まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「海外から逆輸入されるメイドイン山形」

金曜日, 12月 20th, 2013

佐藤正樹(佐藤繊維社長)

※『致知』2014年1月号
特集「君子、時中す」より

 

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当社はもともと山形で
糸作りとニット製造をやっておりまして、
曾祖父が羊を飼ってウールの紡績業を
始めたのが最初です。

祖父の時代に工業化を進め、
父がニット製造を始めました。
私は4代目として後を継いだのですが、
ちょうどその頃から日本の繊維業界は
急激な勢いで衰退し始めたんです。

それまで私は東京のアパレル会社に勤務していましたが、
帰郷していきなり大変な場面に遭遇したわけです。

ニットという分野は繊維製品の中でも加工賃比率が高いので、
不況となると人件費の安い海外に
生産拠点を移すケースが多いんです。

私たちもこのまま日本で製造を続けるか、
海外に生産拠点を持って行くか、
いろいろと悩みましたが、
やはり国内の製造は守らなくてはいけないというので、
そのまま製造を続けることを決めました。

(中略)

山形に戻って4、5年経った頃でしょうか、
私はある糸に魅せられました。
これはどこで作ったのだろうと問い合わせてみたら、
取り引きのあったイタリアの工場の糸だと。

自分のところにしかないオリジナルの糸を作る上で
ヒントを得られるのではないかと思った私は、
イタリアに飛びました。

ちょうど世界の糸の最高峰と呼ばれる
ピッティ・フィラーティー展が開かれていたので、
それに合わせて糸を作っていたメーカーを訪問したのですが、
この時、私は大変な衝撃を受けたんですね。
人生の一番の転機になったのはこの時だったかもしれません。

驚いたことに、工場に並んでいたのは
我が社で使われているのと変わらない機械でした。
その代わり、どの機械にも職人たちが加えた
独自の工夫の跡があったんです。
ギアなどの部品を替えたりしながら、
独自の糸を作っているわけです。

工場長が親切な人で
「この糸を手に取ってご覧なさい」
と実際に糸を触らせながら、
この糸がなぜここまで美しくなるのか、
どうやって製造するのかといったことまで、
実に細かく丁寧に説明してくれました。

私の目を見て熱く語る
工場長の姿を見ながら、思いましたね。

「ああ、俺たちはアパレルに言われるがままに
物作りをやっているけれども、
それとは全く別の発想で生きている人だ」と。

そう考えていたら、工場長は
「私たちが世界のファッションのもとを作っているんだ」
と力強く言うわけです。
この言葉も衝撃的でした。

だって日本でいう工場のイメージは
「これを作ってくれ」
「はい分かりました」
と黙って頭を下げる、というものでしょう。

だけど、この工場長にはそういう雰囲気は微塵もない。
自信と誇りに満ち溢れていました。

「物作りの現場から世界を変えていくことは不可能ではない、
自分もこの道を歩いて行こう」

と強く思ったのはこの時が最初でした。
早速社員を集めて
「俺たちも人から言われたものではなく、
自分たちだけの糸を作ろうじゃないか」
と訴えました。

でも反応は冷ややかでしたね。
「社長の息子がイタリアにまで行って
変な風邪に感染されて帰ってきた」と(笑)。

いま思うと、新しいオリジナルの製品を作るのも大変でしたが、
それ以上にスタッフの心を変えていくのが大変でした。

* * *

その後、佐藤さんはいかにして社員の心を変革し、
世界から認められるオリジナルのニット製品を生み出したのか。

続きはぜひ『致知』1月号P60をご一読ください。

「失敗と躓きの数が人生の勲章」

月曜日, 12月 16th, 2013

坂本健一(古書店「青空書房」店主)

※『致知』2014年1月号
連載「生涯現役」より

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――いまもお元気で現役を貫かれている秘訣はなんでしょう。

一にも二にも本ですな。
本屋に対する愛情と、本が私に向けてくれた愛情。
その交流だけです。

本ってね、生きて甦って私の心の中に飛び込んできてくれる。
「本は生きている」と書いたら、
「そんなアホな。ただ紙に活字が印刷してあるだけや」
と言う人がいたけど、そんな人は既に死んでるわ。

本ってね、読んであげることによって
その作家の情熱や理想が伝わってくるんです。
どうしたら人に伝わるか、
自分のこの思いをどんな方法やったら
相手に伝えることができるか、
一所懸命考えて形になったものが本です。

――きょうまで歩んでこられて、
人生で大事なことはなんだと思われますか。

自分を偽らんように、できるだけ自分に素直に生きること。
所詮世の中は嘘で固められているけど、
自分に対して嘘をついたらおしまい。

それから、人生辛いことも多いけど、
上司が悪い、世の中が悪いというのは通用せん。
全部自己責任。
どんな環境になっても、
病気で動けなくなっても、
それが自分の運命や。

私みたいに90になってまだ元気で
商いをさしていただけてるのは、
有り難すぎるほどの人生やから、心を尽くして、
人々にいままで受けてきたご恩、
受けてきたいろんな知識とか知恵を伝播していくのが
私の仕事やと思ってます。

これまでたくさん過ちや失敗を重ねてきたから、
それを伝えて若い人たちの参考になったらええやろ。
失敗と躓きの数がその人の勲章。
その数が多いだけ人生は豊かになる。
それが一番の貯金ですよ。

――勇気づけられる助言です。

失敗して自分は一番しょうもない人間やと
思うのと同じレベルで、
自分ほど強くて、真っすぐで、
負けないやつはおらんという二つの重心を持つこと。
片側だけやと転んでしまう。

そして地べたに放り出されても、
そこで負うた傷を勲章に変える。
人生はオセロゲーム。
真っ白の裏に真っ黒。
真っ黒の裏に真っ白がある。
真っ黒の真後ろに真っ白があることを忘れたらいかんですよ。

* * *

・人生の苦境を突する知恵袋

・本を読まない人へのアドバイスとは?

・読書こそが人生を豊かにしてくれる

続きはぜひ『致知』1月号P98~をご一読ください。

「森下仁丹をV字回復させた劇的組織改革」

土曜日, 12月 14th, 2013

駒村 純一(森下仁丹社長)

※『致知』2014年1月号
特集「君子、時中す」より

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――2006年に社長に就任され、
僅か2年で黒字転換を成し遂げられましたが、
その要因はなんだと思われますか。

組織の構造自体を見直したことが大きかったと思います。
何をしたかというと、社内の部署を
一度すべてなくしてフラットにしました。

――部署を取り払う!?

簡単に言えば、部署をバラバラにして、
プロジェクトチームをたくさんつくるということです。

結局それまでは縦割りのお役所仕事になっていたんです。
まず企画部が商品のアイデアを考え、決裁を取り、
デザイン、製造、営業と、
それぞれ稟議書に判子が押されないと
次のステップに行けない。

それでは時間がかかってしまって、
仕事にスピード感が生まれないんですね。

そこで異なる部署の人同士でチームをつくり、
一つのテーマに関して徹底的に議論を重ねていったんです。
私もその現場にできる限り足を運び、
社員と対話をするよう心掛けていました。

――ああ、現場に出ていかれた。

役員室にいたって、ただ数字を眺めているだけで
何も起きないわけです。
リポートを待っていても出てきませんから、
逐次デイリーな情報を現場で拾い上げる。

例えば、商品のパッケージについて話し合った時、
私が「このデザイン買う気にならないね。
なんでこんなふうになってるの?」と聞くと、
「上の人がこれがいいって言っているので」と。

「いや、君らはどう思うの?」
「ちょっと古臭いかなと……」
「じゃあなんで言わない。
いまの市場に合わないんだったら売れるわけないよね」

そこで分かったのは、
伝統企業のしきたりゆえに物凄く儀礼が先行し、
妙に上の人に遠慮してしまう部分があるということでした。

だから、バカ丁寧な言葉遣いは一切やめさせたんです。
例えば、「お言葉ですが」ではなく、
「私の意見としては」と言いなさいって。

そうすることで活発に議論ができる社風へ変えていくとともに、
市場のニーズを捉えた商品づくりに挑んでいきました。

それを何年も繰り返し続けていくことで、
160億円の負債があった森下仁丹は
現在、売上高96億円、4億円の経常利益を出す
企業へと生まれ変わりました。

――目覚ましい変化ですね。

それでも私自身が手応えを感じ始めたのは、
社長就任から4年くらい経った頃でした。

やはり組織というのは
「1」の力で「1」変わるのではなく、
「10」の力でようやく「1」変わるものだと思います。

組織をフラットにしたもう一つの理由は、
人材の適性を見るためでした。
この人、一体どういう人?
どこが最適なの?って。

ただ、それだけですべて見極めることは
できないので、まずはやってもらう。

だから私は年齢に関係なく
ポジションを逆転させ、
若い人を積極的に抜擢していきました。

――キャリアに拘らず、見込みのある人材をどんどん登用された。

もちろん全部が成功するってわけじゃない。
だから、人事は比較的早く変えました。
合わないなと思ったらすぐ移す。

この人の性格とか仕事のやり方を見てると、
どうもこっちの畑のほうがいいんじゃないかなと。
なのでそこに関しては「石の上にも三年」
というのとは少し違うんですよ。

どっちかというと朝令暮改。
半年くらい見ていると分かるんですね、
その人のポテンシャルが。
無理なことをいつまでもやらせていたら、
本来一番伸びるところまで潰れちゃうんです。

だからまずは得意なところで実績を出すことが第一です。
そこで才能を伸ばした上で、
次のキャリアで苦手分野にチャレンジして経験を積んでいく。

自分の持ち味を発揮できない状態で、
立派なジェネラリストにはなれないですよ。
自分の強み、そこがやっぱり自信の源になってきますから。

* * *

・三菱商事の事業投資先で社長を務めていた駒村氏が
52歳の時、赤字の森下仁丹へ転職した理由とは?

・伸びる社員と伸びない社員の差

・リーダーに求められるものは
情報量とインスピレーション

・企業再建に当たって大切にしてきた言葉

・駒村流「経営の極意」とは?

続きはぜひ『致知』1月号P40をご一読ください。

 

「国際交渉プロフェッショナルの人間学」

水曜日, 12月 11th, 2013

島田久仁彦(国際ネゴシエーター)

※『致知』2013年1月号
特集「君子、時中す」より

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念願の国連勤務がスタートし、
2週間目の金曜日。

この日、私は人生を決定づける人物との
出会いを果たすことになります。

同じ部署のIT担当の女性から
「将来国連で活躍したいのなら、
会っておいたほうがいい人がいる」
と言われ、夕食に誘われました。

そこに現れたのは、女性のご主人とその友人。
ともに国連事務次長、つまり国連のナンバー2の方でした。
そして、そのご主人の友人こそ、
後々私のメンターとなるセルジオ・デメロ氏だったのです。

「こんなカッコいい人がいるのか。俺もこうなりたい!」

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私は一瞬にして虜になってしまいました。
彼は紛争調停界のスーパーマンと
称されていたほど類い稀な交渉力を持ち、
次の国連事務総長に最も近い人物と言われていました。

国連で働く人は皆、彼のことを「ミスター・デメロ」ではなく、
敬意と親しみを込めて「セルジオ」と呼んでいました。

私の知る限り、いまだかつて
ファーストネームで呼ばれた国連幹部は、
彼を除いては1人もいません。
ゆえに、ここでも「セルジオ」と呼ばせていただくことにします。

国連のカリスマ的存在の2人との会食を終え、
翌週の月曜日の朝一番、
セルジオが私のもとにやってきました。

「おまえは非常に熱い男だ。
お互いに物凄く好きになるか、嫌いになるか、
どっちかだと思う。
俺と一緒に紛争調停や交渉の仕事をしてみないか」

私は二つ返事で引き受けました。
当時の私は上昇志向の塊であり、
何よりも「この人についていきたい」という思いが強くありました。
こうして私は紛争調停官としての第一歩を踏み出すことになったのです。

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(中略)

セルジオは交渉術を手取り足取り教えてはくれませんでした。
とにかく背中を見て学べ、というスタンス。

彼がどういう話し方をしているか、
どんなジェスチャーをしているか、
それに対する相手の反応はどうか。

目線はセルジオのほうを向いたまま、メモを取る。
そうやって私はセルジオを絶えず観察し、
一つでも多くのことを盗もうと心掛けていました。

その中で学んだことは数限りなくありますが、
最も印象深く刻まれているのが
彼の人柄であり、人に対する接し方です。

セルジオが長期の仕事を終え、
久々にオフィスに帰ってくると、
その日の午前中はまず仕事になりませんでした。
というのも、職員の多くが
セルジオのもとにやってくるからです。

彼は常に明るく笑顔を振りまき、
誰に対しても分け隔てなく接していました。

そして、職員一人ひとりの顔と名前が一致しているのはもちろん、
「病気のお子さんは元気にしている?」
「最近二人目のお嬢さんが生まれたんだって? おめでとう」など、
その人に関するホットな情報が
必ず頭に入っていたのです。

交渉の現場においても、
彼が部屋に入るとパッと明るくなる。
血生臭い話も和やかな雰囲気で合意へと運んでいく。
そういう仕事上の絶妙な呼吸を持った人でした。

皆に同じ態度で接する。
いつも笑顔でいる。

一見当たり前とも思えるようなことを
徹底することで人望は生まれ、
周りの人が自然と力を貸してくれたり、
プラスアルファの仕事をしてくれたりする。

そのことをセルジオは身を以て教えてくれました。
これはどんな仕事にも当てはまることではないでしょうか。

* * *

その他、

・交渉の第一条件
・最善手を導き出す秘訣
・エレベータープレゼンテーション
・交渉とは勝ち負けではない
・プロフェッショナルの流儀
・交渉に当たって心に留めてきた信条

等々、仕事に生かせる極意が満載です。

続きはぜひ『致知』1月号P34をご一読ください。

「時代はいつも魅力的な言葉から始まる」

火曜日, 12月 10th, 2013

細田高広(クリエイティブディレクター)

※『致知』2014年1月号
連載「致知随想」より

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「十年以内に人類を月に送り込む」
(ジョン・F・ケネディ)

「ポケットに入るラジオをつくれ」
(井深大)

「女の体を自由にする」
(ココ・シャネル)

いつの時代も、
未来はこうした魅力的な言葉によって
創造されてきました。

私は広告会社のコピーライターとして
企業ブランディングのお手伝いをする中で、
多くの企業が前年比何%アップといった「数字の経営」に汲々とし、
その数字がなんのためにあるのかという原点が
見失われている現状を痛感しています。

経営は本来、こんなものをつくりたい、こういう時代にしたい、
といった言葉から始まるものであり、
「言葉の経営」こそが社員を躍動させ、
時代を開く原動力になると私は考えるのです。

私はかねて主に企業の宣伝部の方と向き合い、
広告やCM制作のお手伝いをしてきました。

ところがせっかく知恵を絞っても、
その企業のトップが別の場所で
私たちが発信したメッセージと異なる発言を
していることがしばしばあり、
自分の仕事に疑問を抱いていました。

転機となったのはロサンゼルスの会社への出向でした。
現地で一緒に仕事をしたアップルやペプシ、
ゲーターレードといった会社のトップの口からは、
「こういうものがあったらいいよね」といった
無邪気な夢や常識外れな発想が、
ドキドキするような魅力的な言葉となってポンポン飛び出し、
それを周りが具体的な数字に落とし込む形で経営が行われていました。

周囲との軋轢を避けるため、
当たり障りのない発言しかしない
多くの日本のトップとの違いを痛感したのです。

以来私は、クライアントの意思決定に関わる経営層と直接向き合い、
マーケティング戦略や企業戦略といった
より上流の部分からブランディングに関わることで、
的確で魅力的なメッセージを発信する努力を重ねているのです。

冒頭の「ポケットに入るラジオをつくれ」という言葉を
井深大氏が発信した当時、
ラジオというのは大きな「家具」でした。

単に「小さなラジオをつくれ」という指示であったなら、
従来のラジオを少し小さくしたものしかできなかったでしょう。
「ポケットに入る」という言葉によって、
ラジオを外に持ち歩くという新しい発想が共有され、
形になったと思うのです。

またシャネルは、
窮屈な衣服で心身ともに束縛されていた女性を解放する、
というブランドに懸ける思いを、
「女の体を自由にする」という明快な言葉で表現することによって、
新しい未来像を提示し、社会から絶大な支持を集めたのです。

言葉には、人の意識や現実を大きく変える力があります。

* * *

その他、
ディズニーランド躍進の秘訣、
商品開発から経営戦略、マネジメント、
人生設計まで役立つ言葉の技術とは。

続きはぜひ『致知』1月号P89をご一読ください。

「トップの決断が可能性を拓く」

木曜日, 12月 5th, 2013

立谷秀清(福島県相馬市長)
鈴木秀子(文学博士)

※『致知』2014年1月号
特集「君子、時中す」より

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立谷 震災から3日目の3月14日夜9時頃、
ガスマスクをした自衛隊員が100人以上、
市庁舎にやってきましてね。

隊長が「いますぐ相馬市民を避難させてください」と
要請してきたんです。

より原発に近い隣の南相馬市からは
避難者がどっと押し寄せてきていて、
崩壊した近隣の病院の入院患者を
受け入れるなど大混乱にある時でした。

私はすぐに政府に電話で確認しました。
「避難命令を出したのですか」と
仙谷由人さんに聞いたところ、
「自分のところは出していないが、
他の対策会議で何を話しているか分からない」と。

仙谷さんですら動きを把握していない。
日本政府として腰が定まっていない。
これにはただあっけにとられました。

そうである以上、私が判断するしかありません。
で、考えるわけですよ。
夜9時に「さあ、市民の皆さん一斉に逃げてください」
という指示を出したらどれだけの混乱があるか。

たぶん寝たきり老人を置いて皆逃げるでしょう。
他の市町村では実際、
寝たきり老人が置いていかれて餓死する
という悲劇がたくさん起きています。

鈴木 人の命を救うという医師としての視点が
そこでも生きてくるのですね。

立谷 ここで問われるのは、
いざ避難した時に何人の犠牲者が出るかというリスクと、
逃げないで様子を見ている間に
どれだけ被曝するかというリスクの大小です。

(中略)

その時、私の頭の中は6対4でした。
6割は
「いま逃げたら大変だ。
放射線の被曝どころではない。
相当の混乱と被害が出る」
という思いです。

仮に原発が緊急事態で退避するにしても、
最初は病人から逃がさないといけない。
そのための引き受け先を決めなくてはいけない。
市民全員を避難させる場所も決めなくてはいけない。

それを決める間、
被曝することもあるだろうが、
1週間、2週間の被曝は微々たるものだ。
いま自衛隊の言うことを聞くわけにはいかない――
この思いが6割。

残りの4割は
「ひょっとしたら、
これは相当やばいかもしれない」
という底知れぬ不安が、やはりありました。

鈴木 その頃は東日本全体が大混乱に陥っていて、
原発から遠く離れた東京でさえ
脱出する人が相次いでいたくらいですから。

原発にほど近い現場で冷静さを保ちながら
情報を集め、的確な決断を下すのは、
並大抵の覚悟ではできなかったと思います。

立谷 私は普段から3日考えるのも
3分で考えるのも一緒と思っていますから、
とても思慮の浅い人間なのかもしれません(笑)。

だけど、私は体験して思ったのですが、
口から衝いて出る時は
6対4が10対0になっているんですよ。

私がその時、なんと言ったか。
自衛隊の人たちに
「皆さん、市役所から出ていってください」と
明確な意思を伝えました。

鈴木 迷いが吹っ切れた凄い一言ですね。

しかし、その冷静な一言で職員さんは安心された。
それがまさにリーダーの資質なのだと思います。

立谷 避難させるべきか否か。
本当のところ、私も頭の中では
ぴりぴりしているわけですよ。

市の職員もじっと私の顔を見ている。
まさにギリギリの決断でした。
しかし、不思議なんですが、
自衛隊がいなくなった途端、
職員は何事もなかったように仕事をするんです。

相馬市への避難勧告が
誤報であることが分かったのは、
その翌日のことです。

鈴木 いまのお話を伺いながら、
とても感心しました。

いざという時、リーダーはどうあらねばならないか。
そのことがあますところなく伝わってくるご体験談でしたね。

立谷 危機に当たって皆が見るのはリーダーの顔です。
その時、演技でもいいから
「道はこうだ」「間違いない」という
顔をしなくてはいけない。

私になぜそれができたのか。
震災後、市長室で情報を入手したり
電話で連絡を取ったりしながら、
自分の中にお手本がいたんです。
それが栗林忠道中将です。

鈴木 ああ、第二次世界大戦中、
硫黄島で守備隊指揮官として戦い、
最後は戦死された……。

立谷 私はこの栗林中将をとても尊敬しています。

負けると分かっていながら、
諦めないで戦う不屈の精神を
私はこの人に学びました。

もっとも硫黄島の激戦は、
私どもの仕事の比ではない。
千倍、万倍過酷な状況にあっても
挫けないトップの姿勢は、
やはり危機に当たってのお手本ですね。

* * *

立谷市長は震災当日から
いかにして陣頭指揮を執ってきたのか。
復興の道程やそこに懸ける思いとは。

続きはぜひ『致知』1月号P20をご一読ください。

「弱点を武器に水族館に奇跡を起こす」

水曜日, 12月 4th, 2013

中村 元(水族館プロデューサー)

※『致知』2014年1月号
特集「君子、時中す」より

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――斬新なアイデアを次々と生み出す秘訣はなんですか。

常識を常に疑っているんです。
みんながそうだと言っていることは、
本当にそうだろうかと、その奥を考えたくなる。

ですから結構理屈っぽいですね。
理屈っぽいというのは凄く大切で、
自分の哲学をつくります。

絶対にこうなんだって自信を持って
言い切らなければならないプロデューサーは、
しっかりした自分の哲学を
持っていなければなりません。

こちらの企画に皆が戸惑うようなことがあっても、
ちゃんと説得しなくてはいけませんから。

――各館とも厳しい条件の中で、
再生を実現していくのは至難の業です。

僕は逆境であればあるほど頭が働くんです。
お金はいくらでもあるから
自由に考えてくださいって言われると、
逆に考えられなくなる。

だけど逆境では道は限られているから
見つけやすいじゃないですか。
ですから僕は、わりに順境の時でも
断崖ギリギリまで行くことにしているんです。

絶壁でこそ力が出るし、
そんなギリギリのところに優秀な人は来ませんから、
僕の力でも勝てる。
そこにやっぱり進化の道があるんですね。

――逆境に進化の道がある。

生物が進化するのは、
存亡の瀬戸際に追い込まれた時です。
キリンの首が長くなったのも、
シマウマに餌を奪られてしまうからでしょう。
大きな進化ってギリギリのところにあるんですよ。

山の水族館の前に手掛けた
東京池袋のサンシャイン水族館は、
海から遠く、都会の高層ビルの上にあるために
大量の水が使えない。
敷地の半分が屋上にあって
屋根がつくれない。

夏は設置した椅子が座れないくらい熱くなるし、
冬は逆に寒過ぎ、
来館者数は年間七十万人に落ち込んでいました。

そこで僕は、屋上を緑化して庭園にしました。
屋上緑化で有名な玉川高島屋を調べて、
最悪の環境を「天空のオアシス」というコンセプトに転換し、
オープン1年で来館者数224万人を記録しました。

大事なことは、
自分のダメなところを直視する
ことだと思います。

弱点を克服しようと思わずに、
武器にすることを考えていくと、
道は開けると思います。

* * *

中村氏はいかにして名プロデューサーへと
登り詰めていったのか。その半生とは。

「ビジネスマンが銘記すべき言葉」

火曜日, 12月 3rd, 2013

牛尾 治朗(ウシオ電機会長)

※『致知』2013年12月号
連載「巻頭の言葉」より

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私が経営の世界に足を踏み入れたのは、
父親が亡くなり家業の牛尾工業に
入社したことがきっかけでした。

5年後、不採算であったため切り離された部門を
引き受けて立ち上げたのがウシオ電機です。
昭和39年、33歳の時でした。

以来、今日まで約50年。
この間の経営活動を通じてつくづく実感することは、
経営は職人芸であるということです。

高度成長という追い風にも恵まれ、
おかげさまで当時としては最短の五年で
上場を果たすことができましたが、
そうした体験を通じて、
経営は単に大学で経営学を学んだり、
ITに詳しいからできるといったものではなく、
様々な苦労を重ね、
複雑な人間関係に処する中で培われていく
職人芸であることを私は実感しているのです。

以前読んだ永六輔さんの『職人』(岩波新書)という本には、
そんな私の琴線に触れる素朴で率直な職人さんの言葉が
数多く紹介されており、深い共感を覚えました。

「〈私もいっぱしの大工になりました〉って威張っている職人がいたけど、
〈いっぱし〉というのは、〈いちばんはしっこ〉ということなんだよね。
威張って言う台詞じゃない」

「いいかい、仕事は金脈じゃない、人脈だぞ。
人脈の中から金脈を探せよ。
金脈の何かから人脈を探すなよ」

「職業に貴賤はないと思うけど、
生き方には貴賤がありますねェ」

「目立たないように生きる――昔はそういう考え方でしたよね。
いまは、目立つように生きる、そうなってますわね」

「職人が愛されるっていうんならいいですよ。
でも、職人が尊敬されるようになっちゃァ、オシマイですね」

経営者はもとより、
誰もが銘記すべき言葉ではないでしょうか。

「君子の条件“文、行、忠、信”」

土曜日, 11月 30th, 2013

安岡定子(こども論語塾講師)

※『致知』2013年12月号
連載「子供に語り継ぎたい『論語』の言葉」より

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子、四を以て教う。文、行、忠、信

先生(孔子)は常に四つの教育目標を立てて
弟子たちを育てられた。文、行、忠、信がそれである――。

今回紹介するのはとても簡潔な言葉ですが、
孔子の教えがここに凝縮されているといってよいくらい、
奥の深い章句です。

文はその言葉のように学ぶこと(学問)、
行は行い、実践です。
では忠、信とはどういう意味なのでしょうか。

忠、信という言葉が出てくる章句を『論語』に求めると、
学而篇の次の言葉が思い浮かびます。

「忠信を主とし、
己に如かざる者を友とすること無かれ」

(真心と信頼を第一とし、安易に自分より知徳の劣った者と
交わっていい気になってはいけない)

同じ学而篇には、
孔子の晩年の弟子である曾子による、

「吾日に吾が身を三省す。
人の為に謀りて忠ならざるか、
朋友と交わりて信ならざるか、
習わざるを傳うるか」

(私は毎日、自分をたびたび省みている。
人のためを思って真心からやったかどうか、
友達と交わって、偽りはなかったか。
また習得しないことを人に教えるようなことはなかったか)

という章句があります。

このように忠とは真心や己を尽くすこと、
信とは偽らない心を言います。

「忠信を主とし」とは忠、信を自分の中心に
しっかりと据えて拠り所にしなさい、
という意味ですから、
孔子自身がこの二文字をとても大切にしてきたことが分かります。

誰よりも孔子を尊敬し、
孔子から大きな期待を寄せられた曾子が
その忠、信の大切さについて強調して
述べていることも興味深いでしょう。

もう一つ、注目したいのは
「子、四を以て教う。……」の章句が
孔子自らの言葉ではないことです。

孔子の教えや生き方をよく学んでいた門人が
「先生はいつも文、行、忠、信について教えられていた」
と発言しているのは、
孔子がこの四つを平素からいかに大切にしていたのか、
という証でもあるのです。

誰が発した言葉だったのかは
記されていませんが、
孔子の教えのポイントをぎゅっと掴むことのできた、
とても聡明な門弟だったことは間違いありません。

* * *

小さな実践の積み重ねが

火曜日, 11月 26th, 2013

小さな実践の積み重ねが
やがて大きなうねりを起こす

鍵山秀三郎(イエローハット創業者)
手登根安則(フェンスクリーンプロジェクト代表)

※『致知』2013年12月号
特集「活路を見出す」より

0078[1]

 

【鍵山】 自分が正しいと信じてやろうと
思ったことはやめないことですよ。
そこからしか物事は活路を見出せないと思います。

思うようにいかないことはたくさんあります。
むしろそちらのほうが多い。

いままでの人生を振り返ってみると、
相当な壁があった、困難があった、でもやめなかった。

ですから、すべて「やっておいてよかった」というのが私の人生です。

【手登根】 どんなことでも行動ありきだと私も思います。
心の中でどんなにいいことを考えて、
念仏のように唱えていても何も進まない。

まずは行動して、それを人が見る。
そして共感を呼んでどんどんその輪を広めて、
沖縄の人も、米軍の人たちもみんな笑顔にしていきたいです。

やっぱり笑顔とか「ありがとう」という言葉は
お金では買えません。
私は人生のバロメーターって、
目を閉じる最期の瞬間までに
何回「ありがとう」と言われたか、
その回数だと思っています。

そのためにも、
行動せずに未来の自分が後悔する姿は見たくない。
失敗しようが行動しないと活路は開けない。

小さな実践の積み重ねが、
やがて大きなうねりを起こすのだと信じています。

【鍵山】 私が何かやろうとした時、
「そんなことは不可能だ」と言われたことは
たくさんありました。

でも、いまになってみるとすべて可能になっています。
それは私がやろうとしたことが、
たまたまはるか遠くにある目標だったというだけです。

普通の人は遠いことを不可能と言ってしまう。
私はそうじゃないと思っています。
そして、一歩一歩近づいていけば必ず到達すると信じています。

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マスコミが決して報道しない
沖縄の置かれている現状、
手登根氏の清掃活動に懸ける思いとは。

鍵山氏が80年の人生を通して
極められた実践哲学の神髄とはーー。

続きはぜひ『致知』12月号P20をご一読ください。