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2009年06月16日

●お答えいたします 3、

コメント

少し安心しました、ありがとうございます。
ただ、後ひとつだけ気になることがあります。
それは、牛も豚も、殺される前に涙を流すと知りました。
そして、その負のエネルギー、怨念を食するから良くないと。
お忙しいところ申し訳ないですが、この件に関して、お聞かせください。
宜しくお願いします。
                   Posted by: sin | 2009年06月14日 08:39


お答えいたします U       
                             宮下洋子

この件についても、菜食者の方たちが動物を食べることに
反対する理由の一つになっています。
私も最初、殺生は残酷と考えて、16歳から39歳位まで23年間位、
主人も15年間位菜食でした。

私は、殺される前に牛も豚も涙を流すかどうか、
自分が実際に見たことがないので分かりません。
でも、殺されると分かれば哀しいだろうし、
人間を恨むかどうかは分かりませんが、
大きなストレスを受けることは確かだと思います。
しかし、抵抗すると言う事はないそうです。

一方、植物も刈られたり、収獲されたりする時は、
ある種の毒のある酵素を出すそうです。
時によると、食するものを不妊にするほどの力もあるとか、
死というものに対する感情は、それぞれに表現形態が違うだけで、
動・植物の区別も、また、大小の区別もなく、
生命を絶たれると言うことの厳粛なショックは同じなのではないかと思います。

誰がその軽重を決めることが出来るでしょうか?
生きとし生けるものすべてが、人も含めて、
ひと繋がりの大生命の一部なのですから。

 大切なことは、自らを養うために他の生命体の命を戴くことへの感謝、
必要以上に食べないこと、食べ物をムダにしない事、
そして、戴いた命をムダにしないような生き方をすることではないでしょうか?

アイヌの人たちは、クマを殺した後、鎮魂の儀式をし、感謝して食べました。
これは、私たち文明人が見習うべき、食と言うものに対する
本質的な捉え方であり、本来的なあり方ではないでしょうか。

学校では、作ってくれた生産者の方たちや、
料理をしてくれたお母さんに対する感謝は教えますが、
命を提供して戴くということに対する厳粛で根源的な感謝の念は、
教えていないように思います。

あらゆる生命の犠牲と献身は、私たちが感謝して大切に戴くとき、
善も悪もセンチメンタリズムもない生態系の大きな連関の輪の中で、
大自然の摂理に止揚され、昇華されて行くのではないでしょうか。
それが、生命の木の最終章として位置づけられた
人類の役割であると考えられないでしょうか?

そしてまた、私たちも微生物のエサになり、
分解されて生命の始原的エネルギーとして、リサイクルされて行くのです。

 また、動植物がどのような育てられ方をしたのかによっても、
哀しみのあり方は違うと思います。

出来るだけ自然に、良いエサ(肥料)と生活の場を与えられ、
愛情一杯に育てられた動植物は、哀しみと同時に、
生態系の一翼を担うと言う本能的、直感的な観念を持つと同時に、
人に生まれ変わることに、誇りと喜びさえあるかも知れないと
勝手に考えています。

だから人間は、その命を戴いて、動植物がこの人のもとに
生まれ変われて良かったなと思われるように、
彼らの死をムダにしない生き方をしなければいけないのだと思います。

その事によって、死は死ではなく、新しい命の始まりになるだけでなく、
種の中だけでの閉じられた連関の輪から、生きとし生けるもの
すべて包み込む大生態系の連関の輪の中に喜んで
飛躍していけるのではないでしょうか?

また、犠牲になった動植物の『種の保存』と言うことも大切だと思います。
肉を太らせる為に、人間の都合だけで去勢したり、女性ホルモンを与えたり、
エサ代の節約のために鶏舎にオスを入れないで、
無精卵にしたり、ケージ飼いにしたり、
自家採種しなかったり、こんなに不自然で残酷なことはありません。

動植物は楽しい一生を送ることも出来ないし、
ちゃんと自然な形で子孫を残してあげなければ、
安心して死ぬことも出来ません。
それこそ、恨みの念が残るのではないでしょうか?

添加物や農薬のかかった食べ物は、
添加物や農薬だけが怖いのではありません。
お金さえ儲かれば良いと言う意識で作られたり、
育てられたりするから怖いのです。

そのような意識で育てられた動植物が殺される時、
どのような意識を持つでしょうか?
人間になんか生まれ変わりたくないのではないでしょうか?
そして、それらを食べた人の精神はどのように育っていくのでしょうか?

 前回ご紹介させて頂きました、
まほろばホームページ(健康コラム欄)に掲載されている
自著『人の天食とは』の小冊子にも書いてありますように、
人類はもともと菜食ではありませんでした。
http://www.mahoroba-jp.net/about_mahoroba/tayori/column/column_shoku1.htm

人は食べられるものは何でも食べて生き残ってきたのです。
と言うよりもだからこそ生き残ってきたのです。
そして、火や調味料を使って料理したり、発酵させたりして、
硬い肉や繊維の多い植物など、生では食べられないようなものや、
毒のある物まで食べられるようにして、食べてきました。

この食の複雑高次元な組み合わせと、スケールの大きさが、
人類を進化させて来たのです。
このことが、人と他の動物との違いを作って来たのであり、
人は、豚のように単に雑食動物なのではなく、
料理したり、加工したりする雑食動物なのです。
  
人が菜食をするようになったのは、宗教が出来てからでした。
また、国家と宗教が結びつき、民を治めるための国策としてでした。
 
また、現代では、食品添加物、農薬など、
不自然な食べ物が食べられるようになったり、肉体労働が少なくなったり、
裕福になったりして食べ過ぎるようになり、
人々が代謝障害の病気に罹るようになって、
治病食としての菜食も始まりました。

(それまでは栄養失調の病気が多かったので、
栄養のあるものをあげると治りました。)
 
しかし、栄養過多や、カロリー過多のための治病食を
何時までも続けていると、栄養失調になり、
今度は逆に、それが原因の病気になってしまいます。
そこら辺の切り替えが大切だと思います。

治病食と健康な人の日常食は、区別して考えるべきではないでしょうか?
健康な人の日常食は、できるだけ自然な物を、感謝して、
腹8分目に幅広く何でも食べる事、
そしてよく働く事だと思います。

以上、思いつくままに書いてみました。
また、疑問があれば、どんなことでもお寄せ下さい。
ありがとうございました。

コメント

洋子さん

5月の東京講習会ではお世話になりました。「0-1テストと肉食」につきましては皆さんとても関心の深い問題だと思います。
本日、宮下さんにお電話でご連絡をいたしましたが、mixiの「0-1テスト」コミュニティにも今回の記事をリンクさせていただきました。
丁寧かつ詳細なご回答、ありがとうございました。

非常に貴重な情報ありがとうございました。

強い関心をもって読ませていただきました。

感想としては、今まで自分なりに続けてきた玄米菜食が「食」に関して終着点と考えておりましたので、「目からウロコ」の心境です。
これからも学ばせていただきたいと思います。

ところで、以前から気になっていたことがあるので、この場をお借りして質問させていただきたいと思います。

「肉を食べると攻撃的な考え方と行動を生み出すことがある」や「菜食であれば攻撃的にはならない」と良く耳にしますが、よろしければこの事についもお答え頂けないでしょうか?

よろしく御願い致します。

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