品開発に生かせないかと
社長や製造部門に提案しました。

そして全社挙げて開発に取り組み、
苦心の末に誕生したのが、「博多通りもん」という商品です。
まったりとしながらも甘さを残さない味が人気を博し、
やがて当社の主力商品となり、いまでは
博多を代表する菓子として定着するまでになっています。

「天の時、地の利、人の和」といいますが、
様々な人の知恵と協力のおかげで
ヒット商品の誕生に結びついたことを思うと、
世の中の不思議を感ぜずにはいられません。

■「父を助けてください」
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ところで、余命10年といわれていた主人は
その後も元気で働き続け、私も一安心していました。
しかし平成15年、ついに肝不全で倒れてしまいました。
手術で一命は取り留めたものの、
容態は悪化し昏睡に近い状態に陥ったのです。

知人を通して肝臓移植の話を聞いたのは、そういう時でした。
私の肝臓では適合しないと分かった時、
名乗り出てくれたのは当時21歳の長男でした。
手術には相当の危険と激痛が伴います。
万一の際には、命を捨てる覚悟も必要です。

私ですら尻込みしそうになったこの辛い移植手術を、
長男はまったく躊躇する様子もなく

「僕は大丈夫です。父を助けてください」

と受け入れたのです。
この言葉を聞いて、私は大泣きしました。

手術前、長男はじっと天井を眺めていました。
自分の命を縮めてまでも父親を助けようとする
息子の心に思いを馳せながら、
私は戦場に子どもを送り出すような、
やり場のない気持ちを抑えることができませんでした。

そして幸いにも手術は成功しました。
長男のお腹には、78か所の小さな縫い目ができ、
それを結ぶと、まるで「人」という字のようでした。

長男がお世話になっている
神戸の洋菓子店のオーナーさんが見舞いに来られた時、
手術痕を見ながら

「この人という字に人が寄ってくるよ。

 君は生きながらにして仏様を彫ってもらったんだ。

 お父さんだけでなく会社と社員と家族を助けた。

 この傷は君の勲章だぞ」

とおっしゃいました。
この一言で私はどれだけ救われたことでしょう。

お腹の傷を自慢げに見せる息子を見ながら、
私は「この子は私を超えた」と素直に思いました。
と同時に主人の病気と息子の生き方を通して、
私もまた大きく成長させてもらったと
感謝の思いで一杯になったのです。

『音楽家100の言葉』

土曜日, 9月 24th, 2011

沢辺 有司・著 

「この世界で一番不幸な人とは、自分の仕事に満足していない人だ」
(ジョン・レノン)

「人にはできないことというものがある」
「自分の持って生まれた性質と戦いたくはないんだ」
(ビル・エヴァンス)

「素晴らしい音楽を創造するためには、クソみたいなレコードを山
ほど聴かなきゃならないんだよ」(ミック・ジャガー)

「いったん金にだめにされたら、友達は得られない」(ボブ・マーリー)
(中略)多くのアフリカ移民の黒人が貧困・差別にあえぐジャマイ
カにあって、ボブはいつも、弱者の側にあった。差別される側、何
ももたない側に立ち、音楽を唯一の武器に闘った。そんなボブの言
葉がこれだ。もちろん本人は音楽的成功で高収入を得ていたが、金
に踊らされることはない。金を介した人間関係しか築けない人には
こう言った。「金を使い果たしたとき、あんたはおしまいだ」

「私が人を酷使するですって? いちばん酷使するのは自分自身で
すよ」(カラヤン)
(中略)メディアを駆使して大儲けしたカラヤンへの偏見は強く、
歌手もオーケストラも酷使する完璧主義者ぶりには批判の声が集ま
った。そんな批判に反論したのがこれだ。帝王カラヤンらしい言葉
である。彼は、つづけてこう言った。

「持っているものを出させることと酷使することははっきり違います」

「すべて偉大なものは単純である」  (フルトヴェングラー)

重要な問題は、すべて“この世”で解決しなきゃならないと思う。
死んでしまってから、どこだかよくわからない場所で解決するんじ
ゃなくてね」(ビリー・ジョエル)

「敵が、シーッと非難するのをやめたら、こちらは落ちめだってこ
とね」(マリア・カラス)

「望みを持ちましょう。でも、望みは多すぎてはいけません。多く
のことをなす近道は、一度にひとつのことだけすること」   (モーツァルト)

「あなたが音楽家になろうと思ったときから、あなたは音楽家なの
だ」(レナード・バーンスタイン)

「批評家がなんと言おうと気にしないことだ。これまで批評家の銅
像が建てられたことがあったかね」(ジャン・シベリウス)

「孤独や社会からの疎外感に悩んでいる人に、そう感じてるのはお
まえだけじゃない、おまえは決して間違っていないんだって教える
のが僕の務めなんだ」(マリリン・マンソン)

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『人生をひらく秘訣 ― 渋沢栄一と人間学』

金曜日, 9月 23rd, 2011

         藤尾 秀昭 

          (『致知』編集発行人)

「利に放りて行えば怨み多し」  ―という言葉が『論語』(里仁第四)にあります。

利益本位で物事を行ってゆくと、人の怨みを買うことが多い、という意味です。

サブプライムローンによる経済破綻は、

2500年前の孔子の忠告を無視した人間の業の現れといえます。

我が国の実業界の先達たちは一様に、

そのことを熟知していたが故に浮利を追うことをきつく戒めています。

論語と算盤の両方を大事にした渋沢栄一もその一人です。

その渋沢の『論語と算盤』をやさしく解説した

『渋沢栄一「論語と算盤」が教える人生繁栄の道』(渡部昇一著)がいま

八重洲ブツクセンターで3週間連続のベストテン入りを果たしています。

この本は渋沢流の人生をひらく秘訣を説いた本といえます。

渋沢はこの本の中で、

「高尚な人格をもって得た富や地位でなければ、完全な成功とはいわない」

と言い切っています。そして、

「人格を修養する方法は仏教もキリスト教もあるが、

自分は儒教に接してきたので、忠信孝悌の道を重んずることが

大いに権威ある人格養成法であると信じている」

と語っています。

忠信孝悌は『論語』が重んじた人としての徳目です。

とは、中する心、即ち何事にもまごころを尽くす、

全力をつくすという一ことです。

この忠が人に向かった時に、恕(おもいやり)になります。

は信頼、信用です。

信がなければ、あらゆるものが成立しない。

は親孝行をすること。

孝は人格の基礎を創る。即ち、運命を創る基となるものです。

さらにいえば、孝は親子のみならず、新と旧、上と下が連続統一することです。

二者の断絶するところに、生命の発展はありません。

は目上の人に従順であること。

この4つの徳目の実践、修得にこそ、人生はひらく―

渋沢が体験から得た哲学です。

話は転じます。

先日乗ったタクシーの運転手さん。

その方の本職は葬儀屋でひまな時にタクシーに乗るそうですが、

こんな話をしてくれました。

「本業のお客さんの話ですが、その男性は1年前、

母親が亡くなった時に父親から1億円の遺産をもらった。

1年たち今度は父親が亡くなったわけですが、

お金がないから火葬だけにしてくれたらいいという。

両親が汗水たらして貯めて息子に残してくれた遺産を

僅か1年もたたないうちに使い切ってしまった。

若い人ではない。50前後の人です。哀れなものですね」

この事実は何を教えているのでしょうか。

お金というものは、それにふさわしい人格の人が持たなければ、

その価値を生かし切れないということだと思います。

古来より『論語』と並び、人格向上に志す人の読むべき本といわれた

『大学』は全篇これ、人生をひらく教えに満ちていますが、その一節に、

「徳は本なり。財は末なり」

と書かれています。

財は大事です。人間にとって宝です。しかし、その大事な宝も

「本末」からいえば「末」であって、「本」は徳だというのです。

その通りです。

徳がなけれぱ、巨万の富を得ても空しく使い果たすに終わります。

まず、徳を身につける、それを「修身」といいます。

自らの身を修めていない人に人生はひらかない。

『大学』の教えの真髄です。

では、どうしたら身を修めることができるのか。

そのポイントを『大学』はこう指摘しています。

「忠信以て之を得、騎泰以て之を失う」

この意味は『致知』本誌ですでにしていますので省略しますが、

『大学』の中でも白眉の一文です。

出典は忘れましたが、これと似たような言葉があります。

厳己以成、騎己以敗

 

別に説明はいらないと思いますが、己を甘やかせず、

厳しく律していくことで物事は成功する。

しかし、騎慢になり、つつしみ、謙譲さを失うと、

必ず足を掬われ人生に敗れる―ということです。

科学的技術はめざましい進歩をとげていますが、

人間の本質は2,3千年前も今もそう変わらない。

私たちが人間学を学ぶ所以もそこにあります。

(二〇〇九年六月一日配信)