まほろばblog

筝の始祖の子孫が・・・・・・!

6月 17th, 2014 at 9:07

新得の共働学舎と旭川の斉藤牧場を見学視察した「じねん(自然)の会」の集いの後、

神奈川県海老名市の諸田晋一さんが、昨日来訪された。

何でも森下先生の会員で、私のことを知り、それでエリクサーに興味を持たれたとのこと。

そして、宮嶋さんとの邂逅で、互いに友人であることを知って、さらに心動いたという。

それは、当地名産の高菜漬けを漬けるために、それに相応しい水を探していた。

発酵促進する水、それで、わざわざいらしたのだ。

ところが、私との待合時間に、「エリクサーへの道」を読まれ、

最初に琴のことが書かれていたので驚かれたという。

諸田さん

それは、筑紫筝、今の十三弦琴の元を創られた「諸田賢順」の子孫であったからだ。

例の「六段」とグレゴリア聖歌の関連を書いた文章を「倭詩」に載せたが、

その八橋検校は、諸田賢順を琴の祖としていたのだ。

そして、その発見者・坪井光枝さんは、姉の素子さんとの知人であった。

すでに、その当時から賢順は仏教とキリスト教、その融合の曲を作っていたというから、

その影響力が、八橋検校に伝わったのかもしれない。

佐賀では、毎年「諸田賢順祭」が」おこなわれている。

以下、諸田初祖の業績を記しているが、

縁というものは不思議で、目に見えない意図で繋がれている。

故郷の佐賀県三養基郡東津、そして賢順祖と同じ多久市に同じ墓がある。

そして、その近く諸富に、あの徐福上陸の地があったという。

Map[1]

 

日本中に徐福上陸の地があるが、それぞれに真実だと信じている。

ますます因縁の糸を感じるのだ。

これから先、どんな出会いがあるのだろうか・・・・・・・。

 

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筑紫箏(筑紫流箏曲)

諸田賢順

諸田賢順は、古来の雅楽から発生した琴曲と、浄土宗に伝わる宗教楽「善導寺楽」のうち、琴(箏)を独立した楽器として位置づけ、更に中国古代の様式や、漢詩などを加味した、琴独自の演奏様式を歌謡をあみだしている。

それが後世に八橋検校に受け継がれて、今日の現代箏曲へと発展していった。

賢順が意図していた宗教的、精神修養の目的から変貌したが、一般の人々にも受け入れられやすくなったともいえる。

 

善導寺楽

開山の祖「鎮西上人」は藤原基房から箏を伝授されていたし、英彦山とも親密な関係を持つが、大本山善導寺では開山以来、仏事の催しに「箏や琵琶」などの楽器をお経の伴奏に奏でていた(「音楽法要」)。またお経には抑揚音階のある「声明(しょうみょう)」もある。 各地の浄土宗寺院で鎮西上人以来、このような音楽法要が催され、これが寺院雅楽となった。

賢順の生涯

佐賀県肥前松浦党の一族、一派に属する。蒙古襲来の弘安の役(1281年)の働きにより肥前松浦から筑後の宮部郷に移り、宮部の姓を名乗った。

生い立ち

天文3年(1534年)筑後国宮部(大牟田市大字宮部)で日向守宮部武成の長子として出生。父は南北朝動乱期、菊池氏(南朝方)に属していたが、後には大友方に属し、大内氏の応援に長門まで行き没す(天文9年(1540年)賢順7才の時)。

久留米の大本山善導寺に僧として入る。

ここで「筝」と出会い、高良山に通ったりして12,3才で「善鼓浄土仏事之琴」を修得、才能を発揮した。

英彦山に避難

天文20年(1551年)戦乱から逃れた弟が賢順を頼って来ると大本山善導寺を出、一族を連れて「英彦山」に避難する(16才の時) 英彦山の麓で数年、ひたすらに筝の修練に精魂を傾ける

  • 英彦山は大本山善導寺と関係が深く、修験者たちに伝統の音楽があった。
  • 日田に逃れ潜んだ平家の女官たちの間に宮廷の音楽が伝承されていた。

豊後の大伴宗麟の要請で、謀略による肥後南関「つづら岳城」攻略に参加。(21~22才)

父の死とこの城の陥落が、彼の心に残した影響は大きかったと考えられる。

宗麟(義鎮)の招きで大分府内に入る。

府内にいた明の「鄭家定(テイカテイ)」から音楽理論・七弦琴や瑟(25弦の琴)など琴に関して学び奥義を得る。・・・朝廷にその名声が知れることになる。

  • ★禁庭、「筑紫懸」の号を賜る(西国では賢順懸)
  • ★大伴宗麟は賢順に妻を娶らせ、田地を与える。 (26~27才の永禄5年(1562)頃。姓を「諸田」とし、還俗する)

7年ほどたった34才、永禄12年(1569)頃、賢順、妻子一族をつれて豊後を出た。

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肥前・南里「正定寺」に入る (現・川添町)

(*)正定寺は、浄土宗の大本山善導寺に対し、肥前の本山ともいわれ、ここにいた2人の僧(法水と玄恕)は賢順から筑紫箏を伝承する。(玄恕は後に諫早の慶巌寺の4代目住職となる。玄恕から3代伝承者の徳応に引き継がれる。)法水は還俗して江戸で箏糸商を営み、そこで巡り会った上永検校(後の八橋検校城秀)に筑紫箏の手ほどきをし、玄恕を紹介した。晩年の玄恕は訪れた検校(後の八橋検校城秀)に筑紫箏を伝授した。 正定寺(佐賀市川副町南里1301−2)には賢順に関する物は何も残っていませんでした。

お寺を探す途中、諸富付近のお寺は集落ごとに存在していたと思う位、クリークの中にお寺が散在していました。 多聞院というお寺の墓地に、賢順の一族と関連があるのか不明ですが諸田姓の立派なお墓が複数ありましたが、それ以上に手掛りになりそうなものには出会えませんでした。

肥前多久「梶峯城」に入る(元亀2年、38才の時、龍造寺長信公の招きで)

多久安順(長信公の長子)の妻は鍋島直茂長女「千鶴姫」で、賢順は城の近くに住み、千鶴姫に筑紫箏を伝授する。嗣子ができずに竜造寺家は絶えたが鍋島家から養子を迎え、筑紫箏は鍋島家にも受け継がれた。

終生、隠遁の生活を貫き通したという。享年90歳

福岡教育大学講師の宮原千津子女史のみが筑紫箏の演奏者とされている。

毎年7月13日の命日に「諸田賢順を偲ぶ会」が開催されています。 専称寺:多久市多久町東の原(お問合わせ 0952-75-2440)

賢順の墓:小城郡北多久町小侍(現在の多久市北多久町小侍)

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参考資料:『「諸田賢順」(筑紫箏の始祖)』著者:山崎拓治 「賢順と久留米」記念全国箏曲祭実行委員会発行 協力:浄土宗大本山善導寺

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