まほろばblog

「祝婚歌」

1月 31st, 2014 at 9:10
今月詩人の吉野弘さんがお亡くなりになった。
結婚式で、よく披露されていた『祝婚歌』が、今再び注目されている。
私も、30年以上過ぎてしまうと、諦めと悟り(?)で、
互いに、馬鹿になって、ハッハと笑っているのが、
一番良いってことに気付いて、
なるほど、なるほど!とうなづくのだ。
昨晩も、セネガルの踊りを見て、
私も真似て、馬鹿踊りをして、腰を痛めて、
妻にも子供にも笑われて、アホな自分がいて、
そのまま寝てしまった。

「祝婚歌」

               吉野 弘

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二人が睦まじくいるためには

愚かであるほうがいい

 

立派すぎないほうがいい

立派すぎることは

長持ちしないことだと

気付いているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい

完璧なんて不自然なことだと

うそぶいているほうがいい

 

二人のうちどちらかが

ふざけているほうがいい

ずっこけているほうがいい

 

互いに非難することがあっても

非難できる資格が自分にあったかどうか

あとで 疑わしくなるほうがいい

 

正しいことを言うときは

少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと

気付いているほうがいい

 

 

立派でありたいとか

正しくありたいとかいう

無理な緊張には 色目を使わず

ゆったりゆたかに

光を浴びているほうがいい

 

健康で風に吹かれながら

生きていることのなつかしさに

ふと胸が熱くなる

そんな日があってもいい

 

そして なぜ胸が熱くなるのか

黙っていても

二人にはわかるのであってほしい

 

 

●吉野弘全詩集 栞 「祝婚歌」 茨木のり子
吉野さんの「祝婚歌」という詩を読んだときいっぺんに好きになってしまった。
この詩に初めて触れたのは、谷川俊太郎編『祝婚歌』というアンソロジーによってである。どうも詩集で読んだ記憶がないので、吉野さんと電話で話したとき、質問すると、 「あ、あれはね『風が吹くと』という詩集に入っています。あんまりたあいない詩集だから、実は誰にも送らなかったの」  ということで、やっと頷けた  その後、一九八一年版全詩集が出版され、作者が他愛ないという詩集『風が吹くと』も、その中に入っていて全篇読むことが出来た。  若い人向けに編んだという、この詩集が良くて、「譲る」「船は魚になりたがる」「滝」「祝婚歌」など、忘れがたい。  作者と、読者の、感覚のズレというものがおもしろかった。  自分が駄目だと思っていたものが、意外に人々に愛されてしまう、というのはよくあることだ。  また、私がそうだから大きなことは言えないが、吉野さんの詩は、どうかすると理に落ちてしまうことがある。それから一篇の詩に全宇宙を封じこめようとする志向があって、推敲に推敲を重ねる。  櫂のグループで連詩の試みをした時、もっとも長考型は吉野さんだった記憶がある。  その誠実な人柄と無縁ではないのだが、詩に成った場合、それらはかえってマイナス要因として働き、一寸息苦しいという読後感が残ることがある。  作者が駄目だと判定した詩集『風が吹くと』は、そんな肩の力が抜けていて、ふわりとした軽みがあり、やさしさ、意味の深さ、言葉の清潔さ、それら吉野さんの詩質の持つ美点が、自然に流れ出ている。  とりわけ「祝婚歌」がいい。  電話でのおしゃべりの時、聞いたところによると、酒田で姪御さんが結婚なさる時、出席できなかった叔父として、実際にお祝いに贈られた詩であるという。  その日の列席者に大きな感銘を与えたらしく、そのなかの誰かが合唱曲に作ってしまったり、またラジオでも朗読されたらしくて、活字になる前に、口コミで人々の間に拡まっていったらしい。  おかしかったのは、離婚調停にたずさわる女性弁護士が、この詩を愛し、最終チェックとして両人に見せ翻意を促すのに使っているという話だった。翻然悟るところがあれば、詩もまた現実的効用を持つわけなのだが。  若い二人へのはなむけとして書かれたのに、確かに銀婚歌としてもふさわしいものである。  最近は銀婚式近くなって別れる夫婦が多く、二十五年も一緒に暮らしながら結局、転覆となるのは、はたから見ると残念だし、片方か或いは両方の我が強すぎて、じぶんの正当性ばかりを主張し、共にオールを握る気持も失せ、〈この船、放棄〉となるようである。  すんなり書かれているようにみえる「祝婚歌」も、その底には吉野家の歴史や、夫婦喧嘩の堆積が隠されている。  吉野さんが柏崎から上京したての、まだ若かった頃、櫂の会で、はなばなしい夫婦喧嘩の顛末を語って聞かせてくれたことがある。  ふだんは割にきちんと定時に帰宅する吉野さんが、仕事の打合せの後、あるいは友人との痛飲で二次会、三次会となり、いい調子、深夜すぎに帰館となることがある。  奥さんは上京したてで、東京に慣れず、もしや交通事故では? 意識不明で連絡もできないのでは? 待つ身のつらさで悪いことばかりを想像する。  東京が得体のしれない大海に思われ、もしもの時はいったいどうやって探したらいいのだろう? 不安が不安を呼び、心臓がだんだん乱れ打ち。  そこへふらりと夫が帰宅。奥さんはほっと安堵した喜びが、かえって逆にきつい言葉になって、対象に発射される。こういう心理はよくわかる。なぜなら私もこれに類した夫婦喧嘩をよくやったのだから。  今から二年ほど前、吉野さんは池袋駅のフォームで俄かに昏倒、下顎骨を強く打ち、大怪我された。歯もやられ、恢復までにかなりの歳月を要した。どうなることかと心配したが、その時、私の脳裡を去来したのは、若き日の吉野夫人の心配症で、あれはあながち杞憂でもなかったということだった。 「電話一本かけて下されば、こんなに心配はしないのに」  ところが、一々動静を自宅に連絡するなんてめんどうくさく、また男の沽券にかかわるという世代に吉野さんは属している。売りことばに買いことば。  吉野さんはカッ!となり、押入れからトランクを引っぱり出して、「お前なんか、酒田へ帰れ!」  と叫ぶ。 「ええ、帰ります!」  吉野夫人はトランクに物を詰めはじめる。 「まあ、まあ、」  と、そこへ割って入って、なだめるのが、同居していた吉野さんの父君で、それでなんとか事なきを得る。  これではまるで私がその場に居合わせたかのようだが、これは完全な再話である。長身の吉野さんが身ぶりをまじえての仕方噺(しかたばなし)で語ってくれたのが印象深く焼きついているから、細部においても、さほど間違っていない筈だ。  二、三度聞いた覚えがあるので、トランクを引っぱり出すというのは、吉野家におけるかなりパターン化した喧嘩作法であるらしかった。留めに入る父君の所作も、だんだんに歌舞伎ふう様式美に高められていったのではなかったか?  酒豪と言っていいほどお酒に強く、いくら呑んでも乱れず、ふだんはきわめて感情の抑制のよくきいた紳士である彼が、家ではかなりいばっちゃうのね、と意外でもあり、不思議なリアリティもあり、感情むきだしで妻に対するなかに、かえって伴侶への深い信頼を感じさせられもした。  いつか吉野夫人が語ってくれたことがある。 「外で厭なことがあると、それを全部ビニール袋に入れて紐でくくり、家まで持って帰ってから、バァッとぶちまけるみたい」  ビニール袋のたとえが主婦ならではで、おもしろかった。  更にさかのぼると、吉野御夫妻は、酒田での帝国石油勤務時代、同じ職場で知り合った恋愛結婚である。  その頃、吉野さんはまだ結核が完全に癒えてはいず、胸郭成形手術の跡をかばってか、一寸肩をすぼめるように歩いていた。当然、花婿の健康が問題となる筈だが、夫人の母上はそんなことはものともせず、快く許した。  御自分の夫が、健康そのものだったのに、突然脳溢血で、若くして逝かれ、健康と言い不健康と言ったところで所詮、大同小異であるという達観を持っていらしたこと、それ以上に吉野弘という男性を見抜き、この人になら……と思われたのではないだろうか。 「女房の母親には、終生恩義を感じる」  と、いつかバスの中でしみじみ述懐されたことがあるが、それは言わず語らず母上にも通じていたのだろう。 「おまえはきついけれど、弘さんはやさしい」  と、自分の娘に言い言いされたそうである。  新婚時代は勤務から帰宅すると、すぐ安静、横になるという生活。  長女の奈々子ちゃんが生まれた時、すぐ酒田から手紙が届き、ちょうどその頃、櫂という私たちの同人詩誌が発刊されたのだが、「赤んぼうははじめうぶ声をあげずに心配しましたが、医師が足を持って逆さに振るとオギャアと泣きました。子供、かわいいものです」  と書かれていた。私の感覚では、それはつい昨日のことのように思われるのだが、その奈々子ちゃんも、もう三十歳を超えられ、子供も出来、吉野さんは否も応もなく今や祖父。 「祝婚歌」を読んだとき、これらのことが私のなかでこもごも立ち上がったのも無理はない。幾多の葛藤を経て、自分自身に言いきかせるような静かな呟き、それがすぐれた表現を得て、ひとびとの胸に伝達され、沁み通っていったのである。  リルケならずとも「詩は経験」と言いたくなる。そして彼が、この詩を一番捧げたかったは、きみ子夫人に対してではなかったろうか。・・・・・・・・・・・・

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