まほろばblog

Archive for 11月, 2011

「習い方がうまい人とは、習う素直さがある人」

火曜日, 11月 22nd, 2011

        
       
  荒川 博 (日本ティーボール協会副会長)
        
    『致知』2009年8月号
     対談「世界の王」はこうしてつくられ  

http://www.chichi.co.jp/monthly/200908_pickup.html#pick3

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【王氏:思えば僕が中学二年の時、草野球の試合に出ていたのを
    目に留めていただいたのが、荒川さんとの初めての出会いでしたね】

そう、忘れもしないね。
昭和二十九年十一月二十三日の、午後二時頃だ。

当時二十四歳だった私は毎日オリオンズ
(現・千葉ロッテマリーンズ)の選手だったけれど、
その頃のプロ野球には秋季練習なんてなかったから、
暇を持て余して近所の隅田公園へ出掛けていった。

そしたらそこに凄いピッチャーがいたんだ。

ところがその子は左で投げているにもかかわらず、
打つ時になると、なぜか右で打つんだよ。

で、初めは黙って見てたんだよね。
一打席目三塁ゴロ、二打席目ショートフライ。

それで三回目の打席に立った時にね。

「ちょっと待って、坊や。君は何で右で打ってるの?
  本当は左利きなんだろう?
  次の打席は左で打ってごらん」
 
 
と声を掛けたら、

「はい」

って素直に言ったんだよ。

これがすべてのきっかけだな。

普通、それまで左で打ったこともない子が、
試合中にいきなりそんなことを言われたら、

「できない」

って言うのが当たり前だよ。

ところが次の打席で左ボックスに入ったその坊やは、
いきなり二塁打をかっ飛ばした。

右中間真っ二つ、ビックリするくらいのいい当たり。
私はその時に、あ、この子を、
母校の早稲田実業に入れようと思った。
そうすれば絶対に甲子園で全国制覇ができるって。

それで試合が終わるまで待って、早実に入るよう勧めたんだ。

私はともかくも早実へすっ飛んでいって
こういう選手を見つけたから、二年後には
何が何でも入れてくれと頼み込んだ。

ところが翌週に少年の家に行くと、
お父さんからけんもほろろに断られてしまった。

「うちの子には野球なんかやらせない。
 両国高校へやって東大に行かせるんだ」

って。いや、これは頭がいいんだなと思ったね。

でも私はそこで諦めなかった。
人生には「もし」ということがある。
もし落っこちた時はどうすんだ、と。

そこで近所の知り合いのオヤジに

「もしあそこの家の子が受験に落ちた時には、
 俺のところへ知らせてくれ」
 
 
と頼んでおいた。そしたら結果的に志望校を落ちて、
早実へ入ることになったんだな。

しかし、それにしてもあの時、
左で打てと言われて

「はい」

って答えた素直さね。

これが王の一番のいいところであって、
それが今日の成功をもたらしたんだよ。
この「はい」が。

だから私はいつも

「習い方がうまい人とは、習う素直さがある人だ」

と言うんだよ。これがもう第一条件なんだよね。
王はその後も、私に口答えしたことは一回もない。

復活!酔仙さん

月曜日, 11月 21st, 2011

今朝の道新。

出ていました、酔仙さん復活の記事が!素晴らしい!!

何時か、陸前高田で仕込が始まる夢を描いて。

『陸前』の最後の1本、「無限心庵」に捧げています・・・・。

http://www.mahoroba-jp.net/blog/2011/03/post_904.htmlhttp://mahoroba-jp.net/blog/mt.cgi

http://www.mahoroba-jp.net/blog/2011/04/post_968.html

彗星探検家・木内さんが・・・・

月曜日, 11月 21st, 2011

先日13日、長野の佐久から彗星探検家の木内鶴彦さんが来店された。

その日、市内で講演があるために、西谷医師が連れて来られたのだ。

若い頃、「死亡体験」をして宇宙の初めと終わりを観て来たと言う。

実際、ご自分の名を冠した彗星発見するなど、れっきとした科学者である。

お話しも浮ついた感じではなく、天文学的な見地や数字が出て来て説得性がある。

地球の初めの水『太古の水』を作られ、実際病院などで治療に使われているらしい。

目指すものが同じなので、肝胆相照らすというか、非常に話しが通じ易い。

また、『無限心庵』には大変興味を示され、面白い、面白いと語っていた。

何れまた、ゆっくりお話ししたいと思う。

(エリクサー水を美味しい!と飲まれた)

「英霊たちへ捧げる写真」

月曜日, 11月 21st, 2011

       
                   
                         

 

 

 

 

坪本 公一 (水中写真家)

        
    『致知』2006年9月号
         致知随想より

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 太平洋海底に眠る英霊の慰霊と沈没艦船の撮影を続けて三十余年。
 写真店経営で得た利益や本の印税をすべて注ぎ込み、
 切ったシャッターの数は四万回を超える。

 遺族でもない、軍隊経験もないおまえが
 私財を擲ってなぜそんなことをする、と誰もが訝しがる。
 自分自身にもはっきりした答えはない。

 ただ、私の活動をテレビなどで知った遺族の方が
 訪ねてこられたり、弟を亡くされた老人が
 「とにかく一緒に行ってほしい」と
 新聞を握り締めたまま飛んでくるのを見れば、
 どうしても放ってはいられなくなる。
 
 詰まるところそれは「自分が日本人であるから」
 とでも言えるのかもしれない。

 太平洋戦争の激戦地となった海底に、
 いまだ百万柱以上の遺骨が放置されている
 現状を知る日本人はほとんどいない。
 かつてはこの私もそうだった。

 沈没船の存在を知ったのは、昭和四十八年。
 ミクロネシアのトラック諸島で
 仲間とダイビングをしていたところ、
 海底に傷ついた船体と散乱した遺骨を発見した。
 
 帰国してからもずっとそのことが気にかかり、
 翌年撮影に行く準備をしていると、
 噂を聞きつけたテレビ局から番組出演の依頼があった。
 
 当初、私の目的は沈没船の撮影にあったが、
 共演していた薬師寺管長の高田好胤さんが突然、
 
 「坪本さんたちが今度、トラック諸島で水中慰霊祭をやる。
  故人をしのぶ酒や果物、戒名を書いたハガキ、
  なんでもいいから送ってください。現地で供養してきます」
  
 と茶の間に呼びかけたのである。
 
 番組には、全国から千通にも及ぶハガキと
 山のような供え物が届けられた。

 そして放映当日。
 テレビ局には番組が終わらないうちから
 「よくぞやってくれた」という反響が続々と寄せられ、
 自宅の電話もまる二日間鳴りっぱなしの状態。
 
 それが一段落すると、今度は手紙やハガキが
 嵐のように舞い込んだ。
 
 とりわけ印象深かったのが、ある老女から届いた手紙である。
 「主人の慰霊にいつか行きたいと思っていたけれど、
  いままでずっと行けませんでした。
  きょう番組を見ていて、思わずブラウン管の前で
  両手を合わせていました」。

 最後には、娘さんの言葉がこう添えられてあった。
 
 「母をいつの日か父の終焉の地に連れていってあげたい。
  それが私に残された唯一の親孝行だと思います」。
  
  
  ――私が亡き人々の慰霊と、鎮魂を込めた撮影を
  生涯の仕事と決めたのはこの時だった。

 以来、パラオ諸島やフィリピンなど、
 七か国の海を百回以上訪れたが、特に衝撃的だったのは、
 特設巡洋艦「愛国丸」の遺骨収容作業に同行した時のことである。
 
 同艦は米軍の爆撃に遭って轟沈し、船上には
 千名近くが便乗していたとされる。

 私も命がけで水深七十メートルまで潜り、
 真っ暗な船内を強烈なライトで照らし出すと、
 あたりは骨、また骨。何十センチと積もるヘドロに散乱した
 肋骨や大腿骨、こちらをギロッと睨むような頭蓋骨……。
 
 しかし、怖いという気持ちは不思議となく、
 私はとにかくこれを国民に知らせたい一心で、
 一秒でも長くフィルムを回そうと感じていた。

 一か月間をかけ、引き揚げた遺骨の数、三百五十体。
 甲板で遺骨を洗い流すとヘドロやサビが血のように流れ出て、
 青々とした海に赤茶けた帯がかかった。

 なお水中慰霊の際には、組み立て式の祭壇を海中に持ち込み、
 供え物をして両手を合わせる。
 同行した遺族は船上から花束を投げたり、
 酒を注いだりして慰霊を行うのだが、
 愛国丸の時には、父の顔も知らずに育ったという遺児の姿があった。
 
 慰霊が終わると、彼はズボンを下ろし、
 海パン一丁になったかと思うと、看板の縁に駆け寄って
 「お父さーん!」と叫びながら
 海の中に飛び込んでいった。
 
 しばらく周辺を泳いで戻ってきた若者は
 
 「親父と同じ海水を飲んできた。
  これで自分も同じ気持ちになれた」
  
 と言って胸の支えが下りたような顔をしていた。
 
 終戦五十年の年には、パラオ諸島で給油艦「石廊」の
 水中慰霊を七十歳の方と行い、全国で放映された。
 
 それを見ていたのが当時、七十七歳だったある老人。
 彼はその日からずっと日本海で泳ぎの練習を続けたという。

 沈没から六十年を迎えた一昨年、八十六歳になっていた彼に、
 水中慰霊祭をやるから来るかと尋ねたら、
 即座に「行く」という答えが返ってきた。

 二人で現地へ向かい「ここ(船上)から花束を投げるか」
 と言ったが、彼は
 
 「いや、潜ってやらせてくれ。死んでも俺はやる」
 
 と言う。結局水深二十五メートルまで潜り
 二人で慰霊を行った。

 船が沈没した当時、老人は部下二十人を率いる
 上等機関兵だったという。
 
 自分だけが偶然、機関室を離れていたところへ直撃弾が落ち、
 そこで部下全員の命を失った。
 
 六十年もの間、部下たちを思い続けてきた老人の気持ちは、
 一体いかほどのものであっただろう。

 戦後六十一年目を迎えた今年。
 毎年夏になると行われる慰霊も、
 メインとなるのは陸上ばかりで、
 水中慰霊はほとんど話題にも上らない。
 
 戦争の傷跡が姿を消していきつつある現在、
 太平洋各地にいまも残る艦船は、沈没した当時のまま、
 英霊の遺骨とともに朽ち果てていく運命にある。

 しかし今日の日本を考える時、
 私はこの平和の礎となってくれた英霊たちの存在を
 思わずにはいられない。
 
 今年七十歳になる私だが、一人でも多くの方に
 沈没船と遺骨の存在を知ってもらい、
 二度とこのような惨劇を繰り返さぬよう、
 体力の続く限り活動を続けていくつもりだ。

地湧社社長ご夫妻ご来店

日曜日, 11月 20th, 2011

地湧社の増田社長ご夫妻と山本ご夫妻が、7,8年ぶりに来店された。

3年前、故福岡正信先生の葬儀にご一緒して以来である。

千葉に在住されて、あの3・11の日に即、九州に向けて一家が移動されたとか。

そして、とうとう最近、千歳に転居されたのだ。

その行動力には、驚くばかりだ。

あのシャリーマックレーンや福岡翁や斉藤晶さんなどを、世に出した。

増田社長が主催する「新月の木」のシンポが北海道で開かれる。

是非参加されんことを。

柚子の里から

土曜日, 11月 19th, 2011

宮城の北村さんからご案内が来ました。

あの柚子の里をご存知でしたか。

たくさん、素晴らしい柚子が届きましたね。

でも今回の震災と原発事故で、柚子は諦めたが、離農とその土地は諦めず、

覚悟を決めて、放射能とともに、地域に骨を埋めるつもりで生きようとされています。

先ずは、自分の立っているその場の現状を、現実を知るべく「放射能測定室」を立ち上げました。

ご興味のある方、そのお近くに住まわれている知人の方にお知らせ下さい。

再びと、あの柚子が食べられます事を。・・・・・・・・・・・・・

「歌に命を込めて 私は歌い続ける」

土曜日, 11月 19th, 2011

       
       
村上 彩子 (ソプラノ歌手)
        
 『致知』2011年12月号
連載「第一線で活躍する女性」より
       
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諦め切れずに受けた5回目の試験がダメだと分かった時には、
大泣きしながらとぼとぼ家に帰りました。
絶望し、もうこのまま死んでしまおうって。

何も口にしない日が何日か続いたある日のこと。
ふと以前テレビで観た戦没画学生の絵画などが飾られている
無言館のことが頭に浮かんできました。

その瞬間、何かに突き動かされるように、
私は取るものも取りあえず
一路無言館のある長野へと向かったのです。

館内に飾られた画を一枚一枚眺めているうちに、
こんなにも才能ある学生たちが戦争で散っていったのかと、
大きなショックを受けました。

そのうちに、今度はどこからともなく
悲痛な叫びが聞こえてきたんです。

「本当は生きたかった」と。

そして「おまえは生きていくことができるんだぞ」って。

私、頭をガツンと殴られた感じがして、その場に泣き崩れました。

こんなにも才能溢れる方々が無念のうちに亡くなられた。
それに引き換え自分はたった五回の受験に
失敗したくらいで死のうとしたことが、
とてもおこがましくて恥ずかしく思いました。

翌年一次試験を突破し、七回目にして晴れて合格しました。
実はこの間、心のうちに大きな変化がありました。
無言館から帰ってからバイト先を一新し、
明るい自分を演じ始めました。

大学に入ったらオペラを勉強したかったので、
なんの希望がなくても演じてみようと心に決めたのです。
そうしたら自然と仕事が楽しくなって
一所懸命頑張るようになりました。

すると今度は周りの人に感謝されるようになって、
応援してくださる方まで出てきたんです。

私はそれまでずっと親を憎むことを
生きる唯一のエネルギーにしていました。
それがこの時、心の中に初めて
人に感謝するという心が芽生えて、
それが私に力を与えてくれました。

親を恨んだり、周りの裕福な受験生を憎む心が
知らず知らずに私が奏でる音楽に乗り移っていたのだと思います。
このことを私に気づかせるために、
こんなにも長い期間が必要だったのかと
納得がいったら元気が漲ってきましてね。
最後の一年は何の迷いもなく勉強に打ち込むことができました。

明日はいよいよ・・・・

金曜日, 11月 18th, 2011

大井わかこ

明日はいよいよアシリレラ母ちゃんのユーカラ&お話会です!

10月には盛岡と札幌で、9月にはノッカマップ慰霊祭の道中のバスの中でレラ母ちゃんのユーカラや民話を聞きました。

知里真志保さんでおなじみの「金の雫・銀の雫」のお話や、黄泉の世界のお話、人間と神様のお話や動物たちの話などから、笑いと学びと癒しが広がります。慰霊祭の道中バスでは、夫婦の痴話喧嘩が始まるやいなやスカさず愚か者の寓話で皆を笑いの渦に引き込み、ケンカも雲散霧消(^^)

語りの合間の歌では、ジャンベにあわせてちびっ子が飛び跳ね踊りだしたり(^^)♪

聖地である二風谷を、川を、魚を、森を、暮らしの基盤である地域そのものを皆が大切にする事を言い続け、その中で生き生きと暮らし、生きる術を惜しみなく分け与えてきたレラさん。

多くの養子や数えきれない訪問者、滞在者に語り、伝え、見せ、共に行動し、また彼女自身が多くの先達者から学んできたその分厚い叡智に直に触れてください。

より良く、たくましく、明るく生きるヒントがそこかしこに煌めいていることでしょう。

会場にお集まりの方にあわせてレラさんの引出し。どんな物語やトークになるのか、今からワクワクしています(^^)

11月19日(土) 
昼1:00~、夜6:30~ 各回約2時間
自然食品の店 まほろば本店  
?2500円+まほろばでのお買い物
   
札幌市西区西野5条3丁目1-1
地下鉄「発寒南」 からJRバス41・42番、手稲東小学校前下車、進行方向に徒歩2分
www.mahoroba-jp.net
『まほろば本店』 tel 011 – 665 – 6624

11月20日(日)
13:00~約2時間
cafe&雑貨 結
?3000円(1ドリンク付き)

札幌市豊平区中ノ島2条7丁目2-7レッドハウス1階
地下鉄「南平岸」から白石藻岩通りを豊平川方向に徒歩15分
(駐車場に限りがある為なるべく公共交通機関をご利用ください)
http://a-hokkaido-tohoku.jp/shops/37150

ご予約・お問合せ 
amo 大井わかこ amo.motherwing@gmail.com / 090-9750-3000

エゾシカ被害!

木曜日, 11月 17th, 2011

エゾシカ:道が調査 捕獲など、頭数管理に反映 農林業被害、年50億円超 /北海道

 エゾシカの生息状況を調べる道の「エゾシカライトセンサス」が今月、実施されている。道によると、農林業被害は年50億円を超え、近年の生息数は約65万頭と増え過ぎに頭を痛めており、調査結果は捕獲などの頭数管理に生かす。

 調査は92年に道東61市町村で始まり、道が毎年、地元猟友会などと実施している。森林や牧草地などの同一ルートを夜間、車で走りながら周囲をライトで照らし、数や性別を確認して個体数の変動を調べている。今年度は175市町村207カ所で今月3~31日の予定で実施している。

 モデル調査地域7カ所の一つ・白糠町では12日夜から連続3日間行われた。初日の確認数は08年以降では最少の86頭で、ドングリが豊作でシカが森から出て来なかった昨年と比較しても頭数が減った。道立総合研究機構環境科学研究センターの稲富佳洋研究員は「調査地の全体の結果を見ないと分からないが、捕獲による効果が出てきている可能性もある」との見方を示した。【山田泰雄】

自然医学12’『如皋特集』

木曜日, 11月 17th, 2011

今日、「森下自然医学」12月号が届きました。

今回の特集は『如皋論壇と長寿郷調査レポート(前篇)』。

美土里舎・小池社長のレポートが、調査内容を詳細に報告しています。

如皋のみなさんが、博士の到来をどれほど渇望されていたか、

訪問した者として、肌に感じた歓迎振りは度肝を抜くほどのものでした。

それが伝わってか、先日北京で世界第6番目の長寿郷として認定式がありました。

真の日中友好が築かれん事を祈ります。

今回の「北の空から」は、今回の特集に因んで『如皋同行随問記』と題して、

私なりの現地報告をさせてもらいました。

他の長寿郷と著しく異なっていたのは、産業都市であることです。

そして、世界四大文明の発祥の地であり、日本人の故郷でもあったことです。

詳しいことは、是非手にとってお読み下さい。