まほろばblog

米内会長、さようなら!!!

9月 3rd, 2014 at 20:50

最後の米内さん6

    泣いたとて

    どうせ逝く人

    やらねばならぬ

    せめて波風

     おだやかに (江差追分・本唄)

 

 

 

 

 

8月31日、

青坂満大師匠の唄う「江差追分」の送り唄に送られて、

ようやく米内功会長は、浄土に旅立たれた。

新参者の私に、ソイガケの手土産を遺してまで・・・・・。

 

米内さん法事 追分

どうしても、書けなかった。

米内さんが亡くなった事を・・・・・・。

皆様にお知らせすることが、出来なかった。

既に、亡きご両親の法事に、札幌の初代かもめ会会長のお祖父ちゃんと、

お母さんの大好きな「江差追分」で供養しようと、

青坂師匠との約束で、この日を待ちに待っていた。

だが自らが、三・七日(みなのか)のイノチとなって

手向けられようとは・・・・・。

死してもなおも親思う、親孝行。

koizumisennseito

米内会長とは、思い出があり過ぎて、何処から書けばよいのやら・・・・言葉が見つかりません。

奥様・三枝子さんのお許しを得て、弔文を掲載させていただき、

共に、故人を偲びたいと存じます。

失礼があれば、お許しくださいませ。

 

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弔  辞

 米内会長。

今、どうされていますか。

あれほど会いたくて会いたくて、

夢にまで見た恋しいお母さんと一緒ですか。

嬉しくて嬉しくて、

赤ん坊のようにお母さんに甘えて離れないでいるんでしょう。

瞼に浮かんで、見えるようです。

そこにお父さんは居ますか。

お父さんは、今もおっかないですか。

きっとやさしいお父さんに変わっていて、

三人で小躍りして抱き合っているのが見えます。

 

天国は、良いところですね。

寂しくなんかないですね。

会長のこんな嬉しそうな顔、見たことありません。

こんなにもハシャイダ声を聴いたことがありません。

もうこの世のことは忘れるくらいです。

 

でも取り残された私たちは寂しいです。

市場に行っても四十三番は火の消えたようで、

もぬけの殻で、心の張りが抜けてしまいます。

市場通いの楽しみが消えてしまいました。

会長のあの元気な掛け声、冗談や怒鳴り声、

今となってはみな懐かしさで一杯です。

明るく何時も励ましてくれた何気ない言葉のはしはしから、勇気をもらいました。

そして、何よりも青果業の同志として、先輩として良き範を示してくれました。

 

八百屋の端くれの私も今年で三十年。

それは米内会長とのお付き合いの長さでもありました。

「有機の町」宮崎県綾町の大根を引いて下さることから始まり、

故郷田実前町長を訪ね、

山形は高畠町の農民詩人・星寛治さんを

一緒に訪問した思い出は、終生忘れません。

そこを種火として、会長は有機農産物を

市場に取り入れることに情熱のありったけを傾けました。

人に何と言われようが、思われようが、我が道を行く人でした。

そのような志がなければ、

当時まだ安全意識の薄い北海道に有機のネットワークと

流通システムを確立することは困難でした。

時代に先駆けて、「環境保全」という大義に、熱き血潮を燃やし続けた生涯でした。

有機認証制度を逸早く取り入れ、市場内にコーナーを設け、

生産者の育成や小売店に販路を広げ、今日一般的になった

「安心安全」の標語を身を以て示されました。

全国に行くと『北海道に米内あり』とまで賞賛され、

五年前には道から『北海道産業貢献賞』を表彰されるまでの、

その貢献度は計り知れないものがあったのです。

 

その信じたら動じない信念は、きっと幼年期に培われたのだと思います。

よく聴かされました。

満州からの引き上げで、筆舌に尽くし難い苦難の山々を超え、

ロシア兵の壮絶たる追っ手から逃れ、

一家手を取り合って、命からがら日本に帰って来た。

命の奥深くに刻まれた家族の絆、

親の恩愛を誰よりも大切に、大切にされる方でした。

会長は父母の背中を見て受け継いだ情の人、情け深い人でした。

大陸への記憶が、会長をスケールの大きい心に育てたのでしょう。

とにかく旅行好きで、世界各国隈なく歩き回り、

その楽しみ方は日本人離れをしていました。

見知らぬ外国人にもすぐ話しかけ、

すぐ友達にしてしまう開放的な心は、まさに大陸的でした。

昨年は病身を押してペルーまで強行、

そこで倒れましたがまた長旅を続けたのです。

それほど好きでした。

厳しいお父さんに隠れてサックスを吹いた札商高校時代。

辞めさせられるも、ついに生涯ジャズ好きは治りませんでした。

札幌市内の著名なアーティストはみなお友達で、私も仲間に加えて戴きました。

そして、市場の休みの合間に、仲間と行く海釣りは半端ではありませんでした。

疲れというものを知りません。

納屋の工具類はプロ並みで、車好きも嵩じて何台買い換えたことでしょう。

とにかく、人生を楽しみました。思いっきりエンジョイしました。

思うまま、赴くまま、人生を我が物としました。

 

病魔に襲われた十三年と半年間、体は患いましたが、

それにめげずに、己が思い通りに心で生き切りました。

それが出来たのは、奥様の三枝子さんがいらっしゃったからだと思います。

昭和十二年六月十五日、二人とも同年同月同日生まれの、

まさに神様の申し子のように、双子のようにして、

この世に生を受け、この世で結ばれたのです。

相思相愛のお二人は、人も羨むようなご夫婦仲でした。

奥様は、観音菩薩さまの生まれ変わりのように慈しみ深く、

わがままなご主人のどんなことも、何時でも笑って受け止めてくれました。

奥様の胸の中で、どれほど泣いて慰められたことでしょうか。

亡きお母様を実の母親のように慕ってくれました。

会長には二人の母親がいたのです。

だから、会長は自信を以て、人生を謳歌したのです。

そして、輝いていたのです。

 

会長は、何が残らなくても、奥様という大きな宝を遺して先に旅立たれました。

もし、思い残すことがあるとすれば、隣に三枝子さんが居られないことでしょう。

きっとあの世でも、奥様を待ち侘びていらっしゃることでしょう。

でも、まだまだ、我慢してくださいね。先は長いのです。

 

兄想いの健気な妹さまを始めご親族や、弟の哲ちゃんが、跡を継がれて、

立派に『米内青果』を盛り立てて行くでしょう。

青果業の仲間や私達も応援しますから、安心してください。

きっと、理想の道が開けるでしょうから。

 

遺された私たちは、泣くことなく、笑って会長を見送りたいと思います。

『人生万歳!!』

と歓声と拍手を以て見送ります。

短くも長き七十七年を見事に生き切った会長、本当にお疲れ様でした。

これからは、天国でも思い切って楽しんでください。

私たちも、後から追っかけて行きます。待っててください。

  

平成二十六年八月お盆の十四日の葬儀に

 

あなたの後輩 宮下 周平

茲に述べる

 

 

 

 

 

 

 

 

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