まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

 「ドラッカー7つの教訓(後編)」

土曜日, 10月 22nd, 2011

       
       
     上田 惇生 (ものつくり大学教授)
        
        『致知』2003年12月号
         特集「読書力」より
            

     ※肩書きは掲載当時です。

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世界のビジネス界に大きな影響を与えているドラッカーですが、
その思想形成に当たっては人生の中で
七回の精神的な節目が訪れたことを著書の中で述べています。

その七つの経験から得た教訓を最初に列記すると、
以下のようになります。

 一、目標とビジョンをもって行動する。

 二、常にベストを尽くす。「神々が見ている」と考える。

 三、一時に一つのことに集中する。

 四、定期的に検証と反省を行い、計画を立てる。

 五、新しい仕事が要求するものを考える。 

 六、仕事で挙げるべき成果を書き留めておき、
     実際の結果をフィードバックする。

 七、「何をもって憶えられたいか」を考える。

………………………………………………………………………………………………
※ここからが本日の内容です↓
………………………………………………………………………………………………

四つ目の節目は新聞社勤務時代でした。

当時、ドラッカーが大きな影響を受けたのは編集長でした。
この編集長は毎週末、部下一人ひとりと差しで
一週間の仕事ぶりについて、また一月と六月には
半年間の仕事ぶりについて話し合いました。

優れた仕事から始まり、一所懸命やったこと、
反対に一所懸命やらなかったことなどを次々に取り上げ、
最後に失敗やお粗末な仕事ぶりは徹底して批判しました。

この中で記者たちは、今後の仕事で

「集中すべきことは何か」
「改善すべきことは何か」
「勉強すべきことは何か」

を探るのです。

彼がこの差しの討議の意義に気づいたのは、
随分時間が経ってからでした。

アメリカに移り、大学教授やコンサルタントの仕事を
始めてからだといいます。

以来、夏になると二週間ほど時間をつくり、
コンサルティング、執筆、授業について一年を反省し、
次の一年の優先順位を決めるのが習慣になりました。

          * *

五つ目の経験は「新しい仕事が要求するものを考える」
大切さを知ったことです。

ロンドン時代に証券会社から投資会社に移った時、
上司からこう言われます。

「君は思っていたよりもはるかに駄目だ。あきれるほどだ」と。

やがて彼は叱責の理由が、新しい仕事に移ってからも、
証券アナリストとしての仕事ぶりから
抜けきれないことにあったと気づきます。

これをきっかけに、新しい仕事に取り組む際は、

「この仕事で成果を上げるには何をしなくてはならないか」

と自問するようになるのです。

          * *

六つ目はアメリカでヨーロッパ史を学んでいた時、
近世のヨーロッパで力をつけていた
カトリック系のイエズス会とプロテスタント系のカルヴァン派の二つが、
奇しくも同じ方法で成長を遂げたことを知ったことでした。

両派の修道士や牧師は何か大きな仕事をする時には、
期待する成果を書き留め、一定の期間が過ぎた後、
結果と期待を見比べることで自分は何ができるか、
何が強みかを知っていたのです。

ドラッカー自身、この方法を実践し自らの強みを知り、
それをいかに強化するかに努力しています。

          * *
          

ドラッカーが七つ目に挙げた経験は、
小学校の頃、宗教の先生から聞かされた言葉でした。

「何をもって憶えられたいか」です。

同じことは彼が四十代の頃、父親と、その教え子であって、
かつ友人である経済学者シュンペーターとの会話でも耳にしたといいます。
ドラッカーの父はシュンペーターに質問しました。

「自分が何によって知られたいか、いまでも考えることはあるかね」と。

というのは、シュンペーターは若い頃
「ヨーロッパ一の美人を愛人にし、ヨーロッパ一の馬術家として、
  そしておそらくは世界一の経済学者として知られたい」
と言っていたからです

その質問に対するシュンペーターの答えは

「昔とは考えが変わった。
 いまは優秀な学生を一流の経済学者に育てた教師として知られたい。
 理論で名を残すだけでは満足できなくなった。

 人を変えることができなかったら、
 何も変えたことにはならないから」

というものでした。

ドラッカーはこの会話から

「人は何によって知られたいかを自問自答しなくてはならない」

「その答えは年を取るごとに変わっていかなければならない」

「本当に知られるに値することは、人を素晴らしい人に変えることである」

の三つを学んだのです。

彼のこの七つの経験のうち三つまでが
読書によって培われたものでした。

彼は若い頃からハンブルク市立図書館の本を
全部読んだのではないかと言われるほど大変な読書家でした。

二十九歳の時の処女作『経済人の終わり』に、
プラトン、ソクラテスなどのギリシャ哲学から
ヒトラー、ムッソリーニまで二百人以上の思想と言葉が
紹介されていることをみても、それが理解できます。

数々の著書が生まれる背景に、
膨大な読書に培われた知識があることは
疑う余地がありません。  (談)

http://youtu.be/qhEJzHsgc-8

   「ドラッカー7つの教訓(前編)」

土曜日, 10月 22nd, 2011

           
       
       上田 惇生 (ものつくり大学教授)
        
         『致知』2003年12月号
          特集「読書力」より
              ※肩書きは掲載当時です。

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世界のビジネス界に大きな影響を与えているドラッカーですが、
その思想形成に当たっては人生の中で
七回の精神的な節目が訪れたことを著書の中で述べています。

その七つの経験から得た教訓を最初に列記すると、
以下のようになります。

 一、目標とビジョンをもって行動する。

 二、常にベストを尽くす。「神々が見ている」と考える。

 三、一時に一つのことに集中する。

 四、定期的に検証と反省を行い、計画を立てる。

 五、新しい仕事が要求するものを考える。 

 六、仕事で挙げるべき成果を書き留めておき、
     実際の結果をフィードバックする。

 七、「何をもって憶えられたいか」を考える。

最初の教訓「目標とビジョンをもって行動する」を得たのは、
ドラッカーが商社の見習いをしていた頃でした。
当時、彼は週一回オペラを聞きに行くのを楽しみにしていました。

ある夜、信じられない力強さで人生の喜びを
歌い上げるオペラを耳にし、
その作者が八十歳を越えた後の
ヴェルディによるものであることを知ります。

なぜ八十歳にして並はずれた難しいオペラを書く
仕事に取り組んだのか、との質問にヴェルディは

「いつも満足できないできた。
  だから、もう一度挑戦する必要があった」

と答えたのです。

十八歳ですでに音楽家として
名を馳せていたヴェルディが、
八十歳にして発したこの言葉は、
一商社の見習いだったドラッカーの心に火をつけます。

何歳になっても、いつまでも諦めずに
挑戦し続けるこの言葉から、
「目標とビジョンをもって行動する」ということを学び、
習慣化したのがドラッカーの最初の体験でした。

        * *

その頃彼は、ギリシャの彫刻家・フェイディアスに関する
一冊の本を読みます。これが二つ目の経験です。

フェイディアスはアテネのパンテオンの屋根に立つ
彫刻群を完成させたことで知られています。
彫刻の完成後、フェイディアスの請求書を見た会計官が

「彫刻の背中は見えない。
 その分まで請求するとは何事か」

と言ったところ、彼の答えはこうでした。

「そんなことはない。神々は見ている」と。

この話を読んだドラッカーは

「神々しか見ていなくても、
 完全を求めていかなくてはならない」

と肝に銘じます。

        * *

三つ目の気づきはフランクフルトの新聞社に
勤めていた時に訪れます。

新聞は夕刊紙だったので、彼は朝六時から午後二時までの
勤務を終えた後、残りの時間と夜の時間を使って
徹底的に勉強しました。

その時、身につけたのが

「一時に一つのことに集中して勉強する」

という勉強法でした。
テーマは統計学、中世史、日本画、経済学など多岐にわたりますが、
一時に一つという勉強法を長年、貫いています。

そのことでいろいろな知識を仕入れるだけでなく、
新しい体系やアプローチ、手法を学んだといいます。(談)

いにしえは今

金曜日, 10月 21st, 2011

 

元寇の座礁船が、伊万里湾の海中で発見されたという。

水軍が4400隻というから大軍団、一挙に玄界灘に現れた時の恐怖は察するに余りある。

宋代に無学祖元が、自国の能仁寺にいたとき、元の大兵に取り囲まれ、

一人端座しておられ、剣を突きつけられた。その時、

「この世のすべては空である。剣で斬るならそうしなさい。

しかし斬るといっても空を斬るのだから、電光が光るうちに春風を斬るようなもので手ごたえはないだろう」

見事な禅師の見識と度量に兵は逃げ去ったという。

乾坤、地として孤筇を卓する無し
喜び得たり、人空、法も亦た空
珍重す大元三尺の剣
電光影裏に春風を斬る

母国、宋の滅亡に遭うや、直ちに日本に渡来し、時の執権北条時宗を心血そそいで薫陶し、

彼をして二度にわたり元軍を撃滅せしめた。

時宗が、元の使いを、「・・・・・電光影裏に春風を斬る」と唱えて、一刀の許に斬首したのは、有名な話である。

700年もの長い歴史物語が、水の中から生々しい現実を伴って現れ出でた。

歴史は、常に新しいのだ。

「超凡破格の教育者 徳永康起先生」

木曜日, 10月 20th, 2011

       
       
    坂田 道信 (ハガキ道伝道者)
        
     『一流たちの金言』 ~第5章 教えより~
   http://www.chichi.co.jp/book/7_news/book934.html

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徳永先生は熊本県の歴史始まって以来
30代の若さで小学校の校長になられたほど優秀でしたが

「教員の仕事は教壇に立って教えることだ」

と5年で校長を降り、自ら志願して一教員に戻った人でした。

だからどの学校に行っても校長に嫌われるんですね。
自分より実力が上なものだから。

それで2年ごとに学校を出されてしまうんだけど
行く先々で教師たちが一番敬遠している
難しいクラスを受け持って
みんなを勉強好きに変えてしまうんです。

授業の前に児童たちが職員室へ迎えに来て
騎馬戦みたいに先生を担いで
「ワッショイ、ワッショイ」
と教室に連れて行ったというんです。

先生、早く教えてくれって。

先生は昼飯を食べない人でした。

なぜ食べないかというと、終戦直後、
昼の時間になると弁当を持ってこられない子どもたちが
さーっと教室からいなくなる。

それでひょっと校庭を見たら
その子たちが遊んでいたんです。

その時から自分もピタッと昼飯を食べるのを止めて
その子たちと楽しい遊びをして過ごすようになりました。

以来、昼飯はずっと食べない人生を送るんですよ、
晩年になっても。

これは戦前の話ですが

「明日は工作で切り出しナイフを使うから持っておいで」

と言って児童たちを帰したら、次の日の朝、

「先生、昨日買ったばかりのナイフがなくなりました」

という子が現われました。

先生はどの子が盗ったか分かるんですね。

それで全員外に出して遊ばせているうちに
盗ったと思われる子どもの机を見たら
やっぱり持ち主の名前を削り取って布に包んで入っていた。

先生はすぐに学校の裏の文房具屋に走って
同じナイフを買い、盗られた子の机の中に入れておきました。

子どもたちが教室に帰ってきた時

「おい、もう一度ナイフをよく探してごらん」

と言うと

「先生、ありました」

と。

そして

「むやみに人を疑うものじゃないぞ」

と言うんです。

その子は黙って涙を流して先生を見ていたといいます。

       * *

それから時代が流れ、戦時中です。

特攻隊が出陣する時、
みんなお父さん、お母さんに書くのに
たった一通、徳永先生宛の遺書があった。

もちろんナイフを盗った子です。

「先生、ありがとうございました。
 あのナイフ事件以来、徳永先生のような人生を
 送りたいと思うようになりました。
 明日はお国のために飛び立ってきます……」
 
 
という書き出しで始まる遺書を残すんです。

それから、こんな話もあります。

先生が熊本の山間の過疎地の教員をやられていた頃、
両親が分からない子がおったんです。

暴れ者でね、とうとう大変な悪さをやらかした時、
徳永先生は宿直の夜、

「君の精神を叩き直してやる」

と言って、その子をぎゅっと抱いて寝てやるんですよ。 

後に彼は会社経営で成功して
身寄りのない者を引き取って
立派に成長させては世の中に出していました。

「自分のいまがあるのは、小学校4年生の時に
 徳永康起先生に抱いて寝ていただいたのが始まりです。
 先生、いずこにおられましょうか」
 
 
という新聞広告を出して、40年ぶりに再会した
なんていう物語もありました。

この前もハガキ祭で教え子の横田さんという方に
思い出をお話しいただきましたが、
初めから終わりまでずっと泣いているんですよ。

定年退職をされた方だから
もう50年以上も前の思い出ですが
1時間ちょっとの間、ずーっと泣いている。

その方の感性も素晴らしいけど
やはり徳永先生の教育がすごかったんでしょう。

 「心の中に佐渡島をつくれ」

火曜日, 10月 18th, 2011

              
       
      伊藤 謙介 (京セラ相談役)
        
        『致知』2011年11月号
        特集「人生は心一つの置きどころ」より
 http://www.chichi.co.jp/monthly/201111_pickup.html#pick2

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若い人ばかりでなく、自身の戒めとしても
拳拳服膺してきた言葉に、

「我一心なり」

というものがあります。

心を一つに定め、よそ見をするな, ということです。
ある女子プロゴルファーが話していて感銘を受け、
心に刻んだ言葉です。

若い頃は隣の芝生が青く見えるものですが、
一度思い定めたら、誰がなんと言おうと
二心なく貫いていくことが大事です。

これはきょうのテーマである
「人生は心一つの置きどころ」という言葉にも繋がると思います。
各々が一つのことをひたすら一所懸命やっていく。

そういう心を一つに集約したものが企業であり、
企業の業績に結実するとともに、
そうやって仕事に打ち込むことは、
自分自身のためにもなるのです。

その決意を固めるために私は常々

「心の中に佐渡島をつくれ」

とも言っています。

社長になった頃、仕事で新潟に行った時に
佐渡島まで足を伸ばしたのです。

流刑の地として有名な佐渡島には、
たくさんの人々が流されましたが、
能の世阿弥も流されていたということを
その時初めて知りました。

世阿弥は佐渡島という逃げ場のない場所で
何年にもわたり極限の暮らしを余儀なくされました。

勝手な想像ですが、世阿弥にとって
あの佐渡島での流刑生活があったからこそ、
能楽を世界的な文化に高めるほどの
思想的な深みを得たのではないかと思うのです。

我々は目標を設定しても、
必ずしも思い通りにいくとは限りません。

そうなるとエクスキューズ(言い訳)が
出てしまいがちですが、それを自分に許してはならない。

世阿弥が逃げ場のない佐渡の流刑生活を経て
能楽を大成したように、心の中で絶対に
後には引かない決意をしなければなりません。

それによって自分を高められ、
厳しい目標も達成できるのです。

そのためにも、

「井の中の蛙大海を知らず」

という言葉がありますが、これに

「されど天の深さを知る」

と付け加えなければなりません。

大海を知らなくてもいい。
自分の持ち場を一所懸命掘り込んでいくことで、
すべてに通ずる真理に達することができるのです。

西郷南洲や大久保利通が、
情報のない時代に天下国家のみならず、
世界情勢までも知り得たのは、
やはり自分のいる場所を
とことん深掘りしていったからだと思います。

一芸を極めた芸術家が語る言葉に
万鈞の重みがあるように、
我々も自分の仕事に打ち込むことで
天の深さを知るのです。

生きるヒント

月曜日, 10月 17th, 2011

橋本 武 (灘校を東大合格者数トップにした伝説の国語教師)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   遊ぶのは好きだけど、学ぶのは嫌い。
   だったら好きなことで嫌いなことを包んでしまえばいい。
   それが自分の力をつけていくのに、
   もの凄く大きな働きになっている。

   そういう力が自然のうちにつくように仕向けていくのが、
   プロの教師としての務めでしょう。

 
  
  
永田 勝太郎 (フランクル博士の直弟子)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   フランクル先生は
   
  「たとえいかなる極限状況に置かれても、
   人間の心は自由だ。
   目をつむれば精神は花園に遊ぶことができる」

   と述べておられます。最後の瞬間まで諦めず
   希望にしがみつくことが大事だと思うんです。

菅野 敬一 (鞄ブランド・エアロコンセプト創始者)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

         私の欲しいものは、時に潔さとも表現できます。
   だったら出来上がるものもやはり少々不便でちょうどいい。
   相手に対する敬意や、お邪魔させていただく
   という気持ちがあれば、こっちは
   楽をすべきではないと思うんです。
   

昇地 三郎 (105歳 しいのみ学園理事長・園長)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

        人生は100歳からが本番、
   99歳までは助走である。

両 角 速 (無名だった佐久長聖高校男子駅伝部を強豪に育て上げた名将)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

         これは長距離走の特性とも関係しているわけですが、
   走っていて足が上がらない、息がゼエゼエ言う、
   もうこれ以上動けないという状態に追い込まれた時、
   求められるのはどれだけその状態に耐えられるかです。

   そこをさらに踏み込んだ選手が勝利を手にできる。

 「私の人生を拓いたもの」

日曜日, 10月 16th, 2011

       
       
    黒澤 眞次 (くろさわ・まさつぐ=イカリ消毒社長

            『致知』2004年4月号より

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 昭和三十八年八月、事務所に電話が入りました。
 
 
 「大変です、爆発事故です!」。
 
 
 私と兄は取る物も取りあえずに
 現場の池袋のデパートに向かいました。

 その日、デパートは定休日でした。
 全館の消毒を依頼され作業をしていましたが、
 昼休みに一服しようとマッチに火をつけた瞬間、
 可燃性の殺虫剤に火が燃え移ったといいます。
 
 隣では別の業者がシンナーを使って塗装しており、
 そこに火の手が及び爆発。
 デパートの七、八階が全焼し、
 死亡者が出るほどの大事故となってしまいました。
 翌日の新聞には「戦後最大の大火災」の文字が躍りました。

 その前年、創業者である父が急逝。
 社員十五名程度の小さな消毒会社でしたが、
 二十二歳になったばかりの兄と私、
 十代の弟が力を合わせて運営してきました。
 
 それがまさかこんな事態になってしまうとは……。
 死んでお詫びしようか、それとも刑務所で罪を償おうか。
 
 いずれにしても、とにかく謝罪に行かなければなりません。
 
 翌日、兄と二人でデパートのオーナーの元を訪ねました。
 
 すると、

「起きてしまったことは仕方がない。
 せっかくお父さんが残された会社なんだから、
 二度と事故を起こさないように気をつけて頑張りなさい。
 
 君たちはまだ若い。
 世のため人のためになる仕事をしてほしい」

 と、責めるどころか、私たちを励ましてくださったのです。
 兄も私も溢れる大粒の涙を止めることができませんでした。

 その後、消防署や警察で事情聴取を受けました。
 そこで聞かれるのは、決まって
 「危険物取扱主任者」の資格の有無。
 
 恥ずかしながら、その時までそんな資格があることなど、
 まったく知りませんでした。
 
 他にも業務に必要な資格があるのではないかと調べてみたところ、
 実に多くの知識・資格が必要だったのです。
 
 結局、あの事故は無知が引き起こしたものなのだ。
 消毒の仕事は一歩間違えば人の命をも奪ってしまう。
 二度と事故を起こさないためにも、
 一所懸命勉強しなければならない、と切実に思いました。

 その日から仕事の合間を縫って資格試験の勉強を開始。
 翌年には社員全員が「危険物取扱主任者」の免許を取得しました。
 
 高校卒業後すぐにこの仕事を始めたこともあり、
 大学に行っていない分、自分は資格で他の人に追いつこうと、
 その後も一年に一つ資格試験に挑戦し、合格していきました。

 数年後、ある朝、妻と一緒に近所を散歩していた時、
 朝五時から「朝の集い」の看板に出合い、
 「どなたでもご自由に参加できます」
 との内容に興味を惹かれ、
 早速、好奇心から夫婦揃って集いに参加。
 それが倫理法人会へ入るきっかけとなりました。

 その席で、「朝を制する者が人生を制す」という
 丸山先生の言葉を聞いた時、
 以前軽飛行機操縦のライセンス取得で
 ともに学んだ上智大学教授の故・酒井洋先生を思い出しました。
 
 電気工学の工学博士でありながら、ヴァイオリンを弾き、
 中国語の通訳免許を持ち、書道の大家。
 
 ご著書『ナポレオン睡眠法』では、
 人間は三時間寝れば十分と主張し、
 ご自身も三時間の睡眠の後、明け方から
 勉強されているとおっしゃっていたのです。

 以来、私も早朝三時半に起床し勉強を続けてきましたが、
 思いのほか集中できることを実感しています。
 
 特に経営者にとって時間は何より貴重ですが、
 日中は会社内での仕事に追われ、
 夜は得意先とのお付き合いもあり、
 結局、経営者が自分のための時間を持てるのは朝、
 それも「朝飯前」しかないのです。

 私は早朝勉強に切り替えてから一年に二つの資格取得に挑戦し、
 現在は七十八の資格を有するまでになりました。
 
 社内にも「環境スペシャリスト制度」を導入し、
 現在在籍する六百五十名の社員たちは、
 平均して五つ以上の資格を取得しています。

 社員がそれぞれの知識を持ち合って相談すると、
 あちこちで融合化反応を起こし、
 次々と新商品に結びついていきます。
 
 例えば、殺鼠剤に慣れたネズミは抵抗性を持ってしまい、
 ちょっとやそっとの毒では死ななくなってしまいます。
 
 さあ、どうしようかと話し合っていると、
 栄養士の資格を持っている社員は、
 
 「人間もおいしいものばかり食べていると
  体の調子が悪くなるから、
  逆にネズミが喜んで食べて臓器を悪くさせる
  栄養剤がいいのではないか」
  
 と提案。すると他の社員は
 「脳震盪を起こさせ、その間に電気ショックを与える」
 「一瞬のうちに凍死させる」など、
 どんどん新商品のアイデアが出て、
 現在わが社では五百三十一もの特許を持つに至りました。

 資格を取る、勉強するということは、
 経営道、人生道に繋がると思います。
 
 学びによって気づきを得て、
 はじめてお客様が感動する商品を作れ、
 サービスができるのです。

 私は資格により実に多くの人との出会いがあり、
 気づきがありました。
 
 私の人生は
 
 
 「資格によって師に出会い、
  資格によって道理を尋ね、
  資格によって人生を拓いてきた」
  
 
 と思っています。
 
 七十八の資格のどれ一つとして無駄なものはなく、
 
 すべてが私の人生を豊かにしてくれました。
 本来ならあの事故で潰れてもおかしくなかったわが社が、
 いまこうして六百五十名の社員とともに
 増収増益を続けているのも、
 先に述べたデパートのオーナーの励ましと、
 「学ぼう、勉強しよう」という社風の賜物と思っています。

 「我、いまだ木鶏たりえず」

土曜日, 10月 15th, 2011

       
       
        納谷 幸喜 (大鵬/第48代横綱)&

                           白鵬 翔 (第69代横綱)
        
            『致知』2011年11月号
            特集「人生は心一つの置きどころ」より
       http://www.chichi.co.jp/monthly/201111_pickup.html#pick1

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【大鵬】 白鵬の連勝記録がストップした時、

     「我、いまだ木鶏たりえず」
     
     という言葉が新聞に掲載されていましたが、
     双葉山関はこの「木鶏」の話を
     陽明学者の安岡正篤さんからお聞きして、
     そういう無心の境地を目指されていました。
 
     実は、双葉山関が相撲協会の時津風理事長となられていた時代、
     直接ご本人から「木鶏」の話をお聞きしたことがあります。

【白鵬】 ご本人から。

【大鵬】 そう。「木鶏」というのは、『荘子』に出てくる話で、
     ある王が闘鶏づくりの名人に自分の闘鶏を託した。
     
     十日後、王は名人に「まだか」と問う。
     すると、「カラ威張りしてダメです」と答える。
     
     さらに十日後に尋ねると
     
     「相手を見ると興奮します」。
     
     再び十日後も
     
     「敵を見下すところがあります」。

      そして四十日後に
      
      
     「もういいでしょう。いかなる敵が来ても動じません。
      木彫りの鶏のようで徳力が充実しています」
       
       
     と答えた。そういう逸話だと教えていただきました。

【白鵬】 私は双葉山関の本を妻から読んで聞かせてもらいながら
     勉強していますが、七十連勝できなかった時、
      
      
     「ワレイマダモッケイタリエズ」
      
      
     と安岡さんに電報を打ったとありました。
     この「我、いまだ木鶏たりえず」という言葉が、
     すごく印象に残っています。

【大鵬】 木鶏のお話を理事長からお聞きした時、
     この方はこういう境地を目指しながら
     淡々と土俵を務めたのだと思って、
     あまりの気高さ、理想の高さに
     身震いがする思いがしました。

こちらから

金曜日, 10月 14th, 2011

「デッドストックをゼロにするには?」

木曜日, 10月 13th, 2011

        
       
            森田 直行 

       (京セラコミュニケーションシステム社長)
        
               1997年5月号
               特集「リーダーシップの本質」より
            

                      ※肩書きは掲載当時です。

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よく稲盛からは、

「お前のルールは論理的には正しい。
 しかし、このルールでは人のやる気は出ない。

 やる気のない人間がいくら集まっても、
 会社は立派にならないじゃないか。
 いい方向に行かないな。それじゃだめだ」

と言われました。

ルールは論理的には正しいが、
メンタルな面でまちがっている、というんですね。

例えば、新製品が出ると、古い製品は売れなくなって
デッドストックになってしまいます。

そのデッドストックの処理について、
事業部からある提案が上がってきたんです。

デッドストックが出たときに、そのつど処理していたのでは、
採算計画が狂ってしまいます、

そこで月々どのくらいのデッドストックが出るかを計算して、
デッドストック処理のための経費を毎月積み立てておきたい、と。

で、デッドストックをその積み立て金で
相殺するという提案です。

私はなるほどそうだなと思いました。

そういう積み立て制度があったほうが、
確かに効率はいい。
で、案をつくって稲盛のところに持って行ったのです。

(記者:稲盛会長はなんと?)

ガツンとやられました(笑)。

「お前の案は論理的には正しい。

 しかし、これはメンタルではだめだ。
 そういうルールを認めてしまうと、
 デッドストックは出るものだとみんな思ってしまう。

 
 そういう気持ちでみんなが働けば、
 デッドストックはいまよりもっと増えるぞ。
 
 デッドストックはゼロにしなければいけないんだ。
 そういう心をいつも持たせるような
 ルールをつくらなければだめだ
 
 
なるほど、納得です。
グーの音も出るものではありません(笑)。

しかし、稲盛はなぜだめかを丁寧に教えてくれるんです。
その教えはいまの私にとって大きな財産になっています。

(記者:稲盛会長は、

 「大善は非情に似たり、小善は大悪に似たり」
 という言葉をよく使われますね)

このルールは小善なんですね。

私としてはみんなのためによかれと思って提案したのですが、
広い視野でみれば、このルールでは士気は下がるばかりです。
経営者とわれわれとの視野の違いを思い知らされました。

本当の士気というものは、つらいかもしれないが、
事実を真正面から受け止め、
それを乗り越えていこうとするときに生まれるんです。

大善を貫くには、ときには厳しいルールを
つくることも必要なのです。