まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

前世療法、大盛況!!!

水曜日, 4月 15th, 2015

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横浜市の「イーハトーヴクリニック催眠センター」の荻原優院長によるセミナーが28日にちえりあで、

そして翌日『前世療法1日体験ワークショップ』がまほろばで行われました。

前日、まほろばで「アスタジー」のセミナーが終わった後、駆けつけたのですが、

不覚にも、催眠誘導以前から既に自ら誘導して、本格的睡眠状態に突入、

後から目を覚ましてその誘導事項を聞くが、目新しいことばかりで、

自らを爆睡療法で心身を癒していたらしいことが判明。(笑い)

とにかく、催眠にかかりやすい体質で、何年か前に「記憶と前世」を書いたことがあった。

仏教では、輪廻転生は基本思想で、それがいわば西洋科学の手法で実証されている感がある。

 

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荻原先生は、まほろばでは二回目の講座。

当日、満席の熱狂で、これほどの方々が参加されるほどの、受け入れる時代の熟成だろうか。

基本の知識と歴史。さらに、実技で参加者同士の実践。

初めての方も含め、なかなかどうしてどうして、みなさん入りやすいんですね。

それぞれに、相当の記憶が甦ったようで、それも具体的に詳細に告白されたようです。

それにより浄化され、今の生を肯定し、明日への希望が沸いてくる体験に、

みなさん一同に、次回のセラピスト講座を札幌と函館で開き、参加したいとの事。

もうビックリデスね。

さらに一層研鑽をつまれて、新しい人生の扉を開かれますことを祈ります。

 

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100歳長岡さん世界初、1500メートル完泳 

日曜日, 4月 5th, 2015

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 100歳の長岡のおばあちゃま。
すごい!!
1,5kmを泳ぎ切った!!
それも、世界新記録!!!
そして、水泳を始めたのが、何と80歳から!!!!
誰もが、人生に希望を持てますね。
人生、いくつからでも遅くない。
やる時は、今!!
ありがとう!長岡さん。
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 100歳の現役スイマー、長岡三重子さん=山口県田布施町=が4日、松山市で開かれた日本マスターズ水泳短水路(25メートルプール)大会の女子1500メートル自由形に出場し、100~104歳の部で世界初の完泳を果たした。ゴールの後「やれやれです。寿命があれば105歳まで泳ぎたい」と笑顔を見せた。

 記録は1時間15分54秒39。日本マスターズ水泳協会によると、今後、国際水泳連盟(FINA)に申請し、正式な世界記録と認定される。長岡さんの持つ世界記録は25種目となる。マスターズ水泳は、年齢層ごとに順位を競い、健康増進や他の選手との交流も重視。国内では18歳以上が参加でき、距離や泳法で種目が分かれる。

 100~104歳の部に出場したのは長岡さん1人で、40~70代の選手にまじって背泳ぎで挑戦。30往復を泳ぎ切った。

 長岡さんは第1次世界大戦が始まった1914年に山口県周南市の商家に生まれた。「前畑ガンバレ」のラジオ放送で知られ、36年のベルリン五輪200メートル平泳ぎで優勝した故前畑秀子選手と同い年に当たる。水泳を始めたのは80歳の時。リハビリが目的でほとんど泳げなかった。短水路はターンの回数が増えるため、より負担が大きい。長岡さんは過去に2度挑戦したが、いずれも途中棄権していた。

 

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100歳スイマー

 

死生

日曜日, 3月 1st, 2015

「降りてゆく生き方」の森田さんから、送られて来た記事です。

佐治先生の死生観が見事に平易に書かれたものです。

人は、いつかは直面する死。

それをどう受け止めるか、私達ひとりひとりの課題でもあります。

 

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『僕を支えた母の言葉』

月曜日, 12月 29th, 2014

昨日、登別のアイ企画・野崎秀夫さんから、年末のお手紙を戴きました。

以前から、ご紹介戴いている梅原司平さんのことは存じ上げているのですが、

時のご縁でしょうか、彼の唄に動かされ、それと野崎さんが同封してくださった

ある方の「おかあさん」への想いの綴りが重なって、

皆さまにお知らせしたくなりました。

また韓国の後藤翁も「母の会」を立ち上げましたので、次回お知らせいたします。

まずは、野崎さんの許可を得て、文章と共に、動画も添付します。

 

宮下社長!

沖田 真琴 @野崎秀夫です。先日はありがとうございました。

このCD是非お聞きください。お願いします。(以下は私の顧客にお知らせした内容です)

拝啓

18日(木)午後2時から90分、NHKラジオ第一に、シンガーソングライターの梅原司平さんがゲスト出演されました。

しかし、今回の爆弾低気圧で、肝心なところが北海道のラジオでは聞けませんでした。

ところが・・

偶然ある方から依頼を受けてパソコンで録音していたので、聞き直して感動しております。 

もし、聞きたい方が居られましたら、CDに焼いてお届けいたします。

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梅原司平

 

内容は、NHKのブログから引用してご紹介します。

 

『売れない歌手でよかった』

キャリア40年以上、“アラ古希”とは思えない艶やかな

声と見事なギターテクニックをスタジオで御披露ください

ました。でも、何より、歌詞に込められている司平さんの

思いの深さが、パーソナリティ陣の胸にストレートに刺さ

ってきて、“みちや”の目に 涙・・・きっとラジオでお聞

きになっていた皆さんの胸にも届いたことと思います。

 

昭和20年の富山大空襲のとき、お母さんのお腹の中に

いた司平さん。自宅は全焼、疎開先の物置小屋で生まれ、

お母さんや兄弟から空襲のときの様子を繰り返し聞かされながら、

大きくなりました。

 

30歳で故郷を離れ、歌手としてデビューするも、なかなかメジャーになれません。全国各地でオリジナルコンサートをしながら、フォークソングの原点である“ラブ&ピース”をテーマにした歌を作りたいとずっと思っていたそうです。そして、被爆者の方と知り合い、平和の歌を作ることになったとき、子どものころ から聞かされてきた富山大空襲と改めて向き合って、今も歌い継がれる『折り鶴』が生まれました。

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今日、もう一曲歌っていただいたのは、東日本大震災の被災地、福島県楢葉町との交流の中で作られた『望郷』。司平さんの歌は、弱い人、苦しみにある人たちのそばで生まれ、癒しと励ましを与えています。

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番組でもご紹介いただきましたが、司平さんのファンの方たちは、コンサートのあとに書くアンケートの内容が濃いんです!学校コンサートでの小学生の率直な 感想にも驚かされましたが、多くの人が、ご自分の人生や生き方を司平さんの歌に重ね、明日へ、未来へ生きる力にしていることがわかります。そして、その1 枚1枚を大切にしている司平さん。

売れたほうが、多くの人に歌を聴いてもらえるからもちろん良いのだけれど、でも、ご著書のタイトル『売れない歌手でよかった』ではありませんが、こうして人々の思いを近くで感じて、くみ上げることのできることを幸せに思っている司平さんでした。

引用おわり

 

ラジオ深夜便に登場してから11年余り。久々に90分のラジオ番組に登場されました。

彼の一途な営みに感謝して、この一年を終えることを幸せに感じております。

皆様のご健康をお祈り申し上げます。

http://www005.upp.so-net.ne.jp/pulana/

 

 

『僕を支えた母の言葉』

僕が3歳のとき父が亡くなり

その後は母が女手ひとつで僕を育ててくれた

仕事から帰ってきた母は 疲れた顔も見せずに

晩ごはんをつくり 晩ごはんを食べた後は内職をした

毎晩遅くまでやっていた

母が頑張ってくれていることはよくわかっていた

だけど僕には不満もいっぱいあった

僕が学校から帰ってきても家には誰もいない

夜は夜で母は遅くまで内職

そんなに働いているのにわが家は裕福じゃなかった

遊園地にも連れて行ってもらえない

ゲームセンターで遊ぶだけの小遣いももらえない

テレビが壊れた時も半年間 

買ってもらえなかった

僕はいつしか母にきつく当たるようになった

「おい」とか 「うるせー」とか なまいきな言葉を吐いた

「ばばあ」と 呼んだこともあった

それでも母はこんな僕のために頑張って働いてくれた

そして僕にはいつもやさしかった

小学校6年のときはじめて運動会にきてくれた

運動神経が鈍い僕はかけっこでビリだった

悔しかった

家に帰って母はこう言った

「かけっこの順番なんて気にしなくていい

おまえは素晴らしいんだから

だけど僕の悔しさはちっともおさまらなかった

僕は学校の勉強も苦手だった

成績も最悪 自分でも劣等感を感じていた

だけど母はテストの点や通知表を見るたび、やっぱりこう言った

「大丈夫 おまえは素晴らしいんだから」

僕にはなんの説得力も感じられなかった

母に食ってかかったこともあった

「何が素晴らしいんだよ!?どうせ俺はダメな人間だよ」

それでも母は自信満々の笑顔で言った

「いつかわかる時が来るよ

おまえは素晴らしいんだから

僕は中学2年生になったころから 仲間たちとタバコを吸うようになった

万引きもした 他の学校の生徒とケンカもした

母は何度も学校や警察に呼び出された いつも頭を下げて

「ご迷惑をかけて申し訳ありません」 と 

あやまっていた

ある日のこと 僕は校内でちょっとした事件を起こした

母は仕事を抜けて学校にやって来て いつものようにあやまった

教頭先生が言った

「お子さんがこんなに”悪い子”になったのは

ご家庭にも原因があるのではないでしょうか」

その瞬間 母の表情が変わった

母は明らかに怒った眼で教頭先生をにらみつけ

きっぱりと言った「この子は悪い子ではありません」

その迫力に驚いた教頭先生は言葉を失った

母は続けた

「この子のやったことは間違っています

親の私にも責任があります

ですがこの子は悪い子ではありません」

僕は思いきりビンタをくらったような そんな衝撃を受けた

僕はわいてくる涙を抑えるのに必死だった

母はこんな僕のことを

本当に素晴らしい人間だと 思っていれくれていたんだ・・・

あとで隠れてひとりで泣いた

翌日から僕はタバコをやめた

万引きもやめた 仲間たちからも抜けた

その後 中学校を卒業した僕は高校に入ったが

肌が合わなくて中退した

そして仕事に就いた

そのときも母はこう言ってくれた

「大丈夫 お前は素晴らしいんだから」

僕は心に誓った

「これから僕が頑張って お母さんに楽をしてもらうぞ」

だけどなかなか仕事を 覚えられなくてよく怒鳴られた

「何度同じ事を言わせるんだ!」 「すこしは頭を働かせろ!」

「おまえはほんとうにダメなやつだな!」

怒鳴られるたびに落ち込んだけど

そんなとき 僕の心には母の声が聞こえてきた

「大丈夫 おまえは素晴らしいんだから」

この言葉を何度もかみしめた

そうすると 元気がわいてきた 勇気もわいてきた

「いつかきっと 僕自身の素晴らしさを証明して お母さんに見せたい」

そう考えると僕はどこまでも頑張れた

仕事を始めて半年くらい経ったときのことだ

仕事を終えて帰ろうとしていたら 社長がとんできて言った

「お母さんが事故にあわれたそうだ すぐに病院に行きなさい」

病院に着いたとき 母の顔には白い布がかかっていた

僕はわけがわからなくて 何度も 「おかあさん!」

と叫びながら ただただ 泣き続けた

僕のために 身を粉にして働いてくれた母

縫いものの内職をしているときの 母の丸くなった背中を思い出した

母は何を楽しみにして 頑張ってくれてたんだろう?

これから親孝行できると思っていたのに

これから楽させてあげられると思っていたのに

葬式のあとで親戚から聞いた

母が実の母でなかったことを

実母は僕を産んだときに亡くなったらしい

母はそのことを いつか僕に言うつもりだったんだろう

もしそうなったら僕はこう伝えたかった

「血はつながっていなくても お母さんは僕のお母さんだよ」

あれから月日が流れ僕は35歳になった

今あらためて母にメッセージを送りたい

お母さん 僕とは血がつながっていなかったんだね

そんな僕のためにお母さんは 昼も夜も働いてくれたね

そして お母さんはいつも言ってくれた

「おまえは素晴らしいんだから」 って

その言葉が どんなに僕を救ってくれたか

どんなに僕を支えてくれたか

あれから僕なりに成長し     

今は結婚して子どももいるよ

規模は小さいけど会社の社長になって

社員たちと楽しくやっているよ      

まだまだ未熟な僕だけど 僕なりに成長してきたと思う

その成長した姿をお母さんに見せたかったよ

「おまえは素晴らしい」 って言ってくれたお母さん

その言葉は間違っていなかった っていう証拠を見せたかった

そしてそれを見せられないことが 残念でならなかった

だけど最近気づいたんだ     

お母さんは最初から 僕の素晴らしさを見てくれてたんだよね

証拠なんてなくても 心の目でちゃんと見てくれてたんだよね

だって、 お母さんが 「おまえは素晴らしいんだから」

って言うときは まったく迷いがなかったから

お母さんの顔は確信に満ちていたから 僕も今 

社員たちと接していて

ついついその社員の悪いところばかりに 目が行ってしまうことがある

ついつい怒鳴ってしまうこともある

だけどお母さんの言葉を思い出して 心の目で

その社員の素晴らしさを 見直すようにしているんだ

そして心を込めて言うようにしている

「きみは素晴らしい」 って

おかげで社員たちともいい関係を築け 楽しく仕事をしているよ

これもお母さんのおかげです

お母さん 血はつながっていなくても

僕の本当のお母さん

ありがとう

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敬具

絶好調!シルバーせん!!

月曜日, 12月 22nd, 2014

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ますます絶好調!「シルバー川柳」

2が欠番で、4に飛んでいます。

毎年、これが公募されて14回にもなるんだそうです。

サラリーマン川柳は有名ですね。

今も、しっかり胸に刻まれています。

『まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる』

これは傑作中の傑作ですね。

では、お披露目です。

 

● 粗大ゴミ そう言う妻は 不燃物

● 遺産分け 位牌受け取る 人はなし

● 補聴器を はめた途端に 嫁、無口

● 素っぴんに 隣の犬が 後退(あとず)さり

● 鏡観て 懐かしくなる 母の顔

● ケアマネを もてなしあとで 寝込む祖母

● 元酒豪 今はシラフで 千鳥足

● 新聞を 電車で読むのは オレ一人

● LED 絶対見てやる 切れるとこ

● いびるなら 遺言書きかえ 倍返し

● 妻乱心 オレにもほしい 自衛権

● 円満の 秘訣は会話を しないこと

● つまずいて 足元見れば 何もなし

● 老いるとは こういうことか 老いて知る

● 脳ボケに STOP細胞 ないかしら

● 年令を 聞かれるたびに 若返り

● 「出来たわよ」 呼ばれて行ったら 犬だった

● ラストシーン やっと気が付く 見たドラマ

● ディケアで スマホあやつり ヒーローに

● 気持ちより 日持ちが大事 老いの恋

● 起きてから する事がない 休診日

● フラダンス ぷんぷん匂う 湿布薬

● 誰にでも あると思うな 金と髪

● 「死んでるの?」 ひ孫地近づく ババ昼寝

● 自慢した 高台もはや 恨めしい

● 「オイ、ほら、アレ」 聞き返さない 妻天才

● 昔家 今斎場の チラシ見る

● 孝行を され書き直す 遺言書

● 生きている だけで良いのと 言われても

● 定年後 さわらぬ神に 昇進し

● お若けぇーの 席ゆずるから ゲンキ出せ

● 青信号 渡りきれたら まだ若い

● 口喧嘩 しても手をかす 貼り薬

● ガス消した 電気も消した カギがない

● 今日にでも 死にたい人が 鰻丼

● 俺だって 蚊帳と網戸の ネット世代

 

「ロ・ウ・カしたの?」

土曜日, 12月 20th, 2014

「あら、専務、シャープ!」と、

事務所で、誰かが叫んだので、何事かあったのかと見てみると、

工藤さんが家内にナチュラル・ヘナを施していた。

見たことがない顔で、ちょっと、ビックリ!

いつも、山から長靴を履き、薄汚いなりをして、

店内をうろうろすると、お客様が怪訝な顔をして、

(「どこのおばあさん、この人!!」)と思われているのが、

よく分かるらしく、本当に山仕事は、人を老けさせるものだ。

ことに、紫外線に長く当ると、肌が黒ずみメラニン色素が沈着して

一生、取れなくなるという。

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自然のなかで仕事する農家の奥さんが、意外と老化が早いという統計がある。

自然に帰れば美しくなると思って、若くして入植した女性が、30年経って、

同窓会に出席したとき、同級生との余りのフケの違いに愕然とした

という記事を読んだことがあった。

自然と言うものはある意味、過酷で残酷で、

逆に、歳相応より若く見えるというのは、

人工的に何かを施さなければ、輝かないのかもしれない。

しかし、何より、心の問題もあるだろう。

積極的に、外に向かって意欲的に働き、内に向けて静かに沈潜する。

やはり、その人の生き方、躍動感というものが、若さを決めるのだろう。

そういう意味では、定年60歳、65歳は、随分むごたらしいように思うのだが。

これから、と言う時に、という気がする。

経験を生かして、もっと会社や国に貢献できて、社会が向上するのではないか。

シルバーこそ、国の宝だと、信じる。

今、事務所は「シルバー川柳」を読んで、笑い転げている。

でも、身につまされる句ばかりで、笑ってばかりいられない。

家内も髪を染め、川柳に大笑いである。

それにしても、3月頃から12月初めまで、一日の休みもなく

早朝から畑に出て、野良仕事をして、男共を束ねて

自然と共に息をして、山坂で足腰を鍛えて来た彼女は、

意気軒昂で、疲れを知らず、益々元気で明るく前向きである。

老いを知らず、もしかしたら死なないんでないか、

と思うほど、心身ともにタフである。

30年の中で、今一番輝いているのではないかと思う。

それに比し、デスクワークの多い私は、

「・・・・・薄毛粧」になりつつある昨今である。

 

「シルバー川柳」第二弾!!

土曜日, 12月 20th, 2014

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また、今朝市場で、米内さんの奥様が、

「また、買って来たわよ!」と、コロコロと笑って、

第二弾を貸して下さいました。

事務所では、みんな第一弾を読んで、笑い転げていましたので、

ついでにまたまた、この師走の忙しい中で、写してしまいました。

日野原大先生も、ご推薦なので、まぁイッか!!

● ケータイの 返事をしようと 葉書出し

● 美しく 老いよと無理な ことを言う

● 注目を 一身に受け 餅食べる

● 五十年 かかって鍋と 蓋が合う

● アイドルの 還暦を見て 老を知る

● 老人会 ハイカイ王子が また一人

● 手おくれの 人で混み合う 美人の湯

● 立ち上がれ 日本じゃなくて 足と腰

● 突然に 医者がやさしく なる不安

● オレオレの 詐欺もお手上げ 遠い耳

● ああくやし 夫の名前が でてこない

● もう限界 解散しようと 妻がいう

● 目ん玉も はずしてみせてと せがまれる

● 祖父と祖母 ツッコミなしの ダブルボケ

● これからは 超敬老の 日がいるな

● さびしくて 振り込め犯と 長電話

● 食っちゃ寝て ブタならとっくに 出荷済み

● つまずいた ふと見た床に 段差なし

● 脳の皺 顔に出てると 孫が褒め

● 厚化粧 笑う亭主は 薄毛症

● 新党も 肩書き取れば 老人会

● オーイお茶 ハーイと缶を 転がされ

● 老後にと 汗した家に 一人棲む

● 妬ましや 妻の犬への 言葉がけ

● その昔 恐竜見たかと 問うひ孫

● 定年で 田舎に帰れば まだ若手

「人間は不可能を可能にできる」

日曜日, 6月 29th, 2014

塩見志満子(のらねこ学かん代表)

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※『致知』2014年7月号
特集「自分の花を咲かせる」より

└─────────────────────────┘

――塩見さんはもともと学校の先生でいらしたのですね。

はい。だけど、私は本当は
「おまえは先生にはなれん」と言われていた人間なんです。

生まれたのは愛媛の農家で、
よく生きておられたなと思うほどの貧乏でした。

6人きょうだいの4番目で

「この貧乏な百姓だけは嫌だ。
何としても働いて大学に行きたい」

とずっと思っていました。

それで高校を卒業する時、担任の先生に

「先生のような国語の教師になりたいです」

と言うたら、即座に

「なれん。おまえのところは
貧乏だから大学には行けん」と。

昭和30年の話です。

その先生は続けて、

「それでもどうしても教師になりたかったら短大へ行け。
いま女性の体育教師が不足しとるから、
その資格が取れるかもしれん。
そして愛媛に戻ってきて、わしと一緒に教員をやろうや」

と言ってくださいました。

でもね、私は学校の授業で一番苦手なのが体育だったんです。

「先生、こらえて」と言いましたら

「そんな贅沢を言いよったら、教員になれんぞ。
百姓して貧乏に耐えるのか」

と言われて、
東京の日本女子体育短期大学(現在の日本女子体育大学)を受験しました。
幸いに合格できましたけど。

――学費はどうされたのですか。

私の思いを知った船員の兄が
入学金を用立ててくれたんです。

授業料は近くの映画撮影所でエキストラのアルバイトをしたり、
寮の掃除や炊事の手伝いをして納めたのですが、
とても払いきれずに、後に東京で体育の教師をした1年半でようやく完納しました。

――苦手だった体育は克服されたのですか。

短大に入った1年目は

「荷物をまとめて帰りなさい。
あなたはここにおっても卒業できん」

と何回も言われました。

だけど、不可能は可能になるものなんですよ。

「負けてなるか」と思って毎朝4時に起きて6時までの2時間、
誰もいない体育館でバレーボールやバスケットボール、跳び箱などの練習をしました。

そうしたら6か月後には皆から褒められる学生になったんです(笑)。

その時、心の支えになっていたのは
短大進学を勧めてくださった高校の担任の先生の言葉です。

先生はおっしゃいました。

「わしは30年間教員をしてきたけれども、
得意な教科の教員になると、苦手な生徒の心が見えん。
苦手な教科の教員になると、苦手な者の気持ちが分かる。
そうするとクラスの生徒は、皆おまえの授業が好きになるじゃろう。
騙されたと思ってそうしてみい」と。

――それで、卒業後は東京で体育の教師に。

短大2年で中学校の教育実習に行った時、
その校長先生が

「どうか東京におって、
ここの教員になってくれ」

とおっしゃいましてね。

僅か2週間教育実習をしただけで

「先生、私は何も実技ができません」

と言ったんですけど

「おまえはここに必要とされている人間だ」と。

――よほど気に入られたのでしょうね。

いまでは考えられませんが、学校がある世田谷の田園調布は
ものすごく貧富の差が激しいところでした。

毎朝、車で送迎される子と、橋の下に住んでいるような子の両方が
同じ中学校に通っていたんです。

私は貧しい子供たちのために、
毎日おにぎりを握っていっては

「食べなさい。
私も同じように貧乏だったよ」

と手渡していた。

それをどこかで校長先生が
ご覧になったのかもしれませんね。

* * *

その後、最愛の息子を事故で突然亡くし、
さらに人生のパートナーであった
ご主人も交通事故で他界。

塩見さんはその絶望的な状況をいかにして乗り越え、
いまも前を向いて歩き続けているのか。

塩見さんが語った「人生で大事な心構え」とは――。

……この続きは『致知』7月号インタビューP50~54をご一読ください。

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「お母さん」の言葉の由来とは?

土曜日, 3月 8th, 2014

境野勝悟(東洋思想家)

※『日本のこころの教育』より

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僕が小学校の一年のときのある日、
「ただいま」って家に帰ると、
お母さんがいないときがありました。

お父さんに、「お母さんどうしたの?」と聞くと、
「稲刈りで実家へ手伝いに行ったよ」と言う。

そして、

「きょうはお母さんがいないから、
おれが温かいうどんをつくってやる」

と言って、親父がうどんをつくってくれました。

ところが、温かいうどんのはずなのに、
お父さんのつくったうどんはなぜか冷やっこいんです。

一方、「ただいま」と家に帰って
お母さんがいるときは僕はいつでも
「お母さん、何かないの?」と聞きました。

すると、母は

「おまえは人の顔さえ見れば食い物のことばっかり言って、
食いしん坊だね。そこに、ほら、芋があるよ」

って言う。

そういうときは決まって、
きのうふかしたさつま芋が
目ざるの中に入っていました。

かかっているふきんを取ると、
芋はいつもひゃーッと冷たいんです。

だけれども、お母さんのそばで食う芋は
不思議に温かかった。

これは、もしかすると
女性には理解できないかもしれないけれども、
男性にはわかってもらえると思います。

お母さんが家にいると
黙っていても明るいのです。
あたたかいのです。

それで、わたくしたち男は自分の妻に対して、
「日身(カミ)」に「さん」をつけて
「日身(カミ))さん」と言ったんです。

丁寧なところでは、これに「お」をつけて
「お日身(カミ)さん」といったんですよ。

何でしょうか。

この「日身(カミ)」という意味は?

「カ」は古い言葉では「カカ」といいました。
もっと古い言葉では「カアカア」といった。
さらに古い言葉では「カッカッ」といったんです。

「カカ」「カアカア」「カッカッ」
これが「カ」となるんですね。

「ミ」というのは、
わたくしたちの身体という意味です。

ですから、「日身(カミ)」とは、
わたくしたちの身体は
「カカ」の身体である、
「カアカア」の身体である、
「カッカッ」の身体であるという意味なんです。

では、「カカ」「カアカア」「カッカッ」という音は、
古代では一体何を意味したのでしょうか。

「カッカッ」というのは、
太陽が燃えている様子を表す擬態語でした。

「カッカッ」とは、実は太陽のことを指したのですね。
「カアカア」「カカ」という音も同様です。

つまり、わたくしたちの体、わたくしたちの命は
太陽の命の身体であるということを、
「日身(カミ)」(太陽の身体)と言ったんです。

「カミ」の「カ」に「日」という漢字が
当てられているのを見れば、
「カ」が太陽のことを意味している
ということがわかるでしょう。

「日身(カミ)」とは、
太陽の体、太陽の身体という意味だったのです。

お母さんはいつも明るくて、あたたかくて、
しかも朝、昼、晩、と食事をつくってくださって、
わたくしたちの生命を育ててくださいます。
わたくしたちの身体を産んでくださいます。

母親というのはわたくしたちを産み、
その上私たちを育ててくれます。

母親は太陽さんのような恵みの力によって
わたくしたちを世話してくれる。

母親はまさに太陽さんそのものだということから、
母親のことをむかしは
「お日身(カミ)さん」といったのです。

日本の偉人・塙保己一の生涯

土曜日, 2月 1st, 2014

「ヘレン・ケラーが尊敬した 

日本の偉人・塙保己一の生涯」

         
※『致知』2014年2月号
特集「一意専心」総リードより

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塙保己一は延享3(1746)年、
武蔵国児玉郡保木野(現・埼玉県本庄市)に生まれた。

生家は裕福な農家だったが、
5歳の時、思いがけない病魔に襲われる。

目が次第に光を失っていったのだ。

母・きよは保己一を背負い、
片道8キロの道を一日も欠かさず
藤岡(現・群馬県藤岡市)の医師のもとに
通い続けた。

なんとしても我が子の目を
治したい一念だった。

しかし、保己一は7歳で
完全に失明した。

さらに、12歳で最愛の母が
亡くなってしまう。

保己一は杖を頼りに毎日墓地に行き、
母の墓石に向かって泣き続けた。

涙の中で一つの決意が生まれた。

江戸に出て学問で身を立てよう。

保己一は耳にしたことは
すべて記憶するほどの
抜群の記憶力の持ち主だったのである。

保己一の情熱は父を動かした。

絹商人に手を引かれ、
保己一は江戸に旅立つ。
15歳だった。

江戸時代、盲人の進む道は限られていた。
検校(けんぎょう)という役職者に
率いられた盲人一座に入り、

按摩(あんま)や鍼灸(しんきゅう)の修業をする、
琵琶や三味線の芸能に勤しむ、
あるいは座頭金という金貸しの知識を学ぶ、

などして世渡りの技能を身につけ、
互いに助け合って生活していく
仕組みになっていた。

選べる職業はそれだけだった。

保己一もまた雨富須賀一検校の
盲人一座に入門した。

だが、保己一の望みは学問である。

悶々とした日々が続き、
思い切って師匠の雨富検校に本心を明かす。

「私は学問がしたいのです」。

破門覚悟の告白だった。

保己一の幸運はこの雨富検校に
出会ったことだった。

「人間、本心からやりたいことに
打ち込むのは結構なことだ」

と検校はいい、
学問することを許されたのである。

保己一の目覚ましい研鑽が始まる。

目が見えない保己一は
誰かに本を読んでもらうしかない。

全身を耳にし、
耳にしたことはすべて身につけていく。

盲目の身で学問に励む少年がいる、
とたちまち江戸の町の評判になった。

* * *

その後、保己一はいかにして
大学者への道を切り拓いていくのか。

その人生からいまを生きる私たちが
学ぶべきものとは――。

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