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まほろばだより−折々の書−
 

 

 






 

 

 


 

 

 


「……あの『おしん』より辛かった………」  ポツリと私達孫に、極貧の幼き日を語った亡き祖母。

その「貧しくて、貧しくて・・・・・、どうにもならなかった」という日々。  


 

 

 

どんな所で、どんな時に、どんな風に生活したか否かも、見当がつかない昔話に過ぎなかった。  

その祖母が亡くなって二十年も過ぎ、その微かな語り草を伝えられる父も既にこの世の人ではなかった。  

周りには聞きたくとも知るものが誰も居なくなって初めて、
祖先の暮らし振りに想いを馳せるようになった。


 

 

 

 この、時ならぬ二月末、空は全便欠航、JRは不通続出という荒れ狂う雪の中釧路へ、依頼された「0‐1テスト講習会」に向かった。  

定刻より二時間遅れの電車が到着したプラットホーム、毎朝卸市場に買出しに通う身でもその寒さは骨身に沁みた。
極寒ではないが、マイナス十五度であった。
 
その時、根釧原野の真只中に入り、真冬に生活すると言う事がどういうことか、耳元に祖母のうめき声が聞こえて来たような気がした。  
祖母はこの釧路で生を受けた。  

そして、その父母は、遥か彼方の日本海、山陰鳥取から集団移住で開拓に来た一族だったのだ。
それは、屯田兵制度が敷かれる前夜の事であった。
今、我々が安穏と暮らす日々。  

それは溯れば、先祖の開墾の歴史無くして語れない。  
北海道各地に住まう道民の祖先は等しく、壮絶な労苦を舐めて今日を切り拓いてくれた。
 
まほろばの近くにある琴似地区。
札幌で最初に屯田兵が入植した処女地でもあった。
その琴似神社横の開拓小屋の中に入ると、昼なお暗い室内は、
当時の艱難辛苦を髣髴とさせるに充分である。  

鬱蒼とした原始林を伐採して農地にする。
そのことすら想像を絶する。
人力や馬車馬で耕作する事が、いかに至難であったか。  
だが、そこはさらに東の最果て、厳寒の釧路、
しかも湿地帯での入植だった。  
悲劇は、さらに続いていた。


 講演会の翌日、帰札の前に、鳥取神社に参拝に立ち寄った。

その名の通り、鳥取からの移住民で創建された神社だ。  

十年以上も前になるだろうか、子供達と夏休みに道東旅行した際、ここに立ち寄ったことがあった。

それから月日が経ち、今回初めて入植当時の有様を伝える文献に接し、筆舌に尽し難い記録に、魂が凍えるような想いを抱いた。

その時、子孫に伝えなければならない責務のようなものを感じたのだった。
それは、単に一家族の過去を溯るのではなく、
道内各地に住まう家族の方々の遠くを追う縁(よすが)になれば、
と思ったからだ。


 私の父の祖父母(曽祖父母)は、明治十八年(一八八五年)の今から百二十四年前に、旧鳥取藩士族・開拓移民団の一員として北海道に渡った。

それは、青天の霹靂とも言うべき「明治維新」が、武士を一変させた事に端を発する。  
士農工商の頭からどん底に突き落とされた武士。

明治二年に版籍奉還、同四年に廃藩置県が実施された。
武士の俸禄が、紙切れの金碌公債証書に換えられ、さらに西南戦争で激化したインフレで証書は反古となり、ほとんどが無給・窮乏の淵に立たされた。

日本国内でも、特に鳥取池田藩三十二万石の旧家中は最も貧窮に喘ぎ、学問・芸能・商売に頼らざるをえなかった。
久しく特権の座に甘んじ、農工商に依存していた体質は経済的自立を困難にさせていたのだ。  

祖母の話では、父(曽祖父)は家老で絹の褌をしていたという。
しかし、一旦野に下るや、その世間に処せない体たらく、応変として切り替えせない身を、子供の目からしても歯痒く感じたという。  

所謂、因幡・伯耆の山陰地方は農業を主とし、鳥取城下は、士族が七割を占め、職を求むるも何一つ無かった。  
今の就職難以上に職種なく、日常は切羽詰まり、街中が殺伐とした状態であった。
五分の一は食を欠き、遂に餓死する家は後を絶たなかったという。

更に、追い討ちをかけるように、鳥取県は島根県に統合され、県都は松江に移り、鳥取は辺境に置かれ、それから急速に寂れた。
その政策に訴状する者達が後を絶たなかった。

そこで、士族の困窮救済策として、県令(知事)は帰農移住の授産事業を勧め、北海道移住を提唱した。
政府もこれに賛同し、北海道三県、即ち札幌、函館、根室に命じ、根室がこれに応じて受入れを決定したのだ。  

今にして思えば、「棲めば都」とは言うものの、最果ての道東を選ばざるを得なかったのは、何故か。
更に困窮するとは露も知らず、見果てぬ新天地、楽国楽土を夢見て、離郷を決意した。

「地獄絵図の田舎を二度と踏まずともよし」との覚悟で、残れる者と別れの盃を交わし、前途三千里、賀露の港から、一家総出で旅立ったのだ。


 明治十七年六月士族移住者四十一戸二百人近くが、第一次として今の釧路市街地から北西鳥取地区に向けて移住を開始した。

翌十八年五月十四日、第二陣六十四戸三百人余りが移住し、
合わせて一〇五軒五百十三人の村落が成ったのだ。  

そこの九組九十四番に、祖母の両親、松井武治・キヌが居た。
 
かつて鳥取神社に詣で、その百年記念館に初めて入舘して遺品を見、
その開拓地図に、私の曽祖父の名前を見い出した時は、
「確かに曽祖父は、この地に来たのだ!」という感激に涙したのだった。
そして、子供にも心に刻み付けるべくその旧き名簿と地図を見せた。

しかし、そこは夢見る天国ではなかった。
あれほどまでに離れ難い郷里を捨てた決意が何だったのか、
と悔やみに悔やみ切れない、にっちもさっちも行かない地獄の
同じ奈落がそこに待ち受けていた。


 見渡す限り一望千里の草原と柳。
ハンやタモの巨木が川岸より鬱蒼として生えて昼尚暗い森林。
 
今もって民家がない湿地帯で、
人も棲まない野地だった。  

与えられたバラック作りの家屋。
木造平屋建ての柾葺、壁は四分板を外側に打ち付けた一重の薄い一枚板。
天井板もなく雨露を凌ぐだけの粗末なもの、畳もわずか、筵かゴザを敷いたものだった。  

祖母が述懐していた。
「表の戸も壊れ、筵を垂らして仕切りをした。それが吹きっ晒しの風にあおられ、雪が舞い込み、寒さに身が縮かんで、寒くて、寒くて・・・・・・」と。
赤子や老人はどうやって飢えと寒さを凌いだのだろうか。

冬は流しの水は無論、酒も醤油も飯も凍り付き、鍋のツルを持つと掌に引っ付く。  
朝の掛け布団の上には体の形そのままの霜がついて、
白襟まで凍ってパリパリになった。 

吹雪くと、屋根と壁板の隙間から粉雪が吹き込み、人の頭や肩、膝まで容赦なく真っ白にさせた。
囲炉裏で枯木を焚いても、顔が暖まるだけで、背筋が骨髄まで冷え込み、一通りや二通りの寒さというものではなかった。  

故郷・鳥取では水が凍ること等なく、綿入れや足袋もはく事もなかった、という。
内地の人には想像を絶する寒さに歯を食い縛って、未知の恐怖と激痛を耐えたのだ。
この過酷な環境の激化で、共に連れて来た高祖母はまもなく息絶えてしまった。  

入植して二年後の明治二十年に、村民の子弟のために、鳥取簡易小学校が設立された。  
しかし、その学校に、祖母は行きたくても行けなかった。
家を助けるためにマッチ工場に働きに出たという。
他の家よりも貧困で、その日暮らしで精一杯だったのだ。

後年、曽祖父は、女丈夫な祖母を前にして  
「タツや、おまえに教育さえあれば、鬼に金棒だったのに。
済まぬことをした・・・悔やんでも、悔やみきれない」  
と頭を突いて泣きながら詫びたと言う。


 今でも、札幌から釧路に行くとなれば、一大決心が要る。
ましてや車ともなれば、厳しい日勝峠を越え、六時間以上を走らねばならない。 同じ北海道でも遠いのだ。  

しかも、今で言う北斗地区付近、あの釧路湿原の今なお、泥炭湿地帯で作物の取れない痩せ地。暗渠を掘り、どんな土壌改良を加えても、この百二十年経っても変化のなかった不毛の地だった。
そこに、止む無く送り込まされ、一家は棲んだのだ。  

二年間は最低必要な米、塩、味噌は賃与したが、凶作続きなのにも拘わらず、打ち切られた。
すぐに農作物を作らねば食べて行かれぬ切羽詰まった所にみな立たされていた。  

耕作と共に、すぐに播種。
入植時の五、六月では既に農作業を始めるのに遅いのだ。

馬鈴薯、大根、蕪、蕎麦、大豆、小豆・・・・・・の種を撒いたが出来たものは一家が食べるだけの物。  
しかし、年を跨がずとも、入植のその歳に、天はその牙を剥き出しにした。
阿寒川は氾濫し、苦労の末の農作物はみな泥に埋もれたのだ。

そして、これでもか、これでもかと言うように、来る歳も来る歳も、天の警策は家族を絶望の淵にまで追い込んだ。



そして相次ぐ釧路川の溢水氾濫で、村民は行き場を失った。
こんな過酷な事があろうか。  

さらに、作った所から野兎や野鳥が食い荒らす、同じ物しか作れない連作障害、樹林伐採により風害が増して病虫害が増大、低位泥炭湿地帯で物は腐り易い、もう意欲も削がれ、営農を諦める者も出だした。  

選りによって、かような湿地帯を選んで、何故与えたのだろうか。
もっと豊穣の沃地が他になかったのか。
その後、鳥取から北見、岩見沢、江別など内陸部に入植した組は幸いだった。

何も知らぬ、ましてや今まで鍬も鋤も握った事も起こした事もない者にとって、地の利を得ないことがどんなに辛い事か、はたまた将来を阻まれる事か、今の世にあっても想像に難くない。

 


 しかし、散切り頭に刀なき丸腰だが、先祖代々の武士気質は捨て切れなかった。  
その落ち込む意欲と離散する家族、天を恨み、地を呪う不平不満が横溢する中、それを撥ね退けるものは、唯一武士たらんする矜持、気骨だった。
それはどの藩から来ても、北海道のどの地に渡っても同じ気概ではなかっただろうか。  

自暴自棄に走らぬよう、士気を鼓舞激励して、それを支え合ったのが皇室の繁栄と池田旧藩主の恩徳を偲ぶ「報恩会」の結成だった。  

何故、私があえてここの段を書くかは、日本における国文学が明治期に入って、その頂点に達した事を、彼の漢字大学者・白川静氏が語られていたからだ。
その「報恩会」祝詞の名文、その格調にそれを見る。

 

祝詞

瑞祥靄トシテ朝暾四表ニ光被ス

康時 明治廿七年二月廿一日 

旧藩主池田候列聖ノ御影ヲ拝戴ス

北海溟漠 草奔ノ微臣 茲二謹デ厳儀ヲ調シ敢テ祝ス

恭シク惟ミレバ臣等生ヲ 尚武ノ世ニ亨ケ 剣杖ヲ執テ馬前ニ侍ス 

君恩録澤シ涓活ノ功ヲ樹テズ 感軻常ニ一死ヲ期ス

明治維新大政復古ニ会シ 明治十七年 鋤ヲ北門ノ荒蕪ニ麿ク 農桑実ヲ得

ズシテ穀登ナシ  累年ノ辛酸 且ニ汗血ヲ綴ル 然リ然ト雖ドモ寤寐旧恩ノ

黍ナキヲ忘レズ 赤心 凝結  報恩会ヲ組織シ爾来十年ノ星 霜遙ニ衷誠

ヲ奉ズ  此間漸ク農業緒ニ籍シ茲ニ独歩ノ基礎ヲ立ツ 偶モ 幸シ列代君

影御下賜ノ恩命ニ逢フ  
 

勤而拝戴ス

畴昔  君側ニ奉侍ノ念切ニ迫リ感激感泣措所ナシ   
  
   臣等恐惶謹而祝ス    
    
    北海道釧路郡鳥取村移臣                           
     報恩会々員  


辺境の地にあっても、武士道と古典研鑽の功が、
端々の字訓に顕れて悲嘆に暮れていた日々を、
武士の一分で漸く堅持していたのだ。

 師範農家が国から付いて来たとはいえ、南北の気候風土の違いは作物にも言え、全く栽培法や貯蔵法が異なり、指導するまでには至らず、自分で経験し模索するしか術がなかった。  

土産馬がいても、馬でさえ耕せない土地は、人力で耕す他なかった。
何でも自力で生きるしかなかった。

最早、頼る者なき前途は、
「自給自足」より他に生活の術がなかった。  今も尚、根釧原野の一帯では、稲作はおろか、作物の作付けさえ少ない。
 

当時、主食の米は口に入る事はなかった。  専らじゃが芋を中心に稲黍、菜豆、小豆、南瓜を主食とし、そばやとうきびを貯蔵して厳冬に備え、調味料も自家醸造して、味噌はむろん醤油さえ造らざるを得なかった。  

野兎の肉を食用として、眼前の阿寒川では鮭・鱒が採れ、シシャモは水面が盛り上がるほど獲れた。海は接してはいないが近く、魚介たんぱく質が豊富なのが、唯一救いであり、地の利だった。  

祖母は亡くなるまで、三度の食事に魚を欠かす事がなかった。
兎に角、魚介には目がなかった。
幼い頃からの食生活がそうさせたのだろう。
食べ方には厳しく、一粒のご飯を残しても叩かれた。  

魚もキレイに骨を残して食べ、後はお湯を注いで啜るまで、
食べ物を粗末にさせなかった。  

それは、武家の躾と、貧乏が身に沁みて食べられないことがそうさせたのだ。  

私の自立独歩の負けん気は、祖母から受け継がれたのかもしれない。  

海霧の襲来も多く、日照時間も短く、風勢も強い全くの無人荒蕪の原野を開拓する。  
今もなお、その鳥取地区があるということは、耐えに耐え、忍びに忍んで、血を流し、汗にまみれて、兎にも角にも 先達の誉れを穢せないという精神が、今日の釧路までを繋いで来たのだろう。  

今の鳥取は、釧路の面積の四分の三を占め、人口の半分にも達するまでに至った。 百二十年前の鳥取移民が、現在の釧路の礎を築いたと言っても過言ではなかった。  

まほろばの近くには福井の地名があり、札幌周辺には広島があり、山口もある。
故郷を偲んで同じ足跡を踏んだ日本各地から来た多くの開拓民と屯田兵。

 今の我々は、一人ここにある訳ではない。  
父母がおり、そしてその祖父母がおり、溯れば連々たる祖先が今を生んだ。  
今日在るのは、先祖のこの死闘とも言うべき開墾の歴史があってこそある。 何処に住もうが、それは同じだ。   

今住まうこの家も、遠祖入魂の土地の上なのだ。
各地の道民は、元を辿れば内地、今の本州から渡って来た末裔。  
一人の過去を辿っても、そこには藩をも含めた大きな時代に翻弄された波乱万丈のドラマが錯綜している。  

綿々とイノチが連なっている子孫と祖先は、運命共同体として、今を一緒に生きているのだ。  
これまで、人一倍祖先を敬って来たつもりだったが、本当は何一つ分かっていなかった。


 

 そして、一番忘れてはならないこと。
それが、先住民アイヌのみなさんとのこれからである。  

元より北海道はアイヌの聖地でもある。 お上の命ぜられるまま、先祖は北海道に渡った。 個人では抗し得ず、何も知らぬ事とはいえ、そこを開拓した事は、つまり人の領地を侵した事にもなるのだ。
それは神域を踏みにじった行為でもあった。  

今の開拓され尽くした土地に住まう何も知らない末裔の我々は、先祖への感謝と共に、この先住民への謝罪を代わってしなければならない。
それは、過去を悔いるのではなく、明日への希望を繋ぐこと。
それは共生することではないか。
仲良く生きる事、共に信じ、労わり、愛する事。

アイヌ民族の心の伝統文化、自然への畏敬、仲間の助け合い、それは心の不毛なる今の時代こそ、見習うべき、求められるべき最も大切な生き方と信じる。

 祖母の語り、その記憶する所は、ほんの片言しか自分の中に残ってはいない。  
だが、その一言が如何に広くして深い影響を子孫に与えるかは、今回のことで驚くほど肝に銘じたことだった。  

早逝した祖父の出身地を、祖母から何時も寝物語に聞かされた記憶が、私の古代史をひもとく大きなキーワードになった。  

その一言がなければ、まほろばとエリクサーの秘密も明かされなかったのだ。  
山梨から貧乏のどん底にあった祖父が釧路に辿り着き、鳥取の祖母と、そこで出逢って父が生まれた。

その後も人生の不幸は押し寄せる大波の如く打ち続けた。  
しかし、百年以上にもわたるその悲しい歴史があって、今の私の静かな暮らしがある。


 

 これまで、極めて個人的な話に終始したかもしれない。
しかし、多くの同時代を生きる人々も、同じような背景を負って生きているに違いない。  
実に開拓百年で、日本は見違えるように大きく変わった。
物は確かに溢れるほど豊かになった。  

しかし、心は驚くほど貧しくなったような気がする。  
あれほど、求め渇した物によって、今人が壊れかけているとは、これほど皮肉なことはない。    

世界は今、経済恐慌、戦争勃発、自然破壊等々、真冬の厳寒期に遭遇している。 かつてない、大試練の時代だ。
いかにして、この困難を生き延びられようか。  
それは、先祖が全身全霊を込めた開拓心を、
今再び呼び寄せる事ではなかろうか。
 
これからは、世界再興、自然復興の大荒野を切り拓かねばならない。  
あの厳しくも厳しい時代を生き切った我々の祖先が居る限り、我々にもその血が流れている。
必ずや、この受難を生き切ることが出来る、必ずや出来ると信じたい。

きっと、ご先祖が総出で後押ししてくださる事だろう。  
今の今在るを感謝しよう。  
これから生まれ来る子々孫々の為にも、御先祖と気持ちを一つにして、
この世界の難局を切り開こう。  

そのために歴史があり、そのために未来は用意されている。

 

 

 

 

 

 





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