まほろばblog

「興亜観音から平和の祈りを」

2月 26th, 2012 at 10:16

 伊丹 妙浄 (礼拝山興亜観音住職)

  『致知』2012年3月号「致知随想」
    ※肩書きは『致知』掲載当時のものです
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 ここ熱海にある「興亜観音(こうあかんのん)」は昭和十五年、
 支那事変での日中両軍の戦没者を等しく供養するため、
 陸軍大将・松井石根閣下のご発願により建立されました。

 観音像は激戦地だった大場鎮・南京地域の
 戦場の土を取り寄せ、陶工師と彫塑家の協力を得て
 制作されたものです。
 
 七十年余の風雨に耐えてこられた
 観音様の慈しみの眼差しは、
 遙か中国へと向けられているそうです。

 松井閣下は当初、建立するだけで、
 慰霊する僧侶を置くつもりはなかったようですが、
 参詣なさるごとに、実際には存在しないものが
 目に映って仕方がないと言われるのです。


 
 手のない者、脚のない者……、
 あぁ、これは建立するだけでなく、
 慰霊する僧侶が必要だ――。
 
 そうお感じになり、新潟の本成寺で
 執事をしていた私の父が命を受け、
 英霊位の慰霊僧侶として参った次第でした。

 閣下は昭和二十一年に巣鴨へ出頭される際、
 私どものあばら家までわざわざおいでになり、

 「水もない、電気もない不自由な生活だが、
  どうかこの英霊位の供養を頼む」

  
 と私の両親に懇願なされたようです。
 
 そのお言葉が父母の心に深く染み入り、
 生涯、興亜観音を守るという決意を通してまいりました。

 昭和二十四年には広田弘毅氏のご子息や
 東条英機氏のご夫人らが訪れ
 
 
 「知り合いの遺骨ですが、時期のくるまで
  誰にも知られぬよう秘蔵してもらいたい」
  
  
 と申し出られたそうです。
 
 私の父は、A級戦犯として処刑された
 英霊七方のご遺骨と直感し、快諾したものの、
 さてそれからが誠に大変であったようです。

 我が子にも気づかれぬよう、
 深夜にこっそり起き出して
 題目塔の後ろに穴を掘って、埋め隠す。
 雑草を茂らせ、誰にも察知されないようにする。
 
 ところが種々の流言を耳にすれば、
 やはり不安が過ってしまう。
 
 そこである時は観音像の裏、ある時は本堂裏に
 埋蔵場所を変えるなど、大変苦労したようでした。

 昭和二十六年のサンフランシスコ講和条約調印以後、
 米軍の監視は緩められ、七方のご遺骨のあることも
 次第に世間に知られてくるようになりました。
 
 そのご遺骨を弔う人も多くなり、
 昭和三十四年、ようやく「七士の碑」が建立され、
 ご遺骨を納めることができました。

 しかしこの間、両親の嘗めてきた苦労は
 ひと通りではありません。
 
 戦後のことゆえ寺務だけでは生活が成り立たず、
 父は遺族名簿を頼りに頼まれもしない家を
 一軒一軒回ってお経をあげさせていただくなどしていました。
 
 朝日が昇るとともに家を出て、帰宅するのは夜も更けてから。
 私も奨学金を二か所からいただきながら高校へ通いましたが、
 父が常々申していたのは
 
 
 「兵隊さんの苦労を偲べば何の苦労もない」
 
 「英霊七方のご丹精があったればこそ今日の日本がある」
 

 という言葉でした。
 ところが昭和四十六年、その七士の碑が
 赤軍派によって爆破されるという
 ショッキングな事件が起こります。
 
 十二月十二日の午後十時頃、
 これまで聞いたことのない爆音がし、
 父が見に行きますと七士の石碑が割れており、
 腰が抜けるほどに驚いたといいます。
 
 すぐ警察へ届け出たところ七士の碑から
 興亜観音まですべてにわたって
 爆薬が仕掛けられていたそうです。

 七士の碑の左隣には、金色でお題目が刻まれた
 大東亜戦争殉国刑死千六十八柱霊位の碑があります。
 
 そのお題目の一部が少し焦げたものの、
 途中で電気関係がショートし、
 七士の碑以外のところは難を逃れました。

 警察の話によりますと
 
 
 「ああいう連中はよほど綿密な計画を練ったはずで、
  全部爆破されなかったのが不思議なくらいだ」
  
  
 ということでした。霊感の鋭い方は、
 英霊七方が霊魂となられたその時までも、
 必死になって導火線の火を食い止められたのだと言われます。

 他にも不思議なことは尽きません。
 私は高校卒業後、すぐ勤めに出ましたが、
 退職してまもない平成十二年、
 急性骨髄性白血病M3に罹り、
 九か月間に及ぶ入院生活を余儀なくされました。
 
 やがて寝ることも起きることもできなくなり、
 回診のたびにただ苦しい苦しいと訴えるだけ。
 
 介護をしてくれた寺の執事は主治医から
 
 
 「もってあと一週間の命です」
 
 
 との宣告も受けたようです。
 
 しかしながら、現代医療の偉大な力、
 お医者様のなんとか命を救ってやりたいというお心、
 周囲の方々の献身的な介護、
 そして何よりも目に見えない何ものかからの
 
 
 「おまえのような者でも、
  まだ果たさなければならぬことがある」
 
 
 というお計らいがあったのか、
 五十九歳になる今日まで生かさせていただいております。

 こんな因縁深いお話もございます。
 
 七方二年目のご祥月ご命日である
 昭和二十五年十二月二十三日、
 東京裁判の七士処刑の責任者ヘンリー・ウォーカー中将は、
 自らが運転していたジープの操縦を誤り、事故死してしまいます。
 
 その日が英霊七方死刑執行の同日同時刻であったことから、
 さすがに因縁めいたものをお感じになり、
 中将の副官が興亜観音へ訪ねてこられました。
 
 話を聞いた父は「怨親平等」という心のもと、
 露仏像の脇に菩提の碑を建てました。

「世の人に残さばやと思う 自他平等の誠の心」。

 刑死の直前、松井閣下がお残しになった辞世の句ですが、
 私はここに閣下の生涯を貫いたご心願が
 表れているように思うのです。

 私は興亜観音を平和を祈る原点と考えていますが、
 参詣なさる方の数は年々少なくなり、
 戦争という言葉自体が風化されつつあります。
 
 しかしながら現在、私たちの幸せあるはご先祖様のお陰、
 戦没者の方々の尊い犠牲の上に成り立つことを噛み締め、
 毎日毎日がご祥月ご命日と心得て、
 観音の法灯を絶やさぬよう
 身体の続く限り努めてまいりたいと存じております。

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