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まほろばだより−折々の書−

 

 

 

 

 

 


引き続き・・・
 

 

 


 

 

 

開演前、
「照明を消して、スポットを当てても良いですか?」
「いいえ、音が変わりますから」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」  

休憩に入り、窓を閉め切っていて蒸し暑いので、
「窓を開けても良いですか?」
「いいえ、音が変わりますから」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」  


 


戸と窓を閉め切って調律に没頭する。 
 

 

 

チェンバロが、いかに繊細な楽器なのかを物語る一コマ。
わずかな温度・湿度差や騒音雑音で、微妙な音のブレが生じると言う。  

 今日26日は「平均律」「純正律」「ピタゴラス音律」を弾き分けるため、自ら調律するピアニストの『福田直樹さんのチェンバロの夕べ』が開かれた。 フトまほろばに立ち寄った北海道演奏旅行の途中で、俄かに開催する話となったのは、その5日前だった。


ピタゴラス:BC582〜BC496 ピタゴラスの定理で知られる。物事の根源「アルケーは数である」とした。
 当夜、最初に耳にしたのは、「ピタゴラス音律」の神秘的で透明な響きであった。  

2600年前の哲学・天文・数学者ピタゴラスは「音の祖」として、黄金分割から「音程は数比である」ことを発見した。

  モノコードという楽器で、オクターブは1:2、ドレミファソの五度は3:2、ドレミファの四度は4:3と割り出し、初めて音階(ピタゴラス音律/リデイア施法)なるものを作った。
「音階の調和」に宇宙の神秘を感じ、後に「宇宙の調和」や「天体の音楽」にまで発展させたのだった。

 しかし、1オクターブの構成音である全ての十二音を、3:4の定数比で調整した時に、24k(1秒間に24のうなり)を生ずる歪みの現実に、時代の推移と共に衰退して行かざるを得なかった。
 

 

 


モノコード(一弦琴)は、音律を規定するために音程の計測を目的のとした楽器。


  これは、古代ギリシアの平安なる時代には、複雑な和声も多弁なメロディーも不要で、一音以って皆感応していたに違いない。
主に、ピタゴラス教の儀式を荘重にし、天体の神秘を彷彿とさせるものであればよかったのではなかろうか。
 

 

 

 次に「純正律」を弾かれた。
福田さんが特に好まれるギルンベルガーKのそれ。 同じバッハの「平均律クラヴィーア曲集」でも平均律とは全く異なる響きに、誰もが驚かれたのではなかろうか。

 ふくよかで澄んで明るく、心にストレートに伝わる。調べの一つ一つが、開放感を伴って鳴っていた。 それは、東西の音楽の境を越えた所で、響いているかのように思われた。

ドレミの3度、ドレミファソラの6度を重要視し、これをきれいに響かせる純正律は、バッハ以降発展していった。

 
純正律は、世の水面下で静かに拡がりつつある。

 

 

 

 

 
 しかし、この純正律も、24kの歪みを3〜4ヶ所に分散させて調整させなければならなかった。これを、先のピタゴラス音律では調整出来ず、次第に消滅していったのだ

 

 

 

 

平均律と純正律の周波数と比率の比較表

 



 

 

 

そこで登場したのが「平均律」であった。
1オクターブ中のズレ 24kを12で平均して割り、2kずつ分配した。  

こうして何処の音をとっても、安心して聞いていられるようにしたのが「平均律」だった。だが、その2kのズレは濁りとなって耳に残る。
それが、生理的・潜在的に、ズレとなって本能的に違和感を生じてしまうのだ。

 
 

 

 

 だが、リストなどロマン派以降150年前から「平均律」は、急速に普及してしまったのだ。

バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は誤訳で、「平均に響かせる」のではなく「全ての調を気持ちよく響かせる曲集」が正しい翻訳だった。 バッハやモーツアルト、ベートーベンは、未だ純正律の時代だったのだ。


 実際、福田さんが平均律で奏でた同じ曲は、これが同じバッハ?と思われるほどかけ離れたもので、驚かされた。感覚的には、巾が狭いと言うか、楽曲のスケールが小さい印象が耳に残った。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685〜 1750)18世紀に活動したドイツの作曲家で、「近代音楽の父」と称される巨匠。
 
 

 

 

  そして、そこに、ある種、何か馴染めないズレを感じたのは私だけだろうか。
人は不思議なもので、素人でもちょっとした線の歪みや点のズレを指摘する平衡感覚が案外あるものだ。音楽の専門的学習を受けなくても、体全体で音の良劣を、生理的に判断しているのではなかろうか。  

嗜好は人それぞれであろうが、私自身クラッシックは好むも、一歩が中々先に進めないものを以前から感じていた。その原因が、音の歪みにあったのではなかろうかと、思うようになった。

 東西それぞれの音楽性そのものの違いがあるものの、それ以前に悠久な人類史に突如現われた、わずか150年にも満たない平均律が、世界を席捲し、そして大異変を起こしていた、ということを、今日まざまざと知らされたような気がした。
果たして、今日耳にする音楽は、真実私達が望むべき音楽だったのか。或いは、本当に心身を癒すべき健全な音楽だったのか。  

もう一度、原初に立ち返って見る必要があるような気がした。


ヨハン・ゼバスティアン・バッハの代表的鍵盤作品。原題独:Das wohltemperirte Clavier。鍵盤楽器(=クラヴィーア)のための長短24調による48の前奏曲とフーガ


 

 

 

 
当夜、白版を使っての講義。音楽関係者も多く参加。興味深く聴講された。

 私が17歳の時、武満徹氏が作曲した尺八と琵琶とオーケストラのための「ノヴェンバー・ステップス」の初演がニューヨークで大成功を収めたニュースに、興奮したことが昨日のように思われた。  

それまでの日本的メロディーをオーケストレーションするという趣向ではなく、東西の違いを真っ向から対立させ際立たせてぶつけたものだった。
 

 

 


その遭遇が、実に新鮮で劇的で、ことに欧米人には新しい音楽の幕開けのように映ったのだった。

 その前後での話の中で、五線譜面を勉強しようとする琵琶奏者の鶴田錦史さんに、「止めてください、今までのように弾かれて下さい」と武満氏は語ったという。

 

 

 

 


 最近の若手和楽器演奏者に、何故か微妙な音の違い(或いは狂いか)を鋭敏な彼の耳は聞き分けていた。

それは、幼少から平均律を習い、耳に刷り込まれた音感は、途中から日本音楽を学んでも、その音を出せないでいるというある種、耳の悲劇が今蔓延しているという現実だった。
 

 

 

 当夜、幼児期に故斉藤秀雄氏の薫陶を受けられた絶対音感の持ち主・福田氏は、日本音律の中で、ミの音は正しくはミと♭ミの中間にあって、平均律のミでは、どうしても気持ち悪く、受け入れ難いという。

これは、篠笛などの日本楽器で音を取れば、気付くことが出来る。  
それを聴いて「このことではなかろうか」と直感した。

ことに、日本古曲をピアノで演奏したり、歌ったりすると、何故かいつも「違うなー」という印象を持っていた。
これは演奏者や表現法の違いも勿論あるだろうが、実は子供の頃から慣れ親しんでいた子守唄や民謡の音律の微妙な違いが、大きな違和感となって心に残るのではないか、ということだ。
むしろ日本の歌謡曲や演歌は平均律のズレにまで踏み入ることはなく、純正律で足りるので、日本的情感が損なわれずにいる。
実は、そこに大きな落とし穴が、人類史的にあったのではないか、という事に思いを馳せた。  

 世界各地には、各民族、各人種、各地域に固有の独特の音律がある。
ギリシアにはドーリア旋法など、インドにはラーガという複雑な旋法、日本には陰旋法・陽旋法。同じ国内でも琉球旋法やアイヌ旋法もあり、多種多様な音律が雑多に存在している。
多くはペンタートニック(5音音階)の循環音階で、何処から弾いてもメロディーになる天与の音律と習わされて来たものだ。
それが営々として何百何千年か何万年か伝えられ、育まれて来た。





 

 

 




今年10月にも来道される。乞うご期待。


 それが、明治以降西洋文明の来襲と伴に西洋音楽も輸入されて普及し、今日に至ったことは言うまでも無い。
それは、日本のみならず世界全土に吹き渡った欧米化という風であった。  

 今日、アメリカを主体とした一極集中化のグローバリゼーションという大嵐は、世界は一つという平均化・平等化ならぬ異文化の切捨てという由々しき大問題を孕んでいる、その端緒を百年前に見るのだ。
そこに固有の民族の優位性や尊重といった心も失われるであろう。
何でも力が強いものが正しいという偏見も生まれるであろう。  


 

 

 


 グローバリゼーションを作った者が、古き良きヨーロッパの伝統までを切り捨てたことを、当の本人は知る由もなかったのかもしれない。
東欧の田舎に息づく民謡を採譜して、自分の楽曲に呼び起こしたバルトークの遺産を、どれほど正当に評価するものが居るであろうか。 当時そこここの村にも、純正の音律が鳴っていた。

 まほろばは「小国寡民」をスローガンに掲げ、小さく存在することの意義を訴え、それを店の指標としても来た。  

 老子のこの訓言の中に、「他の国を干渉せず、侵さない」という意味あいも含まれる。それが平和の原理だというのだ。
それぞれで、それぞれを楽しんで生を終える。それをこの世で、最高の生とする。  
2500年前に、老子は今日の世の破壊と混乱を喝破して居た。真のグローバリズムは、ローカリズムの集合と尊重にある。
 

老子(紀元前5世紀頃)は、中国・春秋時代の思想家。姓は李。名は耳とされ、唐の皇帝から宗室の祖と仰がれた。『老子』(『老子道徳経』)を書いたとされる。


 

 

 

 西洋音楽はバッハ以降、古典主義からロマン派、そして近代・現代と至ってわずか300年の間に完全な行き詰まりを見せ、壁にぶち当たって、身動きの取れない状態にいる。
これは非常に暗示的で、産業革命以降の物質文明がもたらした負の遺産が、如何に現代の世界人類に不幸をもたらせたかは、誰の眼にも明らかだ。
自然崩壊、人心荒廃はもう取り返しのつかない崖っぷちまで来てしまった。


 「平均律」は、果たして人類を幸福にさせたか、という大袈裟な問いかけに、反発される方やどうでもいいと思われる方も多かろうと思う。
 しかし、いみじくも「大韻は微声なり、大果は小因なり・・・」といった老子は、大きな堤の決壊を一匹の蟻の巣穴に見出したのだ。
そのわずかな音律のズレは、時を経て大きな間隙となり、再びとは元に戻せない悲劇を生んだのかもしれない。

そこに、平均に割ることの合理性、簡便性への西洋的視点。
一方、平均に割れない事への妥当性、寛容性、さらにそこに美を見出す東洋的視点。

 もう一度、音にも厳しい視点を加えなければならないのかもしれない。
これを福田氏はいみじくも「耳からの健康」と名付け、その普及と覚醒に全国演奏の旅を続けられている「純音の伝道師」なのだ。



 
 

 

 

「是非、幼児期には、『純正律』の音を聞かせて欲しい」ということを訴えて。  これも、自然食と同じように健康音楽運動の発端にもなろうか。
世界を変えるのは、その小さな一音に隠れているのかもしれない。

 

 

 

 最後に、全国の福祉施設を回り、障害をもつお子さんに優しい音を贈り届ける福田さんが、ベートーベンの「月光」ソナタをチェンバロで弾かれて、こう言われた。  
「自閉症の子には、とても人気があるのです。しかし、モーツアルトは不人気なんです」
これには、意外な気がした。
誰しも、暗い子には、モーツアルトを聞かせれば、明るく希望を持つだろうに、と単純に思うであろう。 実際、モーツアルト音楽セラピーがあるくらいだ。
「どうしてですか?」の問いに、  
「きっとバッハやベートーベンも自閉症だったのでしょう」 一同大笑いで、その会は終えた。  
シンパシー、同調、共鳴・・・・・・・か。  
その心になるには、その心そのものになる。

 仏説に、「同体同悲」の教えがある。  
仏は、衆生の体そのものになって、衆生の悲しみを知る。そして衆生は、仏の体そのものになって、仏の慈悲を知る。
これが悟りの世界、救いの境涯だと言われる。

 自閉症の子は、やはり塞ぎ込むせつなさや辛さを共有し共感してくれる友を求めている。  
そこに、こうしたらいいよ、明るくなるよ、と言ってモーツアルトの明るい曲をかけても案外感応しないのかもしれない。
(・・・素晴らしい短調の曲もあるのだが・・・・・・)  そこは、先ず同調すること、相手の波動と合わせ、そしてそれから変調し、誘導する。  
共感や共有とは、そういう心から生まれるのであろう。  

 従業員にその話を聞かせると、お客様や品物や生産者や・・・・もろもろと同調して仕事しようと、皆が自主的に盛り上がって、共感したのだった  


ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756 - 1791)ハイドン、ベートーヴェンらとともに古典派と呼ばれる。ザルツブルクに生まれ、ウィーンで没した。作品総数はあらゆるジャンルにわたり断片も含め700曲以上に及ぶ。


ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、1770 - 1827)は、ドイツの作曲家。ボン生まれ。古典派音楽の集大成として、楽聖と呼ばれた。
 

 

 

 小さくとも一個の投石した波紋は、池の隅々にまで行き広がる。
そして返って来る。 その一音の音律は、宇宙の涯までも、響き通る。 一音といえども、ないがしろに出来ない、ゆるがせに出来ないのが、この宇宙律なのかもしれない。  

 もし、その一音が正しく、宇宙律に適っているものであれば、共振・共鳴の輪もまた拡がるに違いないだろう。  
今、人類が絶望の淵に在っても、その一音を誰かが、いや気付いた人々が奏でれば、一音万倍で、修復されるかもしれない。  

いや、きっとされるに違いない。  
そこに、一縷の望みを託したい。

 

 
 

 

 

 
6月24日夕刻、素晴らしい夕焼け空に、見とれるほど大きな虹がかかった。

 

 



                           2008年7月1日記

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