まほろばblog

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発酵文化促進機構総会から

日曜日, 6月 29th, 2014

昨日、東京日本橋の「豊年萬福」で「発酵文化促進機構」の定期総会があり出席した。

朝3時まで原稿、仮眠をとって仕入れに、帰るや飛行機に飛び乗って一路、日本橋室町へ。

終わって、9時過ぎの飛行機があいにく遅れ、帰ったのは夜中の1時過ぎ。

いささか60過ぎた老体には酷な一日であった。

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この総会報告に、26年度の事業計画報告が注目された。

一に、発酵技術事業で、肉・鶏・野菜・イカ・オキアミの醤油の開発の着手予定が面白い。

それと、寺田本家の神埼町に「仮称:発酵食品・道の駅」が開設されて、全国の発酵食品を紹介するという。

地元や首都圏中心に車を利用されることを見越して、インターチェンジのそばに建設中とか。

いよいよ、発酵道開通ですね。

また、10月3日に、日本橋YUITOで、テーマ「味噌力」の講演会があります。

お近くの方は、ご参加ください。

 

その後、小泉武夫理事長のお話。

例のオランダハーグにおける捕鯨問題の裁判は、報道されているような決議や一方的なものではなく、

余り知らされていないその前文に、日本の正当性が詳しく述べられている、という。

為に、すでに北大西洋捕鯨は再開され、いずれ南氷洋も再開されるもようです。

世界から、捕鯨国日本が悪者にされているようですが、

そもそもIWCが日本に委託して調査捕鯨を任されている事が知らされていない。

すでに、シーシェパードは世界的テロ集団として国際指定されている。

今、食べている鯨肉の多くは、ノルウエー・アイスランドの商業捕鯨で漁獲されたものである。

現在、世界の海は大変なことになっている。生態系が狂い、加えて異常気象が続く。

ミンク鯨が78万8千頭、シロナガス鯨が100万等、人間が魚介を食する4.7倍も食べており、

海の生態系が崩れ、大衆魚が全く取れなくなって来ている。

今、BSE、鳥インフル、1000万頭の豚感染で、動物性蛋白が食べられないような時代を迎えている。

牛肉1kg造るのに、穀類7kg必要だ、つまりCo2を後押しする。

だが、牛70億頭の糞尿が土と海に染みて、硝酸化している。

加えて牛のゲップがメタンを放出することCo2の17倍と言う。

捕鯨反対のアメリカには、プロパガンダと人種差別が根底にあると指摘。

だが、飼料も要らず、環境も汚さずして、鯨1頭で、8000人が養われる。

まさに「クジラは、人類世界を救う」とは、真実である。

 

そして、先生はさらにアゴに本枯れでカビ付けしたダシを発表。

さらに、今沖縄の泡盛などの黒麹文化と石川県のフグの麹漬けの

2つを世界無形遺産に指定されるよう働きかけているとか。

またNHK総合TVの「小泉武夫の発酵漫遊記」で、

「なまぐさこうこ」「「ひっぱりうどん」「たから漬け」「いさじゃ」などの

余り知られていないスゴイ発酵食を紹介された。

発酵は未知ですね。

 

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そこに、「降りてゆく生き方」の森田さんがいらして、

10月13日(月・祝)のまほろば創業30周年イベントで、

小泉先生の記念講演を1時から、ついで「降りてゆく生き方」の上映、

そしてパネルトークという骨子が確認された。

前日の12日は、前夜祭のお祭り騒ぎで、色々企画案が持ち出されている。

多くの方々を呼んでのトークショーやコンサート。

そして、多くの関係者に出展して頂いてみんなで盛り上げましょう、

と言うことになりつつあります。

グッドアイデイアがありましたら受け付けておりますので、

どしどしご提案くださいませ。

昨日の1日で、難題の10月イベントに光が射し、出版にも目途がつき、

出向いてよかったなということになりました。

ご期待ください。

「人間は不可能を可能にできる」

日曜日, 6月 29th, 2014

塩見志満子(のらねこ学かん代表)

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※『致知』2014年7月号
特集「自分の花を咲かせる」より

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――塩見さんはもともと学校の先生でいらしたのですね。

はい。だけど、私は本当は
「おまえは先生にはなれん」と言われていた人間なんです。

生まれたのは愛媛の農家で、
よく生きておられたなと思うほどの貧乏でした。

6人きょうだいの4番目で

「この貧乏な百姓だけは嫌だ。
何としても働いて大学に行きたい」

とずっと思っていました。

それで高校を卒業する時、担任の先生に

「先生のような国語の教師になりたいです」

と言うたら、即座に

「なれん。おまえのところは
貧乏だから大学には行けん」と。

昭和30年の話です。

その先生は続けて、

「それでもどうしても教師になりたかったら短大へ行け。
いま女性の体育教師が不足しとるから、
その資格が取れるかもしれん。
そして愛媛に戻ってきて、わしと一緒に教員をやろうや」

と言ってくださいました。

でもね、私は学校の授業で一番苦手なのが体育だったんです。

「先生、こらえて」と言いましたら

「そんな贅沢を言いよったら、教員になれんぞ。
百姓して貧乏に耐えるのか」

と言われて、
東京の日本女子体育短期大学(現在の日本女子体育大学)を受験しました。
幸いに合格できましたけど。

――学費はどうされたのですか。

私の思いを知った船員の兄が
入学金を用立ててくれたんです。

授業料は近くの映画撮影所でエキストラのアルバイトをしたり、
寮の掃除や炊事の手伝いをして納めたのですが、
とても払いきれずに、後に東京で体育の教師をした1年半でようやく完納しました。

――苦手だった体育は克服されたのですか。

短大に入った1年目は

「荷物をまとめて帰りなさい。
あなたはここにおっても卒業できん」

と何回も言われました。

だけど、不可能は可能になるものなんですよ。

「負けてなるか」と思って毎朝4時に起きて6時までの2時間、
誰もいない体育館でバレーボールやバスケットボール、跳び箱などの練習をしました。

そうしたら6か月後には皆から褒められる学生になったんです(笑)。

その時、心の支えになっていたのは
短大進学を勧めてくださった高校の担任の先生の言葉です。

先生はおっしゃいました。

「わしは30年間教員をしてきたけれども、
得意な教科の教員になると、苦手な生徒の心が見えん。
苦手な教科の教員になると、苦手な者の気持ちが分かる。
そうするとクラスの生徒は、皆おまえの授業が好きになるじゃろう。
騙されたと思ってそうしてみい」と。

――それで、卒業後は東京で体育の教師に。

短大2年で中学校の教育実習に行った時、
その校長先生が

「どうか東京におって、
ここの教員になってくれ」

とおっしゃいましてね。

僅か2週間教育実習をしただけで

「先生、私は何も実技ができません」

と言ったんですけど

「おまえはここに必要とされている人間だ」と。

――よほど気に入られたのでしょうね。

いまでは考えられませんが、学校がある世田谷の田園調布は
ものすごく貧富の差が激しいところでした。

毎朝、車で送迎される子と、橋の下に住んでいるような子の両方が
同じ中学校に通っていたんです。

私は貧しい子供たちのために、
毎日おにぎりを握っていっては

「食べなさい。
私も同じように貧乏だったよ」

と手渡していた。

それをどこかで校長先生が
ご覧になったのかもしれませんね。

* * *

その後、最愛の息子を事故で突然亡くし、
さらに人生のパートナーであった
ご主人も交通事故で他界。

塩見さんはその絶望的な状況をいかにして乗り越え、
いまも前を向いて歩き続けているのか。

塩見さんが語った「人生で大事な心構え」とは――。

……この続きは『致知』7月号インタビューP50~54をご一読ください。

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