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2006年12月29日

●年賀のこと、一葉のこと

たけくらべ.jpgたけくらべ・書稿


大晦日。
これを、「おおつもごり」と読ませた
樋口一葉の小説があった。
年の瀬も押し迫って、
後三日ばかりを残すところとなった。

まほろばにとっても、
この三日が山場で、
正に、新旧の書き入れ時なのだ。

そんな店に気持ちを集中するのに、
心残りが、年賀状書きだった。

とうとう、今朝まで
年甲斐もなく、
夜なべをしてしまった。
今、この記を書いているが、
頭がボーとしている。

当世、パソコンの普及で、
誰もが、簡単に打ち込みと印刷が
可能になって、
仕事がすこぶるはかどるのは、
有難い。

しかし、年に一度の挨拶は、
住所書きだけでも、
自筆との思いで、
一気に500枚以上
書き続けた。

一夜で、事を片付けたので
気持ちが清々したのだが、
書きながら、
一人の方のはがきが
心にかかった。

それは、今年から
年賀を止めるので、
その挨拶を、
というものだった。

最近、虚礼を廃止する
という動きが少なからずある。
実際、書きながら、
会社間のあいさつは、
言葉の金釘流とも言うべく、
形だけのものになっていて、
全国のその数たるや、
億兆枚ではなかろうか。

既に取引のない所や
思い出せない人や、
それが、結構の数に上る。

はっきり言って、
これは、無駄であるし、
心が伴わない。

ECOの側面から見ると、
紙・印刷の消費、
集配人の労力など
経費の節減や
環境に負荷を
掛けない事を考えると、
これは一考を要すべきものではなかろうか。

しかし、一方、
しばらく会っていない友や知人、
お世話になった師や先輩の
居所や消息を、
はがき一枚で毎年確かめられる
良さも捨て難い。

また、ゆったりとした
正月気分の中で、
全国からの
創意工夫された絵柄や文面を
読むのも、一つの愉しみでもある。

こんなことを書いてしまったら、
折角の虚礼廃止の勢いも
志半ばで折れてしまいそうだ。

だが、極端に止めないまでも、
毎年数を絞って減らして行き、
どうしてもという方のみを、
残して行くことが、
あらゆる資源を枯渇させない
一つの勇気ある選択だと思うのだが。

来年は、私も
それに取り組んでみようと思った。


一葉  手紙1.jpg


それにしても、
手紙を書きながら、何時も心にかかるのが、
最初、出て来た一葉の事であった。

彼女の筆致の美しさは、
単なる上手いカナ書家の類いではないことだ。
それは、
文が彼女の生活から滲み出た
つれづれであり、
息遣いであり、
肉声であったことによる。

筆遣いの活き活きした様は、
型の借り物ではなく、
まさに心の活写であった。

ことに、小説の師、
半井(なからい)桃水への
恋文は
たぎる乙女の心情が溢れ出た
古今の絶品であろう。

私が、最も惹かれるのは、
形が、心と
一緒に存在している。
芸術が、生活から
生まれ出ている点だ。


いずれにせよ、
心の伴う音信は、
数ではない。


一葉  手紙2.jpg一葉から桃水への書簡

コメント

今年もまほろばさんにお世話になった。まほろばさんに食べさせていただいた。今年も倒れず乗り切れたのは、食のお陰と感謝している。
年賀状は、本来心を込めて書くもの、しかしその時間すら取れないほど忙しくなってしまった現代の年末。スーパーも平常通り営業、お正月も休めない。小さい頃、お店が全部閉まるからといって弟と二人、年末年始分のお菓子を買いに行ったのが懐かしい。子供心にお正月はかなりの一大事なのだと感じていた。年賀状は顔がわかって、本当にご挨拶したい人にだけ出した。まほろばさん今年一年お世話になりました。来年も御活躍に期待しています。

一葉の手紙は同感です。やはり手紙は心が文字に反映されたものだから、相手の心に届くのだと思います。

でも虚礼廃止のこともよく判ります。私も毎年年賀状を頂く方に、ある場所で出会っても向うの方は私と気づかれなかったことがあって、これでは年賀状のやりとりは意味がないのではと思ったことがありました。だからそれから私からは年賀は出さないのですが、でもそれでも毎年頂くので、頂いてしまうと出さないのも悪いかなと思って出してしまうのですが・・・。
難しい問題ですね・・・。

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