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2007年02月05日

●無為と有為の狭間で

福岡先生と矢島さん2.jpg

3日(土)に、東京から矢島三枝子女史が来店された。
用件は、京都大学・自然農法研究会の将積さんの
「福岡正信研究論文」の取材を
来道のついでに依頼された、とか。

勿論、初対面なのだが、矢島さんは
以前、福岡さんと一緒に海外に渡り、
通訳のボランテイアをして、「粘土団子」の
普及をお手伝いされていた、という。

話は、福岡さんとの出会いや
これまでの経緯についてのインタヴューであった。

福岡先生と矢島さん.jpg
(福岡自然農園産の晩柑の前にて)


改めて思ったことは、あれからもう
25年以上の月日が流れた、感慨であった。
20代で読んだ『わら一本の革命』。
これによって、自己変革の火を、内に起こした青年が
世界中の至る所に輩出した。

60年代後半から70年代にかけての学生運動がうねった後の虚脱感から
農に走った人や、自然に回帰しようとした若者が少なからずいた。

私は、別な意味で、内的な流浪の果てに自然農法に辿り着いた。
それまでの一切をかなぐり捨てて、翁の山に入ろうとした。

しかし、83年から山を閉鎖して、青年達の受け入れを拒否されていた。
それが、私の運命の分かれ道だったように思う。

私としては、脱俗して農に聖なる道を求めようとした。
しかし、天はそれを許さなかった。
むしろ、全く反対の俗なる商いの道を選ぶ事を強いられた。

その当時の自分は、半ば絶望と悲嘆の中にあった。
しかし、それ以前の15年と、それ以後の22年の、
観念と実践の中で、天が
明らかに見せてくれたものがあった。

人情機微の中にも、自然微妙の世界があり、
世俗凡塵の底にも、神仏の風光が輝いている
という気付きだった。

これは、自然の中では分からなかった真実であり、
また、世間の中だけでも理解出来なかった事実であった。

翁の「無為自然」は、「有為自然」の中でなければ、
姿を現すことはなかった。

何故、この世があり、この人があり、
何故、物があり、生活があり、苦悩があるのか。

人の世の悲しみや哀れ。
それを知ることなしに仏の慈悲も
身をもって心に染みわたることもなかろう。

泥に塗れてこそ、
蓮の白さの意味が、
一際、尊くもなる。

悟ってから入俗する道が、かつてあったかもしれないが、
迷いに迷って、出俗するほうは、反って味わい深い。

為すことも、為さざることも、
過ぎ去れば彼方。
自然も、また人工も、
極むれば同じ。

一字の水茎の跡にも、真如が
如意自然(じねん)として、躍り出ることさえある。

地獄も極楽も、
何でもありのまほろば。

ここでの多くの人々との出会い、
自家農園での営み、
オリジナルを創造すること、
商売の儲けるという意味、
取引という駆け引き、
働くということ、
人を使うということ、
お客様とのやりとりの心遣い、
さまざまなアクシデント、
いろいろな対応、
・・・・・・・・・
聖と俗、欲と無欲・・・
混沌として宇宙のよう。

ありてあり過ぎる事々、
働けど働けど働き足らざる仕事。
小さいながら、
世界と自然の縮図が詰まっている。

野菜や魚や食品を見抜く眼力が養われ、
それを通して自然の奥を垣間見る。

詰まるところ、
無為というも
自然というも、
我が心の中にあることを知る。

自然の中に身をおいても、自然が見えぬことも・・・。
世間の中に心をおいても、世間が見えぬことも・・・。

共に行き来して、
重ねて苦労して、
最後に、無為も有為も
渾然と溶け合う時節を知る。

人の悲しみに涙せぬ人の
自然は寂しい。
自然の理(ことわり)に感ぜぬものは、
人の何故生まれて来たかの秘密は明かされぬだろう。

自然といって、自然にとらわれず、
世俗といって、世俗もまた愉しみ、
どちらも、どちらでもなく、
悠々と適々と
生きて
この世を去りたいものだ。

今冬の、
店先には、
相も変わらず、
翁のみかんが、
静かに置いてある。


福岡先生と私.jpg
91年、福岡自然農園の粘土団子講習会にて、若かったな・・・・)

コメント

社長も・・・大人になったのですねぇ〜・・・。

チョコレート・SARAHを頂きました。もともと期待してはいたものの、ただの味の良さや心地よさを超越した深遠さに衝撃を受けました。口に入れた瞬間、何かしらのメロディーを奏でられている!という実感が起こったのです。いくつもの味わいが、調和を保って変幻しつつ響きあっているようなイメージです。
一人静かな環境で目を閉じて味わってみるとこんな感覚に浸りました。
真実の食べ物はこんなにも心に迫るものなんですね。

さて、チョコ革命の項にこんなコメントを載せさせて頂きましたが、まほろばのチョコを食べるだけでこんな精神の感慨に耽る人間も居ります。思うに社長さんは、周囲の人間に自然と精神世界の架け橋を提供して下さっている方なのかも…と思ってしまいますが、ご自分の存在が他者にいかほどの影響と感動を生んでいるか、どう考えていらっしゃるのでしょう。それは大変なものだと思いますよ。
社長がかつて自然に回帰できなかったのは、自然のみならず精神世界の方にも任があったためかもしれませんね。精神世界には自然と世俗の境界がないような気がいたしますから。

「有為」と「無為」、「聖」と「俗」ですか・・・。
社長のブログを拝見して定めて考えますのは、
これらはみんな「言葉」なんだな〜っと言うことです。
それがいかに聖なる体験であっても、
体験を回想していると言うことは
それは既に「言葉」であって事実ではないでと言うことすね。
願望や自分の価値観の投影とでも言いましょうか・・・。

「言葉」から直覚へ。
その橋渡しをしてくれるのが直感なのかもしれませんね。
Trinity、三位一体、神と神の子と精霊・・・。
「私」の介在しない行為  無私の行為。
もちろんこのような状態で居続けることは不可能です。
しかしそのような方向へ日々努力していくのが、
発達した大脳を有する人間の宿命なのかもしれませんねん。
感受性や直感の錬磨と言いますか・・・。
勉強になりました。


 SARAHいただきました
 ・・・上品で繊細・・・
 ・・・「祈り」のようなチョコレートですね。

 今年のおみくじにこんな言葉がありました。

『自然にある物には自から霊がある。造られた物には人の力と魂がこもって居る。いや物悉く心があり、神の光が輝いている・・・』と・・

 SARAHに携わられきた方々が、自然から頂いた恵みに、其々の「チカラ」と「魂のオモヒ」の魔法をかけて、この「祈り」のようなSARAHが産まれたのですね・・・

 カタチなきそのこめられた思いや祈りも五感を超えて心に届くから、「美味しい〜♪」だけでは表現できない美味しさなのですね。

 その喜びと幸せをかみしめつつ・・ありがたくいただきま〜す♪
 

遠くを見つめ
心は過去を振り返り
ゆらぎの中で何かを探しているのでしょうか?
暫くパソコンを開きませんでしたが
今年のお話は随分と考えさせられるものばかり・・・・
そっと自分の心と行為に照らし合わせて
自分の現在地を問うてみる。
どれもこれも自身の確認事項となる。
マヤ暦では、今年私は52年の周期を一旦閉じ、新に53歳の出発をする事になっているのですが、本当にタイミングのよいブログの始まりに感謝。
この52年間を振り返るのに最高の参考書です。


しごく同感ですが、そこまで客観的に世俗に居て世俗で捉われぬ生き方が出来て羨ましいです。
素晴らしい悟りの境地ですね。

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