まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「人生、すべて当たりくじ」

月曜日, 11月 28th, 2011

    
       
   塙 昭彦
   (セブン&アイ・フードシステムズ社長・
    前イトーヨーカ堂中国総代表)
             『致知』2009年7月号
              特集「道をひらく」より
               ※肩書きは掲載当時

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私どもの会社はセブン&アイホールディングスの
フード事業会社として一昨年(2007年)設立されました。

デニーズジャパン、ファミール、ヨーク物産の三つを吸収合併し、
レストラン、ファストフード、それに社員食堂などの
コントラクトフード事業の店舗展開
(2009年2月末現在、計959店舗)を図っています。

いま、「生活で何を節約しますか」と聞かれて
約七割の方が「外食」と答えるような時代です。

このように外食産業が大きな曲がり角にある厳しい時だけに、
やはり事業を集約して仕入れ先などを統合し、
食という一つのテーマを追求していくべきではないかと。

ただ、業績は大変厳しくて、初年度は赤字でした。
何とかこれを黒字にしたいと思いまして
目下奮闘している最中なんです。

もう一つ、私にはイトーヨーカ堂取締役中国総代表という
仕事があります(取材当時)。
月に約一週間は店舗がある中国の北京や成都に行って
現地のイトーヨーカ堂の責任者たちと会議をして、
今後の事業展開などを話し合うんです。

売り上げは一千億円弱といったところでしょうか。
おかげさまでこちらのほうは大変順調に利益が伸び続けております。

セブン&アイ・フードシステムズが設立された後、
中国から呼び戻され、二つの重責を担うようになりました。

中国室長の辞令をいただいたのは十三年前の平成八年、
メンバーは私一人でした。

それまで営業本部長だった私には
二万五千人の部下がいたんです。
それが突然ゼロ、しかも中国は初めての土地です。

周囲からは左遷と見られ、
これから一体どうなるのかという思いでしたね。

しかし、一緒に行きたいと名乗り出る仲間が現れて、
彼らが必死にやってくれたおかげで
今日があると思っています。

中国という大地に播いた種は、
花を咲かせて、実を結ぶようになりました。

やはり大事なのは、どのような厳しい環境でも、
そこに踏みとどまって頑張ることだと思いますね。
逆境や不遇の時、「いやだ、いやだ」と逃げ回ったり
自己逃避したり、じっとしてるだけでは
何の解決にもなりませんから。

そんな時は、自分の心を強くして、闘い、
克つ以外にないんです。

人事異動でも何でも世間の誰もが
「外れくじ」と思う出来事ってありますね。
でも、世間や周囲の人がどうあれ、自分だけは

「このくじは当たりだ」

と思うことが大事なんです。

そのように考えたら、何事があろうと

「人生すべて当たりくじ」

じゃないですか。

私は子供の頃から、随分と劣悪な環境の中で生きてきましたが、
その時、常に自分に言い聞かせてきたのが、
この「人生、すべて当たりくじ」という言葉でした。

「いまを生きたい」

日曜日, 11月 27th, 2011

       
                   
         菊池 和子 (写真家)

     
       『致知』2003年9月号
            致知随想より

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数年前、新しい小学校へ異動したばかりの頃のことです。
朝、車椅子を押した女性が昇降口を目掛けて走ってきました。

「おはよう!!」

「きょうもしんちゃんのことよろしくね!!」

その女性は校庭で遊ぶ生徒たちに明るく声を掛けながら、
ギュンギュンとものすごい速さで車椅子を押しています。

今度赴任する学校の六年生に「筋ジストロフィー」に冒された
「しんちゃん」という男の子がいることは聞いていました。
あの車椅子はしんちゃん親子だ。すぐに察しがつきました。

しんちゃんのお母さんはとにかく明るい人でした。
彼は二十四時間の看護を必要とします。
授業中はもちろん、自分の力で寝返りを打てない
しんちゃんのために熟睡せずに側にいるのです。

しかし、彼女はいつも元気で笑顔。
一度も疲れた顔や暗い顔を見せたことがないのです。

これまでの教師生活の中でも、
障害児とそのご家族と接する機会がありましたが、
しんちゃんのお母さんは少し違いました。

明るいというより、むしろ突き抜けている。

ありのままの息子を心から愛し、いまを楽しんでいるのです。

素敵だな。そう思いました。

そして、私は彼女に
「あなたの写真を撮らせてもらえない?」と申し出たのです。

しんちゃんと出会う少し前、私はいまで言う
「自分探し」をしていました。
四十代半ばにさしかかり、教師生活も折り返し地点を
過ぎてしまった。

わが子も手が離れ、これから自分が
一生取り組んでいけるものは何だろう――。

様々なことにチャレンジしながら、
最後に私の心を射止めたのは雑誌で見つけたこの言葉でした。

「写真もあなたの言葉です」

以来、写真を自分の表現手段と決め、昼間は教師をしながら、
夜間と土日に専門学校へ通って勉強を続けていました。

「旬の女」。

そんなテーマを設け、授業の空きがあれば
しんちゃんのお母さんを撮り続けました。

学校だけでは飽き足らず、家やしんちゃんの
かかりつけの病院にもついていきました。
しかし、お母さんを写すにも、隣にはいつもしんちゃんがいます。

自然と二人の写真が増えていきました。
ある日、二人の写真を専門学校の先生に見せると、

「お母さんも素敵だけど、しんちゃんの表情は
 なんとも言えない味があるね」

と言われました。

しんちゃんは、確かに味のある顔をしています。
生まれながら難病・筋ジストロフィーに冒され、
一度も立ったことがありません。

お医者さんには「恐らく長く持っても十五歳が限度」と言われ、
いつも死は隣り合わせです。

それでもしんちゃんはどんな時も
優しい微笑を浮かべています。
気がついたら、私のカメラはいつの間にか
しんちゃんへと向かっていました。

撮影を通して、私は筋ジストロフィーという
病気の恐ろしさを知りました。
次第に筋力が衰えていくこの病気は、
手足だけでなく、胃や肺、心臓などの内臓の筋肉までも
衰えていくのです。

食べることもままならず、ちょっと唾液が肺に入れば、
自分で吐き出す力もなく、それが原因で死ぬことだってありうる。

さらに、患者は何万人に一人と少数のため、
がんやエイズに比べて、真剣に治療法を
研究しようという人が非常に少ないといいます。

知れば知るほど、これほどまでに過酷な状況において、
なぜこの家族はこれほどまでに明るく、
ゆったりと構えていられるのか不思議でした。

私も子を持つ親です。
もしも自分が不治の病の子どもを持ったらどうだろうか……。

しかしある時気がつきました。
彼らは「明日がある」とは考えていません。

いつもいまを精いっぱい生きているのです。
しんちゃんが外に行きたいと言えば、
何をさておいても連れて行きます。

お寿司が食べたいと言えば、万難を排して連れて行き、
明日しんちゃんがいなくなっても
後悔しないようにしているのです。

彼が願うことをご両親は精いっぱい叶えてあげる。
それがこの家族の喜びなのです。

もしかすると五体満足の子を持った親は、
遠い将来を見すぎなのかもしれません。

大学に行くために小学生のうちから勉強させる。
スポーツをさせる。ひどい場合には
「隣の○○ちゃんが行っているから、あんたも塾に行きなさい」など、
勝手に親が焦り、子どもが望んでいないことをやらせる。
そこに子どもの意志はないのです。

私はしんちゃんが小学校を卒業するまでの一年間を
写真に収めました。
その間で多くの気づきと反省があり、そして転機がありました。

しんちゃんの写真が認められ、個展を開催するとともに、
写真集『しんちゃん』を出すことになったのです。

私は教職を辞して、写真家の道を歩む決意をしました。
やはり二足の草鞋では、どちらにも百%の力は注げません。
食べるだけならなんとかなる。

いまを精いっぱい生きたいという思いから写真に賭けてみたのです。

「後悔しないで生きる」。

口で言うのは簡単ですが、実践するのは
並大抵のことではありません。

しかし、しんちゃんとご両親の姿を見て、
自分も二度とない人生を懸命に生きたいと思っています。

今年の秋、しんちゃんは十六歳になります。
迫りくる死に臆することなく、
自分の命を燃やし続けるしんちゃん。

私も負けずに写真への情熱を燃やし続けたいと思います。

 「解決は進歩を、進歩は問題をはらんでいる」

土曜日, 11月 26th, 2011

       
       
 藤沢 秀行 (囲碁九段・名誉棋聖)

  『致知』1994年3月号
     特集「高め深める」より

    ※肩書きは掲載当時

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勝つことで強くなるのか、
強くなることで勝つのか。
これは同じことだと思うかもしれないが、
決して同じではありません。

まず最初に定石(※昔から研究されてきて最善とされる、
きまった石の打ち方)が打たれる。

定石はその定石から発展して布石を形成し、
布石は中盤を、中盤は終局へと発展する。
しかし、この展開は常に問題をはらんでいます。

一つの問題を解決することによって、
さらに次の問題が提起されてくる。
常に解決は進歩を、進歩は問題をはらんでいる。
このように変化と人間の頭脳は
無限に発展していくのです。

この無限の変化発展に対応する定石を
究め尽くすことは、いかなる達人といえども難しい。
難しいことではあるが、それでもなお究め尽くし、
揺るぎのない石の姿を形成していこうとする。

それが芸ということです。
私は何よりもそれを大切にして碁を打つ。
これがしっかりできれば、勝ちは結果として
出てくるということです。

このことは、厚みと実利というふうに
いい換えることもできると思います。

厚みとは弱点のない、しっかりした石の姿です。
実利は対局者いずれかの領分(地)のことだと
思ってください。

厚みを重んずればどうしても実利を失うし、
実利を重視すると、厚みを失うことになる。

厚みは信用で実利は現金のようなものです。

いま現金を取るよりも信用を取ったほうが、
いまは損なうようでも将来は何倍もの利になる、
ということですね。

「習い方がうまい人とは、習う素直さがある人」

火曜日, 11月 22nd, 2011

        
       
  荒川 博 (日本ティーボール協会副会長)
        
    『致知』2009年8月号
     対談「世界の王」はこうしてつくられ  

http://www.chichi.co.jp/monthly/200908_pickup.html#pick3

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【王氏:思えば僕が中学二年の時、草野球の試合に出ていたのを
    目に留めていただいたのが、荒川さんとの初めての出会いでしたね】

そう、忘れもしないね。
昭和二十九年十一月二十三日の、午後二時頃だ。

当時二十四歳だった私は毎日オリオンズ
(現・千葉ロッテマリーンズ)の選手だったけれど、
その頃のプロ野球には秋季練習なんてなかったから、
暇を持て余して近所の隅田公園へ出掛けていった。

そしたらそこに凄いピッチャーがいたんだ。

ところがその子は左で投げているにもかかわらず、
打つ時になると、なぜか右で打つんだよ。

で、初めは黙って見てたんだよね。
一打席目三塁ゴロ、二打席目ショートフライ。

それで三回目の打席に立った時にね。

「ちょっと待って、坊や。君は何で右で打ってるの?
  本当は左利きなんだろう?
  次の打席は左で打ってごらん」
 
 
と声を掛けたら、

「はい」

って素直に言ったんだよ。

これがすべてのきっかけだな。

普通、それまで左で打ったこともない子が、
試合中にいきなりそんなことを言われたら、

「できない」

って言うのが当たり前だよ。

ところが次の打席で左ボックスに入ったその坊やは、
いきなり二塁打をかっ飛ばした。

右中間真っ二つ、ビックリするくらいのいい当たり。
私はその時に、あ、この子を、
母校の早稲田実業に入れようと思った。
そうすれば絶対に甲子園で全国制覇ができるって。

それで試合が終わるまで待って、早実に入るよう勧めたんだ。

私はともかくも早実へすっ飛んでいって
こういう選手を見つけたから、二年後には
何が何でも入れてくれと頼み込んだ。

ところが翌週に少年の家に行くと、
お父さんからけんもほろろに断られてしまった。

「うちの子には野球なんかやらせない。
 両国高校へやって東大に行かせるんだ」

って。いや、これは頭がいいんだなと思ったね。

でも私はそこで諦めなかった。
人生には「もし」ということがある。
もし落っこちた時はどうすんだ、と。

そこで近所の知り合いのオヤジに

「もしあそこの家の子が受験に落ちた時には、
 俺のところへ知らせてくれ」
 
 
と頼んでおいた。そしたら結果的に志望校を落ちて、
早実へ入ることになったんだな。

しかし、それにしてもあの時、
左で打てと言われて

「はい」

って答えた素直さね。

これが王の一番のいいところであって、
それが今日の成功をもたらしたんだよ。
この「はい」が。

だから私はいつも

「習い方がうまい人とは、習う素直さがある人だ」

と言うんだよ。これがもう第一条件なんだよね。
王はその後も、私に口答えしたことは一回もない。

「英霊たちへ捧げる写真」

月曜日, 11月 21st, 2011

       
                   
                         

 

 

 

 

坪本 公一 (水中写真家)

        
    『致知』2006年9月号
         致知随想より

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 太平洋海底に眠る英霊の慰霊と沈没艦船の撮影を続けて三十余年。
 写真店経営で得た利益や本の印税をすべて注ぎ込み、
 切ったシャッターの数は四万回を超える。

 遺族でもない、軍隊経験もないおまえが
 私財を擲ってなぜそんなことをする、と誰もが訝しがる。
 自分自身にもはっきりした答えはない。

 ただ、私の活動をテレビなどで知った遺族の方が
 訪ねてこられたり、弟を亡くされた老人が
 「とにかく一緒に行ってほしい」と
 新聞を握り締めたまま飛んでくるのを見れば、
 どうしても放ってはいられなくなる。
 
 詰まるところそれは「自分が日本人であるから」
 とでも言えるのかもしれない。

 太平洋戦争の激戦地となった海底に、
 いまだ百万柱以上の遺骨が放置されている
 現状を知る日本人はほとんどいない。
 かつてはこの私もそうだった。

 沈没船の存在を知ったのは、昭和四十八年。
 ミクロネシアのトラック諸島で
 仲間とダイビングをしていたところ、
 海底に傷ついた船体と散乱した遺骨を発見した。
 
 帰国してからもずっとそのことが気にかかり、
 翌年撮影に行く準備をしていると、
 噂を聞きつけたテレビ局から番組出演の依頼があった。
 
 当初、私の目的は沈没船の撮影にあったが、
 共演していた薬師寺管長の高田好胤さんが突然、
 
 「坪本さんたちが今度、トラック諸島で水中慰霊祭をやる。
  故人をしのぶ酒や果物、戒名を書いたハガキ、
  なんでもいいから送ってください。現地で供養してきます」
  
 と茶の間に呼びかけたのである。
 
 番組には、全国から千通にも及ぶハガキと
 山のような供え物が届けられた。

 そして放映当日。
 テレビ局には番組が終わらないうちから
 「よくぞやってくれた」という反響が続々と寄せられ、
 自宅の電話もまる二日間鳴りっぱなしの状態。
 
 それが一段落すると、今度は手紙やハガキが
 嵐のように舞い込んだ。
 
 とりわけ印象深かったのが、ある老女から届いた手紙である。
 「主人の慰霊にいつか行きたいと思っていたけれど、
  いままでずっと行けませんでした。
  きょう番組を見ていて、思わずブラウン管の前で
  両手を合わせていました」。

 最後には、娘さんの言葉がこう添えられてあった。
 
 「母をいつの日か父の終焉の地に連れていってあげたい。
  それが私に残された唯一の親孝行だと思います」。
  
  
  ――私が亡き人々の慰霊と、鎮魂を込めた撮影を
  生涯の仕事と決めたのはこの時だった。

 以来、パラオ諸島やフィリピンなど、
 七か国の海を百回以上訪れたが、特に衝撃的だったのは、
 特設巡洋艦「愛国丸」の遺骨収容作業に同行した時のことである。
 
 同艦は米軍の爆撃に遭って轟沈し、船上には
 千名近くが便乗していたとされる。

 私も命がけで水深七十メートルまで潜り、
 真っ暗な船内を強烈なライトで照らし出すと、
 あたりは骨、また骨。何十センチと積もるヘドロに散乱した
 肋骨や大腿骨、こちらをギロッと睨むような頭蓋骨……。
 
 しかし、怖いという気持ちは不思議となく、
 私はとにかくこれを国民に知らせたい一心で、
 一秒でも長くフィルムを回そうと感じていた。

 一か月間をかけ、引き揚げた遺骨の数、三百五十体。
 甲板で遺骨を洗い流すとヘドロやサビが血のように流れ出て、
 青々とした海に赤茶けた帯がかかった。

 なお水中慰霊の際には、組み立て式の祭壇を海中に持ち込み、
 供え物をして両手を合わせる。
 同行した遺族は船上から花束を投げたり、
 酒を注いだりして慰霊を行うのだが、
 愛国丸の時には、父の顔も知らずに育ったという遺児の姿があった。
 
 慰霊が終わると、彼はズボンを下ろし、
 海パン一丁になったかと思うと、看板の縁に駆け寄って
 「お父さーん!」と叫びながら
 海の中に飛び込んでいった。
 
 しばらく周辺を泳いで戻ってきた若者は
 
 「親父と同じ海水を飲んできた。
  これで自分も同じ気持ちになれた」
  
 と言って胸の支えが下りたような顔をしていた。
 
 終戦五十年の年には、パラオ諸島で給油艦「石廊」の
 水中慰霊を七十歳の方と行い、全国で放映された。
 
 それを見ていたのが当時、七十七歳だったある老人。
 彼はその日からずっと日本海で泳ぎの練習を続けたという。

 沈没から六十年を迎えた一昨年、八十六歳になっていた彼に、
 水中慰霊祭をやるから来るかと尋ねたら、
 即座に「行く」という答えが返ってきた。

 二人で現地へ向かい「ここ(船上)から花束を投げるか」
 と言ったが、彼は
 
 「いや、潜ってやらせてくれ。死んでも俺はやる」
 
 と言う。結局水深二十五メートルまで潜り
 二人で慰霊を行った。

 船が沈没した当時、老人は部下二十人を率いる
 上等機関兵だったという。
 
 自分だけが偶然、機関室を離れていたところへ直撃弾が落ち、
 そこで部下全員の命を失った。
 
 六十年もの間、部下たちを思い続けてきた老人の気持ちは、
 一体いかほどのものであっただろう。

 戦後六十一年目を迎えた今年。
 毎年夏になると行われる慰霊も、
 メインとなるのは陸上ばかりで、
 水中慰霊はほとんど話題にも上らない。
 
 戦争の傷跡が姿を消していきつつある現在、
 太平洋各地にいまも残る艦船は、沈没した当時のまま、
 英霊の遺骨とともに朽ち果てていく運命にある。

 しかし今日の日本を考える時、
 私はこの平和の礎となってくれた英霊たちの存在を
 思わずにはいられない。
 
 今年七十歳になる私だが、一人でも多くの方に
 沈没船と遺骨の存在を知ってもらい、
 二度とこのような惨劇を繰り返さぬよう、
 体力の続く限り活動を続けていくつもりだ。

「歌に命を込めて 私は歌い続ける」

土曜日, 11月 19th, 2011

       
       
村上 彩子 (ソプラノ歌手)
        
 『致知』2011年12月号
連載「第一線で活躍する女性」より
       
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諦め切れずに受けた5回目の試験がダメだと分かった時には、
大泣きしながらとぼとぼ家に帰りました。
絶望し、もうこのまま死んでしまおうって。

何も口にしない日が何日か続いたある日のこと。
ふと以前テレビで観た戦没画学生の絵画などが飾られている
無言館のことが頭に浮かんできました。

その瞬間、何かに突き動かされるように、
私は取るものも取りあえず
一路無言館のある長野へと向かったのです。

館内に飾られた画を一枚一枚眺めているうちに、
こんなにも才能ある学生たちが戦争で散っていったのかと、
大きなショックを受けました。

そのうちに、今度はどこからともなく
悲痛な叫びが聞こえてきたんです。

「本当は生きたかった」と。

そして「おまえは生きていくことができるんだぞ」って。

私、頭をガツンと殴られた感じがして、その場に泣き崩れました。

こんなにも才能溢れる方々が無念のうちに亡くなられた。
それに引き換え自分はたった五回の受験に
失敗したくらいで死のうとしたことが、
とてもおこがましくて恥ずかしく思いました。

翌年一次試験を突破し、七回目にして晴れて合格しました。
実はこの間、心のうちに大きな変化がありました。
無言館から帰ってからバイト先を一新し、
明るい自分を演じ始めました。

大学に入ったらオペラを勉強したかったので、
なんの希望がなくても演じてみようと心に決めたのです。
そうしたら自然と仕事が楽しくなって
一所懸命頑張るようになりました。

すると今度は周りの人に感謝されるようになって、
応援してくださる方まで出てきたんです。

私はそれまでずっと親を憎むことを
生きる唯一のエネルギーにしていました。
それがこの時、心の中に初めて
人に感謝するという心が芽生えて、
それが私に力を与えてくれました。

親を恨んだり、周りの裕福な受験生を憎む心が
知らず知らずに私が奏でる音楽に乗り移っていたのだと思います。
このことを私に気づかせるために、
こんなにも長い期間が必要だったのかと
納得がいったら元気が漲ってきましてね。
最後の一年は何の迷いもなく勉強に打ち込むことができました。

「世界王者を撃破した全日本女子バレーの精密力」

木曜日, 11月 17th, 2011

       
       
 眞鍋 政義 (全日本女子バレー監督)
        
 『致知』2011年9月号
 連載「生気湧出」より
 http://www.chichi.co.jp/monthly/201109_pickup.html#pick6

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【記者:特に重点的に取り組まれていることはありますか?】

昨年(2010年)からですけれども、日本独自の戦術、
戦略というものを考えながら練習しています。

ご存じのように、バレーボールには
2メートル24センチというネットがあるんです。

試合では、日本人にはとても打てない鋭角のスパイクを、
ものすごいジャンプをして高い打点からドカーンと叩きつける
外国人選手がいるでしょう。

誰だって
「とても日本人は外国人選手にかなわないな」
と思ってしまいますね。
    
マスコミも含めてバレーボールは
オフェンスの強さで決すると思う方も多いですしね。

でも、考えてみてください。
いくらスパイクがうまく決まっても入るのは一点です。
   
だったら日本人の強みを生かしたやり方で
一点を取ることはできないかと。

実際、試合に勝つ要因は数え切れないほどたくさんあり、
スパイクはその一つにすぎないんです。

身長やパワーはすぐに改善できるものではないし、
それなら日本が得意とする技術で世界一になろうと決めて、
そのための到達目標を設定しています。

バレーボールはチームでボールを繋ぎ合うスポーツですが、
そこには集団の和という目に見えない力が求められます。
 
それに身長やパワーだけでなく、サーブ、レシーブ、アタックなどでは
手先やプレーの器用さも必要です。
相手の読みを外す、相手の攻撃を読んで守備をするといった
緻密な作戦も大事になってきますね。
 
考えてみたら、和、器用さ、緻密さといったものは
昔から日本人の特性とされてきたことばかりでしょう

これらを私は

「精密力」

と言っているのですが、つまりバレーボールって、
とても日本人向けのスポーツなんですね。

ですから私たちはサーブレシーブをセッターに正確に返す、
相手のスパイカーが打ってくるコースを
データを読んでブロックする、といった小さなことにこだわり、
確実にこなすことに力を注いでいるんです。

その小さな変化の積み重ねが大きな爆発力を生んで
32年ぶりのメダルに繋がったのだと思います。
 
 
特に今年は
「サーブレシーブ」「サーブ」
「ディグ(スパイクレシーブ)」「失点の少なさ」
の4つのジャンルで世界一になるのを目標に掲げています。
 
そういうことを踏まえて、最後はやはりチームワーク。

チームの総合力で世界と試合をして勝つ!
と皆で誓い合っているんです。

■眞鍋監督の写真入り記事はこちら(編集部ブログへ飛びます)
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20111116.html

「久保田カヨ子式 いい子を育てる法則」

水曜日, 11月 16th, 2011

       
       
   久保田 カヨ子 (脳研工房代表取締役)
        
      『致知』2009年8月号
        連載「感奮興起」より
 http://www.chichi.co.jp/monthly/200908_pickup.html#pick2

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【記者:脳の発達に着目した乳幼児教育に取り組まれたきっかけは?】

自分の子供をよく育てたいからですよ。
親っていうのはそういうところから発想しないと、
いい子はつくれません。

うちは旦那(久保田競<きそう>氏、大脳生理学者)の研究の関係で、
家には脳科学の本がありましたから、
自分で読んで脳について勉強しました。

【記者:ということは、独学ですか?】

独学と、そこからおばあちゃん、お母さん、おばちゃんから聞いて、
日本に昔から伝わってきた育児法が脳の発達とどう関連しているのか。

あるいはもっと効果的に脳の発達を促すにはどうしたらいいか、
ということを考えていったの。

【記者:具体的にお教えください】

一番重要なのは前頭連合野(ぜんとうれんごうや)です。

ちょうどおでこの裏側にあって、情動のコントロールや、
論理的な判断、将来の予測や計画の立案を行うのが、
この部分。

高度な判断を行って、人間の複雑な感情に関わり、
恥ずかしさや尊敬する心を想起させる一方、
感情面だけでなく、論理性や計画といった
高度な判断を司るため、
「人間らしさ」の源泉の部分と言っていいでしょう。

損傷を受けると、理性的な判断ができなくなる例もある。

人間の脳が一番大きくなるのは生まれてから
歩き出すまでの間だから、この時期に
感覚教育を行うのが前頭連合野を刺激するには一番効果的です。

【記者:どのようにすればいいのでしょうか?】

例えば、オムツを替える時は必ず声を掛ける。
そうすることで、赤ちゃんは
お母さんの表情と声を認識していきます。

また「これとこれ、どっちが好き?」と聞いて選ばせる。
決断することで脳を使っているわけです。

まあ、そういう感覚教育を我が子にしたところ、
七か月で歩き出し、一歳で三千語を話し、
三歳でひらがなを読めるようになったわけです。

で、上の子は大学へ行かずに独学で一級建築士になって、
下の子は東大へ行きたいっていうから入れてやった。

そういう話が近所のお母ちゃんたちの間で話題になって、
「うちの子も見てください」と頼まれるようになりました。

そうしてよその子供たちの感覚教育にも携わるようになって、
自分の育児理論の裏づけを取っていったわけです。
やっぱり実験データは多いほうがいいですから。

  ★☆ 久保田カヨ子式 いい子を育てる法則 ☆★

…………………………………………………………………………
● オムツを替える時は視線を合わせ声を掛ける
…………………………………………………………………………

  話すことはできないが親の表情を見て、声を聴いている

…………………………………………………………………………
● 「いないいないばぁ」は一日に五回以上やる
…………………………………………………………………………

  視線を集中させる

…………………………………………………………………………
● カラフルな子供服を着せる
…………………………………………………………………………

  色彩感覚を身につける

  
…………………………………………………………………………
● なるべくおんぶする
…………………………………………………………………………

  親と同じ目線(世界)を体験させる

…………………………………………………………………………
● 幼児語を使わない
…………………………………………………………………………

  幼児語から正しい言葉を覚え直すのは二度手間

…………………………………………………………………………
● 箸や鉛筆などはいきなり持たせず、
   正しく使っている姿を何度も見せる
…………………………………………………………………………

  親のマネをさせることが
  脳のミラーニューロンを刺激する。
  見せる時は子供の背後から。
  向き合うと左右逆になる。
  

  
…………………………………………………………………………
● どっちが好き? と質問する
…………………………………………………………………………

  脳を使って「決断」させる訓練をする

…………………………………………………………………………
● お風呂の時など、十から数を減らし
    ゼロまでカウントダウンする
…………………………………………………………………………

  ゼロという数学的な観念を知る
  
  
  
…………………………………………………………………………
● 親が「ストップ」と言ったら行動を止める訓練をする
…………………………………………………………………………

 「NO GO行動」という。
  これを覚えることにより危険回避行動を養う

…………………………………………………………………………
● ガラガラはゆっくり動かして使う
…………………………………………………………………………
  幼児は早い動きは認識できない。
  遠くからガラガラを近づけて、
  視線の焦点が合ったところで
  ゆっくりと動かす

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● 生後1~2か月のうちにストロー飲みを覚えさせる
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  吸う力を養う。口、舌を鍛え、
  呼吸や発声を養う
  
  
  
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● できるだけ多くの臭いを嗅がせる
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  いい臭いもイヤな臭いも
  感情(脳)に作用する

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● 紙をたくさん破らせる
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 (新聞紙など、できるだけ細く)
  手先の器用さと物質の構造を
  理解する能力(紙が破りやすい方向など)を養う

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● タオルやハンカチを三つ折りにたたませる
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  四つ折りだと角を合わせるだけ。
  三つ折りは目安が必要なので、
  物をよく見て計算する能力が養われる

「人の痛みがわかる本当のチャンピオンになれ」

火曜日, 11月 15th, 2011

       
       
   山下 泰裕 

 (東海大学体育学部教授、柔道部監督)
        
  『致知』2001年1月号
   特集「学び続ける」より
            

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今回のシドニーオリンピックを振り返ってみて
非常に嬉しいことがあります、

一つは篠原(信一選手)が決勝戦で負けましたね。
誤審ではないかと私も抗議しましたが、篠原は
「あれは自分が弱かったから負けた」
「審判に不満はない」という発言をしました。

篠原は、たとえあれが自分の一本ではなくて
相手の有効になったとしても、
本当に自分に力があったら、残り時間は十分にあったし、
あの後で勝てたはずだ。

本当の力が自分になかったから、
それを取り戻せなかっただけで、
そういう意味で自分に絶対的な強さがなかった、と。

それから「審判に不満はない」というのは、
審判が間違えるような、そんな試合をした自分に責任がある。

だれが見ても納得するような柔道を
しなければいけなかったんだ、ということです。

他人を云々(うんぬん)するのではなく、それに対して
自分がどうすべきであったかと、自分自身を深く見つめる

ああいうことが起きて、初めて彼が本当はどういう人間なのか、
どういうことを大事にしているのか、
それが明らかになったと思うんですね。

そこには人間として非常に大事なことが
含まれていると思うのです。

われわれは何か事が起こるとすぐに人を批判します。
だけど、人を批判しても何の解決にもならないんですね。
それに対して自分はどうあるべきか、自分は何ができるのか、
すべてを自分に置き換えて考えていかないと、
何も解決しないんです。

篠原は見た目は、無骨でぶっきらぼうな男ですけど、
今回のことで彼の人間性を見たような気がするんです。

もう一つは初日に野村忠宏が六十キロ級で優勝しました。
前の日に試合のあった人間は、次の日の人間が
力を出し切ることができるようそばに付き人として
付くということを、前もって決めていたんですね。

それで試合が終わった日は、野村は明け方の四時ごろまで
マスコミの対応をし、次の日も朝八時から対応して、
それが終わってお昼の十二時に試合会場に、
車の中でハンバーガーを食いながら駆け付けて、
中村行成の付き人をやったんですよ。

それで中村が負けた。負けて控え室に帰ってきて、
がっくと座り込んで着替え始めた。

そのとき、野村が中村の柔道着をものすごく大事に
大切に一所懸命畳んでいるんです。

付き人は試合に向かうまでですから、
そこまでやる必要はないんです。

それなのに負けた中村の柔道着をものすごく愛しそうに
丁寧に丁寧に折り畳んでいる。

その野村の姿を見たとき、われわれコーチも
ものすごく心打たれた。

ああ野村は人間的にもまた成長したな、
人の痛みがわかる本当のチャンピオンになったな、
と思ったものです。

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●山下泰裕氏から『致知』にいただいたメッセージ
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 『致知』には各界のリーダーの生き方が紹介されています。
 深い人生体験を積まれた方々の
 勇気と力を与えてくれる言葉に満ちています。
 
 『致知』は、前向きに挑戦して行く人間にぴったりです。
 これこそ私が求めていたものです。

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「孔子の人間学」より

月曜日, 11月 14th, 2011

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●安岡定子(安岡活学塾・こども論語塾 講師)
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   学ぶ喜びと
   よき友達を持つ喜び、
   頑張り続けることの大切さ、

   この三つを覚えたら『論語』一冊読んだも同然、
   この三つのことを孔子先生はいろいろと言葉を換えて
   『論語』の中で伝えているんですよ。
   

●佐久協(作家・元高校教師)
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   孔子は弟子から知とは何かと聞かれて、
   人を知ることだ ,と答えています。
   孔子は人間を知るということを
   一つの人生の目的にしていたのではないでしょうか。

●守屋洋(中国文学者)
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   孔子の「五十にして天命を知る」という言葉、
   これは天から授かった使命を自覚すれば、
   自分の限界が自ずと分かってくる。
   
   それを自覚しながらできる範囲で
   最善の努力を尽くそうというように解釈しています。

●岩越豊雄(寺子屋「石塾」主宰)
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   『論語』は学んだ時、すぐ役立つこともありますが、
   そういう心の基盤をつくってあげておくと、
   大人になってから花が咲いたり、
   実がなったりすることもあるんです。