まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

 「念々死を覚悟してはじめて真の生となる」

土曜日, 12月 10th, 2011

      
       
  寺田 一清 (不尽叢書刊行会代表)

     『致知』2012年1月号
      特集「生涯修業」より
      
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私ももう85歳でしてね。
人生のゴールが見え出してからというもの、
森先生の教えの根本真理ともいうべき、

「人生二度なし」

という言葉が一層心に染みてまいるようになりました。

先生の、

「念々死を覚悟してはじめて真の生となる」

という言葉など、最初はピンとこなかったんですが、
この頃はその凄さを感ぜざるを得ませんね。

それから、私が今日あるのは森先生に
立腰、腰骨を立てることの大切さを
教えていただいたおかげです。

22、3歳の頃は結核で寝ておった病弱な私が、
立腰によって85歳のいまも全国を
回って講演させていただいておりまして、
森先生への感謝の念から、
講演にお招きいただくと必ずこの立腰をお伝えするんです。

初めて自宅にお招きした時に、
急に立ち上がり対坐している
私の腰のあたりをグッと押されたんです。

普通に真っ直ぐ坐るのではないんですね。
椎の4番と5番を弓を張るように
キュッと締めなければならないんです

森先生は、人間として大事なことの一つは、
いったん決心したら、石にかじりついても
必ずやり遂げる人間になることだとされ、
その秘訣として常に腰骨を立てている
人間になることを説かれています。

森先生の教えの中で、
立腰が一番重要な位置を占めると私は思います。

85歳になったいま、いよいよこの立腰を究め、
広めたいというのが私の心願なのです。

 「また鬼になる」

金曜日, 12月 9th, 2011

             
       
   工藤 光治 (白神山地マタギ)
        
    『致知』2012年1月号
      特集「生涯修業」より

 http://www.chichi.co.jp/monthly/201201_pickup.html#pick4

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(マタギは)一人前になるまでは時間がかかるんですよ。
五年、十年なんてものじゃないです。
先輩たちの後を付いて歩いて、山を歩く技術を見て習う。
長い時間がかかるのですが、
そうやって身についたものは一生離れません。

そうすると自然と一体となれるんです。
すると、何でも採り過ぎず、
次の世代へまた次の世代にも残すような
採り方ができるようになります

それは言い詰めれば自己規制であり、足るを知る生き方です。

そこには山の神様の信仰があるわけです。
白神の山にあるものはすべて山の神様からの授かり物だと。

ですから、たくさんある場所に行って、
誰も見ていないからといって、
それを採り尽くすようなまねをしても
神は絶対に見ていると。きっと罰が下るから、
そういうことはするなと教えられてきました。
だから、白神山地の恵みは
いまも尽きることなく山の宝となっています。

         (略)

ハンターは獲れる時はいくらでも撃つわけです。
しかも、まずそうな肉はそのへんに捨てていったりする。
マタギは自分たちが担いで帰れるぐらいのものをいただいたら、
そこでお終いなんです。決して欲張ることはない

私たちマタギに撃たれた熊は心臓一撃で一瞬で死ぬんです。
だからほとんど出血はない

どういうことかといえば、ハンターの人たちは、
もしかしたら当たるかもしれないという
生半可な思いで銃を撃ちますが、
我われは熊が憎いから撃つんじゃない。
生きていくために熊が必要だから撃つのです

熊が苦しむことなく一瞬であの世にいけるよう、
必ず一発命中で即死させられる確信がなければ撃たないわけです

憎くもない動物を殺すためには
鬼のような心になって、一瞬で相手を殺す。
ですから、動物を殺すたびに鬼になる。
マタギとは「又鬼」なのだと教わりました。
http://www.chichi.co.jp/monthly/201201_pickup.html#pick4

「苦悩は人生の肥やしとなる」

水曜日, 12月 7th, 2011

       
       
    福島 智 (東京大学先端科学技術研究センター教授)
        
      『致知』2012年1月号
        特集「生涯修業」より
  

http://www.chichi.co.jp/monthly/201201_pickup.html#pick6

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【記者:ご自身では障害や苦悩の意味を
    どのように捉えていますか】

障害を持ったことで、私は障害者のことを
少しは考えるようになりました。

やはり何がしかの関係を持ったこと、
広い意味での当事者になったことが
その大きなきっかけになりました。

また、自分にとっての苦悩は他者との
コミュニケーションが断絶されることでしたが、
これも実際に体験してみて初めて分かったことでした。

苦悩を体験することの凄さは、
苦悩の一つのパターンが理屈抜きに分かること。
もう一つは、苦悩する人たちが抱えているものを
想像しやすくなるということですね。

挫折や失敗をすることはしんどいし、
できるだけ避けたいけれど、
おそらくほとんどの人が人生のどこかでそれを経験する。

いくら避けようとしても必ず何がしかのものはやってくる。
だから来た時にね、

“これはこれで肥やしになる”

と思えばいいんですよ。

私が子供の時代には、まだ日本にも
たくさんあった肥溜めは、
臭いし皆が避けちゃうけれど、
それが肥やしとなって作物を育てた。

一見無駄なものや嫌われているものが、
実は凄く大切なことに繋がるということでしょう。
これは自然界の一つの法則だと思います。

       * *

同じようなことをアウシュビッツの収容所を生き抜いた
フランクルが述べています。

彼はいつ死ぬかも分からないという極限状況の中でも、
苦悩には意味があると感じていたようですが、
それは彼一人だけの思いではなかった。

あの過酷な状況下で、自分以外の他者のために
心を砕く人がいたように、ぎりぎりの局面で
人間の本質の美しさが現れてくる時がある。

もちろんその逆に、本質的な残酷さや醜さを
見せることもありますが、
人間はその両方を持っているわけですよね。

おそらく彼は苦悩をどう受け止めるかというところに、
人の真価、人間としての本当の価値が
試されていると考えたんじゃないかと思うんです。

苦悩というフィルターをかけることで、
その人の本質が見えてくると。

フランクルの主張で最も共感を覚えるのは、
その人が何かを発明したり、
能力が優れているから価値があるということよりも、
その人が生きる上でどんな対応をするか

苦悩や死やその他諸々の困難に
毅然と立ち向かうことが最高度の価値を持つ、
といった趣旨のことを述べている点です。

したがって、障害を持ったことや病気をしたこと自体に
意味があるのではなく、それをどう捉えるかということ。

身体的な機能不全を経験することも、
それ自体に大きな意味があるんじゃなく、
それを通してその人が自分自身や他者、
あるいは社会、あるいは生きるということを
どのように見るかが問われているのだと思います。
http://www.chichi.co.jp/monthly/201201_pickup.html#pick6

「93歳現役画家の流儀」

水曜日, 12月 7th, 2011

             
       
 堀 文子 (日本画家)
        
   『致知』2012年1月号
    特集「生涯修業」より
      

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【記者:堀さんの絵が世間で評価され始めたのはいつ頃からですか】

評価されたかは知りませんが、女子美術専門学校を出てからまもなく、
出品した絵が賞を受けて騒がれた時期もありました。

その時に、自分が若い女だから騒ぐので、
こんな言葉に乗っていたら大変だ。
ある時期を過ぎたら誰も振り向かなくなる
という自覚がありました。

大抵は若い時ちやほやされて、ダメにされるんです。

自分を堕落させるのもよくするのも自分なんだ、
と考えていますから。

誰かにすがっていたら、その人の言うなりじゃないですか。
人それぞれ姿形が違うように、運命も皆違うのですから、
誰もしないことを開拓しなければダメだと思っています。

ですから安全な道はなるべく通らない。
不安な道や未知の道を通っていくとか、獣道を選ぶとか。
大通りはつまらないと思っている人間で、
それがいまでも続いています。

そういう性質ですから、画家としては
食べることができませんので、
絵本を描いたりして生業を繋いできた。

ただ、それもやってるうちにちやほやされて、
児童の教育委員会などに出されることになってきました。
だから「これはいけない」と思って絵本の仕事はやめました。

そうやって、どこへ行ってもちやほやされないように、
上手にその道を避けて生きてきたわけです。

【記者:絵の腕はどのようにして磨いてこられたのですか?】

磨いてなんかいません。それはいい絵を描きたいですが、
いい絵を描こうといってできるものじゃない。
感覚というものは努力したってダメなんです。

絵は他の人から学ぶことはできない。
ただ、自分のだらしなさが直に現れます。
ですから自分がいつも未知の谷に飛び込むこと。
不安の中に身を投げていなければダメだと思っております。
いつも不安の中に身を置いて、
昨日をぶち壊していくということです。

ですから学ぶよりも「壊す」というのが私のやり方です。
そして、過ぎたことを忘れることです。

きょう出品したものはお葬式が済んだ後ですから、
もう一度はやれません。やれば悪くなるに決まっています。

人は「もう一度あの絵を描いてください」と言いますが、
慣れると確かにうまく見えますが、それはコピーです。
描いた本人には気が抜けていて、
魂が入っていないのが分かる。
同じ感動は繰り返せないということです。

もしかしたら私の中に、
まだ芽を吹かないものがあるかもしれない、
ひょっとしたら、まだ思いがけないものが潜んでやしないかと、
いまだにそんなことを考えています。

そのためにはいつも自分を空っぽにしておかないと
新しい水は入ってこないんです。
私に勉強の仕方があるとすれば、
いつも自分を空っぽにしておくということです。

心に響く言葉

月曜日, 12月 5th, 2011

 特集「生涯修業」より、
  http://www.chichi.co.jp/monthly/201201_words.html

………………………………………………………………………………

     ● 田中 宰

(松下電器産業元副社長・阪神高速道路前CEO兼会長)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  

  時代の先を読む先見性、洞察力、そしてそれに基づく
 「変化への対応」「日に新た」の実践、
  これはあらゆる経営者にとって欠くことのできない素養である。

  国といえ、事業といえ、このことを忘れた時、
  必ずその組織は衰退し滅亡する。

 
  
  
  ●  工藤 光治 (白神山地マタギ)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   昔からこの山で暮らしてきた人たちの思想は、
   山の恵みに生かされているという思いなんです。
   すべて山のものを頂いて、生かされているのです。

   また、マタギの世界では事故で血を流すのはいいけれども、
   人と争って血を流すのは一番の恥とされました。

寺田 一清  (不尽叢書刊行会代表)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   「つねに腰骨をシャンと立てること――
    これ人間に性根の入る極秘伝なり」

    私が今日あるのは森信三先生に立腰、腰骨を
    立てることの大切さを教えていただいたおかげです。

    森先生は、人間として大事なことの一つは、
    いったん決心したら、石にかじりついても
    必ずやり遂げる人間になることだとされ、
    その秘訣として常に腰骨を立てている
    人間になることを説かれています。

荒井 桂 (郷学研修所 安岡正篤記念館副理事長兼所長)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   安岡正篤先生による「知識、見識、胆識」
   という有名な教えがあります。

   知識がいかにあってもさほど意味はない。
   人間はどんな志を持ち、何を目指して
   この二度とない一生を全うするかという観点に立つ時、
   知識が見識になる。

   しかしその見識は、実践して生かしていかなければ
   意味がなく、そのためには勇気と決断がいる。
   それを伴った見識が胆識であると。

「記憶術のすすめ」

日曜日, 12月 4th, 2011

  
                   
        友寄 英哲 (ともより・ひであき
       円周率暗唱の元ギネス記録保持者)

  『致知』2006年4月号
       「致知随想」より

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 私の脳はごく普通だと思います。
 特に暗記が得意だったということもありません。
 
 子どもの頃はもっぱら丸暗記でしたが、
 二十歳ぐらいになるとそれもままならず、
 学生時代、シェークスピアの長台詞を覚える宿題が
 なかなかできず弱りました。

 ある日、黒板に書いた数字を暗記してみせる
 老大道芸人に出会いました。
 
 飛びついて買った十ページほどのガリ版刷りの冊子には、
 連想を使った暗記法が書いてありました。
 こういう方法もあるんだとすっかり記憶術に魅せられました。
 これがそもそもの始まりです。

 大学を出て、ソニーに入社しました。
 海外と折衝する営業が仕事でした。
 
 面白半分に一千桁の円周率を三年かかって覚え、
 やっと暗記できたのは三十歳。
 これは仕事に役立ちました。

 宴会芸で披露すると結構受けて、人脈も広がり
 商談も進むのです。

 四十五歳の時でした。
 
 
 「カナダの若者が円周率八千七百五十桁を暗誦し、
  ギネスブックに申請」
  
  
 という記事を読んだのです。
 
 こんな世界記録があるんだと知り、
 自分にもできそうだと挑戦することにしました。
 
 一万五千百五十一桁を暗誦して
 世界記録を立てたのは翌年のことです。

 ところが、世界には強豪がいて
 次々とギネス記録を塗り替えます。
 
 それならとさらに挑戦し、シーソーゲームを繰り返して、
 円周率四万桁暗誦の世界記録を立てたのは五十四歳の時でした。
 これは八年間ギネスブックに記載されました。
 
 いまのギネス記録は原口證さんという方の
 八万三千四百三十一桁です。
 人間の記憶力は底知れません。
 近い将来十万桁、二十万桁を超えるのも
 夢ではないと思っています。

 暗記の方法は紙幅に限りがあるので、
 宣伝めいて恐縮ですが、詳しくは
 私の本を読んでもらうことにしましょう。
 
 近著には『脳を鍛える記憶術』(主婦の友社)があります。
 要はイメージを結合させたり、
 馴染み深いものを活用して連想をふくらませ、
 ストーリー仕立てにして覚えていくのです。
 これは経験豊富な高齢者に有利な記憶法です。

 人間には記憶に適したリズムがあります。
 
 三秒間です。
 三秒間に収まるフレーズはすうっと頭に入ります。
 だから三秒間に収まるようにフレーズを切り、
 その三秒間に集中するのです。

「一一九二」を「いい国」として覚える
 日本に古来伝わる語呂合わせは
 数字の記憶法として非常に優れたものです。
 
 私はこれを補足発展させ、
 「友寄式――仮名置換法」を作りました。
 
 これを円周率暗誦の過程で何度も練り直した結果、
 大勢の人が楽に数字を記憶できる実践的なものになりました。

 それにしても、人間の脳は忘れるように
 できているのだとつくづく思います。
 でも、忘れるままにしておいては記憶はできません。
 
 本当に記憶したいものはタイミングを見計らって
 復習する必要があります。
 ちょっと忘れかけた頃覚え直すことがコツです。
 
 覚える内容により異なりますが、最初は五分後、
 次は一時間後かもしれません。
 試していくと、自分にぴったりの復習のタイミングがつかめます。

 おまえは仕事をしないで円周率の暗記を
 やっていたのかと言われそうですが、
 私は真面目なサラリーマンで、
 仕事はきちんとやっていました。
 
 暗記に使ったのは片道一時間半、
 往復三時間の通勤時間です。
 
 コースを細かく区切り、あの電柱までに十桁、
 八百屋さんの前までに十桁、
 電車に乗れば次の駅までに十桁、
 というふうにして覚えていくのです。
 
 覚えていなければそこで立ち止まり、
 覚えるまで先へ進みません。
 会社は遅刻できないから懸命です。
 集中するには細切れの時間がいいのです。

 円周率を暗記して何の役に立つのだ、
 馬鹿馬鹿しくないのか、とよく言われました。
 
 人に言われている分にはどうということもないのですが、
 私自身が自分で馬鹿馬鹿しくなってしまって、
 一か月ほどやめたことがあります。
 
 だが、やめてほかに役に立つことができた
 というわけではありません。
 通勤の三時間は無意味に過ぎただけでした。

 いいことがいっぱいあったことに気づきました。
 
 まず健康になりました
 私は低血圧で、八時間寝ても
 しばらくはボーッとしていたのですが、
 昼間円周率の記憶で脳をフル回転しているため
 熟睡するせいか、六~七時間の睡眠ですっきり目覚め、
 活気に満ちて一日を過ごすことができるのです。
 
 人脈が広がった のも記憶術をやったおかげです。
 集中力も持続力もつきました。
 それに使命感と言えば大げさになりますが、
 
 「世の中の役に立つ記憶術を生み出したい」
 
 と燃えるものが湧き起こってきました。

 円周率を暗記するのは馬鹿馬鹿しいことではないと
 心底から納得できた時、私は変わりました。
 何事にも前向きになり、朝が待ち遠しく、
 毎日が楽しくてならなくなりました。

 それでも壁に突き当たります。
 円周率四万桁を一応覚えた頃、
 実際に暗誦してみると約三十か所間違えました。
 
 そこを覚えなおし再挑戦してみると
 今度は別な場所を三十箇所間違えます。
 約一年半この傾向が続き人間の弱さを思い知りました。
 
 それでもめげずに続けていたら
 間違える箇所が激減し
 本番では何とか間違えなく暗誦できました。
 
 「継続は力なり」という言葉は
 本当の本当だと身をもって知りました。

 人間の脳は加齢と共に衰えるといいます。
 
 しかし、これは迷信だと思います
 私は七十三歳になりますが、若かった頃に
 なかなか覚えられなかったものが、
 いまはすんなり頭に入ってきます。
 
 人間の脳は加齢で衰えるのではなく、
 使わないから衰えるのではないでしょうか。

 年間五千人の脳を診ているという
 お医者さんが私の脳を調べ、
 二十歳の脳だと太鼓判を押してくれました
 
 脳は使えば発達するという私の実感は、
 真理なのだと思います。

 私は「七十歳代で、円周率五万桁をどの桁からでも暗誦可能」
 を目指し日々特訓をしています。
 
 
 
 「人間の脳の力に限界はない。
  あるとしたらそれは自分があきらめた時」。
  
  
  必ずできると信じています。

心に響く言葉

土曜日, 12月 3rd, 2011

特集「生涯修業」より、
 
………………………………………………………………………………

● 鈴木 章 (ノーベル化学賞受賞者・北海道大学名誉教授)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   

  チャンスを生かすには、注意深い心、
  一所懸命にやろうとする精神、
  それから謙虚であることが大切です。

    何か結果が出て、それを自分の偏った見方で
    捻じ曲げたりせず、正直に見ること。
    そういう積み重ねがあって初めて何%かの確率で、
    幸運の女神が微笑んでくれる機会に恵まれるかどうか、
    というのが我われの世界です。

 
  
  
● ドナルド・キーン (日本文学研究者)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   人生に大切なことは、私の場合は
   やはり有意義な仕事をすることでしょうね。
      私は自分の仕事をとおして外国人の日本に対する理解が
      深くなったことが一番の誇りであり、喜びなんです。

●福島智(東京大学先端科学技術研究センター教授)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

   人間の理解の及ばない何ものかが生命の種をもたらし
   我われがここに生きているとすれば、
   この苦悩、私の目が見えなくなり、
   耳が聞こえなくなるという特殊な状況に
   置かれたことには何かしらの意味があると思いたい。

●堀文子(93歳の日本画家)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   絵は他の人から学ぶことはできない。
   ただ、自分のだらしなさが直に現れます。

      ですから自分がいつも未知の谷に飛び込むこと。
      不安の中に身を投げていなければダメだと思っております。
      いつも不安の中に身を置いて、
      昨日をぶち壊していくということです。

 「人間の悲しい性」

金曜日, 12月 2nd, 2011

       
       
  三浦 綾子 (作家)

    『人間学入門』より
   http://www.chichi.co.jp/book/ningengaku_guide.html
──────────────────────────────

 これは時折、講演で話すんですが、

  「泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか」。

 私の教会の牧師は「悪口のほうが罪が深い」と言われました。

 大事にしていたものや、高価なものを取られても、
 生活を根底から覆(くつがえ)されるような被害でない限り、
 いつかは忘れます。
 少しは傷つくかもしれませんが、泥棒に入られたために
 自殺した話はあまり聞かない。

 だけど、人に悪口を言われて死んだ老人の話や
 少年少女の話は、時折、聞きます。

 「うちのおばあさんたら、食いしんぼうで、あんな年をしてても
  三杯も食べるのよ」と陰で言った嫁の悪口に憤慨(ふんがい)し、
 その後一切、食べ物を拒否して死んだ、という話があります。

 それと、精神薄弱児の三割は妊婦が三か月以内に
 強烈なショックを受けた時に生まれる確率が高いと聞いたことがありますが、
 ある妻は小姑(こじゅうと)に夫の独身時代の素行を聞き、
 さらに現在愛人のいることを知らされた。

 それは幸せいっぱいの兄嫁への嫉妬から、そういうことを言ったのです。
 この小姑の話にちょうど妊娠したばかりの妻は大きなショックを受け、
 生まれたのは精神薄弱児だったそうです。

 恐ろしい話です。私たちの何気なく言う悪口は人を死に追いやり、
 生まれてくる子を精神薄弱児にする力がある。
 泥棒のような単純な罪とは違うんです。
 
 それなのに、私たちはいとも楽しげに人の悪口を言い、
 また、聞いています。そしてああきょうは楽しかった、と帰っていく。
 人の悪口が楽しい。これが人間の悲しい性(さが)です。
 
 もし自分が悪口を言われたら夜も眠れないくらい、
 怒ったり、くやしがったり、泣いたりする。
 自分の陰口をきいた人を憎み、顔を合わせても口を
 きかなくなるのではないでしょうか。 

 自分がそれほど腹が立つことなら、他の人も同様に腹が立つはずです。
 そのはずなのに、それほど人を傷つける噂話をいとも楽しげに語る。

 私たちは自分を罪人だとは思っていない。
 罪深いなどと考えたりしない。

 「私は、人さまに指一本さされることもしていません」。

 私たちはたいていそう思っています。
 それは私たちは常に、二つの尺度を持っているからです。
 「人のすることは大変悪い」「自分のすることはそう悪くない」。
 自分の過失を咎(とが)める尺度と、
 自分以外の人の過失を咎める尺度とはまったく違うのです。
  
 
 一つの例を言いますとね、ある人の隣家の妻が生命保険の
 セールスマンと浮気をした。彼女は、「いやらしい。さかりのついた猫みたい」
 と眉をひそめ、その隣家の夫に同情した。

  何年か後に彼女もまた他の男と通じてしまった。だが彼女は言った。

 「私、生まれて初めて、素晴らしい恋愛をしたの。恋愛って美しいものねぇ」

 私たちはこの人を笑うことはできません。
 私たちは自分の罪が分からないということでは、この人とまったく同じだと思います。

……………………………………………………………………
『人間学入門』より、三浦綾子氏の名言
 ……………………………………………………………………

  九つまで満ち足りていて、
  
  十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、
  
  人間はまずその不満を真っ先に口から出し、
  
  文句をいいつづけるものなのだ。
  
  自分を顧みてつくづくそう思う。

  なぜわたしたちは不満を後まわしにし、
 
  感謝すべきことを先に言わないのだろう。

                             三浦綾子

「“神の手”を持つ脳神経外科医の流儀」

木曜日, 12月 1st, 2011

       
       
  佐野 公俊
 (明徳会総合新川橋病院副院長・脳神経外科顧問、
   藤田保健衛生大学名誉教授)

 『致知』2010年6月号
              
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【記者:手術に臨まれる時は、どんなことを心掛けておられますか?】

まずは手術前(ぜん)の下準備ですね。
事に当たる前に、手術がどんなふうに進んで、
どのあたりで難しくなるかといったことを考える。

だから易しい症例でもちゃんと絵を描いて、
チェックポイントを頭の中に置いた上で臨んでいます。

昔はなんとなく頭の中で考えて、
という人が多かったけれども、
私が「絵を描かなければダメだ」と常々言ってますから、
いまではほとんどの人が描いてくれるようになりました。

それと、絵に描くことのもう一つの利点は
「いや、実はこんなふうに思っていたんだよ」と、
後で言い訳ができなくなることです。

合っていれば合っている、間違っていれば間違っている。
そうすると、自分の反省にもなるでしょう。

あぁ、これだけずれていた。ここはこうしたほうがいいんだな、
というのが分かるから、次回に修正することができる。
どんな症例でも絵を描いてから臨まなければ、
手術はなかなかうまくなりません。

それから術後に自分のビデオを「他人の目」で見ることも大切です。
ほとんどの外科医は、自分はもの凄く腕がいいと
思い込んでいるんですよ。

だけど自分のビデオを早送りせず、通常の速度で観ると、
何をもたもたやっているんだとほとんどの人が感じると思う。

だからまず、己を知らなければ。
「彼を知り己を知れば百戦殆からず」ですよ。

【記者:手術中の心得はいかがですか?】

それはもう、術前に描いたとおりにやることですね。
手術が始まれば、後は平常心です。
予想外のことが起こった時に、
どれだけ平静さを失わずに対処できるか。
それこそが医師の経験のなせる業なんですね。

ただ、その瞬間はやっぱり修羅場ですよ。
でもそこで慌てて、ガシャガシャッ、とやったら
大変なことになる。

だからぐっと気を落ち着けて、
いまやるべきことは何かをきちっと見極め、
それを実行に移す。

その辺がやっぱり、エキスパートと生半可との違いに
なってくるんじゃないでしょうか。

「成功さえも“試練”である」

水曜日, 11月 30th, 2011

       
       
  稲盛 和夫 (京セラ名誉会長)
        
   『致知』2003年4月号
    連載「巻頭の言葉」より

─────────────────

私は、「試練」とは、一般的にいわれる
苦難のことだけを指すのではないと考えています。

人間にとって、成功さえも試練なのです。

例えば、仕事で大成功を収め、
地位や名声、財産を獲得したとします。

人はそれを見て、
「なんと素晴らしい人生だろう」とうらやむことでしょう。

ところが実は、それさえも天が与えた厳しい「試練」なのです。

成功した結果、地位に驕り、名声に酔い、
財に溺れ、努力を怠るようになっていくのか、
それとも成功を糧に、さらに気高い目標を掲げ、
謙虚に努力を重ねていくのか によって、
その後の人生は、天と地ほどに変わってしまうのです。

つまり、天は成功という「試練」を人に与えることによって、
その人を試しているのです。
 

いわば人生は、大小様々な苦難や成功の連続であり、
そのいずれもが「試練」なのです。

そして、私たちの人生は、その人生で織りなす「試練」を、
どのように受け止めるかによって大きく変貌していくのです。

私たちは、苦難あるいは僥倖、そのいずれの「試練」に遭遇しても、
決して自らを見失わないようにしなければなりません。

つまり、苦難に対しては真正面から立ち向かい、
さらに精進を積む。

また成功に対しては謙虚にして驕らず、
さらに真摯に努力を重ねる。
そのように日々たゆまぬ研鑽に励むことによってのみ、
人間は大きく成長していくことができるのです。
 
私は、現代の混迷した社会を思うとき、
私たち一人ひとりが、どのような環境に置かれようとも、
自らを磨き、人格を高めようとひたむきに努力し続けることが、
一見迂遠に思えても、結局は社会を
よりよいものにしていくと信じています。

……………………………………………………………………………………
■稲盛和夫氏から『致知』へのメッセージ
……………………………………………………………………………………

 昨今、日本企業の行動が世界に及ぼす影響というものが、
 従来とちがって格段に大きくなってきました。

 日本の経営者の責任が、今日では
 地球大に大きくなっているのです。

 このような環境のなかで正しい判断をしていくには、
 経営者自身の心を磨き、精神を高めるよう
 努力する以外に道はありません。

 人生の成功不成功のみならず、
 経営の成功不成功を決めるものも人の心です。
 
 私は、京セラ創業直後から人の心が経営を決める ことに気づき、
 それ以来、心をベースとした経営を実行してきました。

 経営者の日々の判断が企業の性格を決定していきますし、
 経営者の判断が社員の心の動きを方向づけ、
 社員の心の集合が会社の雰囲気、社風を決めていきます。

 このように過去の経営判断が積み重なって、
 現在の会社の状態ができあがっていくのです。
 
 そして、経営判断の最後のより所になるのは
 経営者自身の心である ことは、
 経営者なら皆痛切に感じていることです。

 我が国に有力な経営誌は数々ありますが、
 その中でも、人の心に焦点をあてた
 編集方針を貫いておられる『致知』は際だっています。
 
 日本経済の発展、時代の変化と共に、
 『致知』の存在はますます重要になるでしょう。