まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「勝利の神様に好かれる法則」

金曜日, 1月 31st, 2014

谷川浩司(日本将棋連盟会長)

※『致知』2014年2月号
特集「一意専心」より

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いろんな体験を通じて実感するのは、
勝負で一番大切なのは、
優勢の時に焦らないということ、
劣勢の時に諦めないことだと思います。

優勢の時は早く勝って楽になりたいし、
劣勢の時もやっぱり負けて早く楽になりたい
という気持ちというのがあります。

けれども負け将棋の時でも、
あるいは辛い時期でも
とにかく自分の最善を尽くしていくこと。

その積み重ねがやっぱり長い目で見ると
大きな差になって表れてくると思います。

また、運というのも
勝負と深く関わっていると思いますね。

私は、一人ひとりが持っている
運の量っていうのは平等だと思うんです。

そして、運が悪い人というのは、
つまらないところで使っているんじゃないかと思うんです。

将棋の棋士を見ていると、
例えばトップクラスの棋士が
やっぱり一番将棋に対する愛情、敬意を
持って接していますね。

対局前の一礼にしても、
羽生さんをはじめとするトップの人ほど
深々と礼をするんです。
その姿勢は相手が先輩でも後輩でも変わらない。

そして対局後に「負けました」と言うのは
一番辛いですけれども、
それもやっぱり強い人ほどハッキリ言うんですね。

それから、棋士の中には対局開始前
ギリギリにやってくる人もいます。

さすがにトップ棋士は
対局の10分、15分前には
ちゃんと対局室に入るけれども、
そういう心掛けのできていない人は、
電車が遅れたりしたら大変です。

なんとか対局に間に合ったとしても、
その人はそこで運を使い果たしていると思うんです。

将棋も囲碁も先を読みますが、
どんなに頑張っても
どこか読み切れない部分があります。

そういう最後の最後、
一番大事なところで
運が残っているかどうかというのが
非常に大事だと思うんです。

ですからどんな対局であっても、
与えられた条件で最善を尽くして
運を味方につけることが大事です。

対局の持ち時間を残して
勝負をあっさり諦めるような人は、
やっぱり成績も振るわないし、
最後の最後の大事な場面で
勝ちを逃すことが多いような気がします。

私は最近「心想事成」という言葉が好きで
よく揮毫させていただくんです。

心に想うことは成るという意味ですが、
そのためには平素からどれだけ本気で
勝負に打ち込んできたかということが
大切だと思います。

真剣に、本気で打ち込んできた時間が長く、
思いが強い人ほどよい結果を得ることができるし、
そのための運も呼び寄せられるのではないでしょうか。

勝負の神様はそういうところをきちんと見ておられるし、
それはその対局の時だけでなく、
普段の生活すべてを見ておられると思うんです。

もちろん人間ですから
一日中将棋のことを
考えているわけにはいきませんが、
体の中心に将棋というものが
軸としてあるか、
そこが問われると思います。

* * *

その他、

・最年少名人への道のり

・大事なことは「負けをどう生かすか」

・逆境の乗り越え方

・見えない力をどう呼び込むか

・頂を目指すことで見えてくるもの

続きはぜひ『致知』2月号P8~P17をご一読ください。

 

「祝婚歌」

金曜日, 1月 31st, 2014
今月詩人の吉野弘さんがお亡くなりになった。
結婚式で、よく披露されていた『祝婚歌』が、今再び注目されている。
私も、30年以上過ぎてしまうと、諦めと悟り(?)で、
互いに、馬鹿になって、ハッハと笑っているのが、
一番良いってことに気付いて、
なるほど、なるほど!とうなづくのだ。
昨晩も、セネガルの踊りを見て、
私も真似て、馬鹿踊りをして、腰を痛めて、
妻にも子供にも笑われて、アホな自分がいて、
そのまま寝てしまった。

「祝婚歌」

               吉野 弘

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二人が睦まじくいるためには

愚かであるほうがいい

 

立派すぎないほうがいい

立派すぎることは

長持ちしないことだと

気付いているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい

完璧なんて不自然なことだと

うそぶいているほうがいい

 

二人のうちどちらかが

ふざけているほうがいい

ずっこけているほうがいい

 

互いに非難することがあっても

非難できる資格が自分にあったかどうか

あとで 疑わしくなるほうがいい

 

正しいことを言うときは

少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと

気付いているほうがいい

 

 

立派でありたいとか

正しくありたいとかいう

無理な緊張には 色目を使わず

ゆったりゆたかに

光を浴びているほうがいい

 

健康で風に吹かれながら

生きていることのなつかしさに

ふと胸が熱くなる

そんな日があってもいい

 

そして なぜ胸が熱くなるのか

黙っていても

二人にはわかるのであってほしい

 

 

●吉野弘全詩集 栞 「祝婚歌」 茨木のり子
吉野さんの「祝婚歌」という詩を読んだときいっぺんに好きになってしまった。
この詩に初めて触れたのは、谷川俊太郎編『祝婚歌』というアンソロジーによってである。どうも詩集で読んだ記憶がないので、吉野さんと電話で話したとき、質問すると、 「あ、あれはね『風が吹くと』という詩集に入っています。あんまりたあいない詩集だから、実は誰にも送らなかったの」  ということで、やっと頷けた  その後、一九八一年版全詩集が出版され、作者が他愛ないという詩集『風が吹くと』も、その中に入っていて全篇読むことが出来た。  若い人向けに編んだという、この詩集が良くて、「譲る」「船は魚になりたがる」「滝」「祝婚歌」など、忘れがたい。  作者と、読者の、感覚のズレというものがおもしろかった。  自分が駄目だと思っていたものが、意外に人々に愛されてしまう、というのはよくあることだ。  また、私がそうだから大きなことは言えないが、吉野さんの詩は、どうかすると理に落ちてしまうことがある。それから一篇の詩に全宇宙を封じこめようとする志向があって、推敲に推敲を重ねる。  櫂のグループで連詩の試みをした時、もっとも長考型は吉野さんだった記憶がある。  その誠実な人柄と無縁ではないのだが、詩に成った場合、それらはかえってマイナス要因として働き、一寸息苦しいという読後感が残ることがある。  作者が駄目だと判定した詩集『風が吹くと』は、そんな肩の力が抜けていて、ふわりとした軽みがあり、やさしさ、意味の深さ、言葉の清潔さ、それら吉野さんの詩質の持つ美点が、自然に流れ出ている。  とりわけ「祝婚歌」がいい。  電話でのおしゃべりの時、聞いたところによると、酒田で姪御さんが結婚なさる時、出席できなかった叔父として、実際にお祝いに贈られた詩であるという。  その日の列席者に大きな感銘を与えたらしく、そのなかの誰かが合唱曲に作ってしまったり、またラジオでも朗読されたらしくて、活字になる前に、口コミで人々の間に拡まっていったらしい。  おかしかったのは、離婚調停にたずさわる女性弁護士が、この詩を愛し、最終チェックとして両人に見せ翻意を促すのに使っているという話だった。翻然悟るところがあれば、詩もまた現実的効用を持つわけなのだが。  若い二人へのはなむけとして書かれたのに、確かに銀婚歌としてもふさわしいものである。  最近は銀婚式近くなって別れる夫婦が多く、二十五年も一緒に暮らしながら結局、転覆となるのは、はたから見ると残念だし、片方か或いは両方の我が強すぎて、じぶんの正当性ばかりを主張し、共にオールを握る気持も失せ、〈この船、放棄〉となるようである。  すんなり書かれているようにみえる「祝婚歌」も、その底には吉野家の歴史や、夫婦喧嘩の堆積が隠されている。  吉野さんが柏崎から上京したての、まだ若かった頃、櫂の会で、はなばなしい夫婦喧嘩の顛末を語って聞かせてくれたことがある。  ふだんは割にきちんと定時に帰宅する吉野さんが、仕事の打合せの後、あるいは友人との痛飲で二次会、三次会となり、いい調子、深夜すぎに帰館となることがある。  奥さんは上京したてで、東京に慣れず、もしや交通事故では? 意識不明で連絡もできないのでは? 待つ身のつらさで悪いことばかりを想像する。  東京が得体のしれない大海に思われ、もしもの時はいったいどうやって探したらいいのだろう? 不安が不安を呼び、心臓がだんだん乱れ打ち。  そこへふらりと夫が帰宅。奥さんはほっと安堵した喜びが、かえって逆にきつい言葉になって、対象に発射される。こういう心理はよくわかる。なぜなら私もこれに類した夫婦喧嘩をよくやったのだから。  今から二年ほど前、吉野さんは池袋駅のフォームで俄かに昏倒、下顎骨を強く打ち、大怪我された。歯もやられ、恢復までにかなりの歳月を要した。どうなることかと心配したが、その時、私の脳裡を去来したのは、若き日の吉野夫人の心配症で、あれはあながち杞憂でもなかったということだった。 「電話一本かけて下されば、こんなに心配はしないのに」  ところが、一々動静を自宅に連絡するなんてめんどうくさく、また男の沽券にかかわるという世代に吉野さんは属している。売りことばに買いことば。  吉野さんはカッ!となり、押入れからトランクを引っぱり出して、「お前なんか、酒田へ帰れ!」  と叫ぶ。 「ええ、帰ります!」  吉野夫人はトランクに物を詰めはじめる。 「まあ、まあ、」  と、そこへ割って入って、なだめるのが、同居していた吉野さんの父君で、それでなんとか事なきを得る。  これではまるで私がその場に居合わせたかのようだが、これは完全な再話である。長身の吉野さんが身ぶりをまじえての仕方噺(しかたばなし)で語ってくれたのが印象深く焼きついているから、細部においても、さほど間違っていない筈だ。  二、三度聞いた覚えがあるので、トランクを引っぱり出すというのは、吉野家におけるかなりパターン化した喧嘩作法であるらしかった。留めに入る父君の所作も、だんだんに歌舞伎ふう様式美に高められていったのではなかったか?  酒豪と言っていいほどお酒に強く、いくら呑んでも乱れず、ふだんはきわめて感情の抑制のよくきいた紳士である彼が、家ではかなりいばっちゃうのね、と意外でもあり、不思議なリアリティもあり、感情むきだしで妻に対するなかに、かえって伴侶への深い信頼を感じさせられもした。  いつか吉野夫人が語ってくれたことがある。 「外で厭なことがあると、それを全部ビニール袋に入れて紐でくくり、家まで持って帰ってから、バァッとぶちまけるみたい」  ビニール袋のたとえが主婦ならではで、おもしろかった。  更にさかのぼると、吉野御夫妻は、酒田での帝国石油勤務時代、同じ職場で知り合った恋愛結婚である。  その頃、吉野さんはまだ結核が完全に癒えてはいず、胸郭成形手術の跡をかばってか、一寸肩をすぼめるように歩いていた。当然、花婿の健康が問題となる筈だが、夫人の母上はそんなことはものともせず、快く許した。  御自分の夫が、健康そのものだったのに、突然脳溢血で、若くして逝かれ、健康と言い不健康と言ったところで所詮、大同小異であるという達観を持っていらしたこと、それ以上に吉野弘という男性を見抜き、この人になら……と思われたのではないだろうか。 「女房の母親には、終生恩義を感じる」  と、いつかバスの中でしみじみ述懐されたことがあるが、それは言わず語らず母上にも通じていたのだろう。 「おまえはきついけれど、弘さんはやさしい」  と、自分の娘に言い言いされたそうである。  新婚時代は勤務から帰宅すると、すぐ安静、横になるという生活。  長女の奈々子ちゃんが生まれた時、すぐ酒田から手紙が届き、ちょうどその頃、櫂という私たちの同人詩誌が発刊されたのだが、「赤んぼうははじめうぶ声をあげずに心配しましたが、医師が足を持って逆さに振るとオギャアと泣きました。子供、かわいいものです」  と書かれていた。私の感覚では、それはつい昨日のことのように思われるのだが、その奈々子ちゃんも、もう三十歳を超えられ、子供も出来、吉野さんは否も応もなく今や祖父。 「祝婚歌」を読んだとき、これらのことが私のなかでこもごも立ち上がったのも無理はない。幾多の葛藤を経て、自分自身に言いきかせるような静かな呟き、それがすぐれた表現を得て、ひとびとの胸に伝達され、沁み通っていったのである。  リルケならずとも「詩は経験」と言いたくなる。そして彼が、この詩を一番捧げたかったは、きみ子夫人に対してではなかったろうか。・・・・・・・・・・・・

「グリーンファーザー・杉山龍丸の生涯」

火曜日, 1月 21st, 2014

杉山満丸(九州産業高校教諭)

※『致知』2014年2月号
特集「一意専心」より

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父・龍丸が初めてインドを訪れたのは
昭和37年、43歳の時でした。

数か月にわたりインド国内の現状を
つぶさに見て歩きました。

同年12月、パンジャップ州の
総督と面会した際、

「インドの生活を豊かにするためには
どうしたらいいか」

という質問に対し、龍丸は

「木を植えることです」

と答えます。

当時、インドは食糧不足で、
街には物乞いの人が溢れ、
餓死者も後を絶たない状況だったのです。

原因はインドの砂漠化でした。
インドは古代より森の木を切り倒し
文明を開いてきたため、
土地がやせ、大地の水がなくなり、
地面が乾燥し、不毛の地となってしまっていたのです。

龍丸はパンジャップ州の植林事業の指導を
引き受けることになりました。

周辺の地形を調べると、
首都デリーからアムリッツァル市までの
約470kmの国際道路は
北側のヒマラヤ山脈と並行していることに気づきます。

この道路に沿って木を植えていけば
根が地下に壁のようなものをつくり、
そこにヒマラヤに降った雨を溜めることができ、
大地に水分が蓄えられ、
穀物や野菜を育てることができると考えたのです。

植えるのはユーカリにしました。
根が深く伸び、生命力も強く、何より成長が早い。
さらに成長すればパルプや建築資材として
売れることも魅力でした。

それから間もなくのことです。
龍丸の下にインドで大飢饉が発生した
との連絡が入ります。
この飢饉は3年にもおよび、
実に500万人もの餓死者が出ました。

「この飢饉を救う方法を教えてください」

インドにいるガンジー翁の弟子たちからの懇願に、
龍丸は黙っていられませんでした。

活動資金をつくるため、
父の茂丸、祖父の久作から譲り受けた
4万坪の杉山農園の土地を切り売りすることに、
なんの躊躇もありませんでした。

再びインドへ渡った龍丸は、
何百、何千という餓死者の亡骸と、
生きるために物乞いする子供たちを目の当たりにし、

「この地獄から一刻も早く
人々を救わなければならない」

と、改めて一刻も早く木を植え、
森をつくることを誓ったのでした。

ユーカリの植林事業はデリーからアムリッツァルまでの
470kmの国際道路沿線両側に、
2本ずつ、4m間隔で植えることにしましたが、
当然現地の人たちの協力が必要になります。

最初は突然やってきた日本人の申し出に
訝る人たちも多かったことでしょう。

しかし、龍丸の説得により
地域の農民たちを巻き込んでの
植林事業はスタートしました。

「タツマルは私たちの心と話した」

とは、一緒に木を植えた方からの言葉ですが、
私心のない龍丸の情熱が言葉の壁を超え、
彼らに伝わったのでしょう。

そうして、7年の歳月をかけて
470kmものユーカリの並木が完成し、
その周辺の土地は水分を含んだ土壌に
代わっていきました。

しかし、本当の挑戦はこれからです。

* * *

この後、龍丸が成した2つの奇跡とは。
彼の人生からいま私たちが学ぶべきこととは何か――。

続きはぜひ『致知』2月号P34~P37をご一読ください。

「極限を生き抜く心の持ち方」

土曜日, 1月 18th, 2014

小野田寛郎(元陸軍少尉)

※『致知』2008年7月号
特集「不撓不屈」より

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・・・・ご冥福を祈ります。ありがとうございました。・・・・・・

30年間で発熱は2回でした。
それは仲間が負傷して、
介護疲れでちょっと出しただけです。

熱が出たところで、
医者も薬もないですから、
まずは健康でいることが大事です。

そして健康でいるには
頭をよく働かせなければダメです。

自分の頭で自分の体をコントロールする。
健康でないと思考さえ狂って、
消極的になったりします。

島を歩いていると、
何年も前の遺体に会うこともあるんです。

それを埋めながら、

「早く死んだほうが楽ですね」

と仲間に言われ、
本当にそうだなと思ったこともあります。

獣のような生活をして、
あと何年したらケリがつくか保証もないですし、
肉体的にもそういつまでも
戦い続けるわけにもいかない。

いずれはこの島で死ななきゃいけないと
覚悟しているので、
ついつい目の前のことに振り回され、

「それなら早く死んだほうが……」

と思ってしまう。

結局頭が働かなくなると、
目標とか目的意識が希薄になるんです。

――しかし、最終的にはそのお仲間にも
先立たれお一人になられましたよね。
たった一人の戦いはまた別のつらさがあったでしょう。

よく孤独感はなかったかと聞かれましたが、
僕は孤独なんていうことはないと思っていました。

22歳で島に入りましたが、
持っている知識がそもそも
いろいろな人から授かったものです。

すでに大きな恩恵があって
生きているのだから、
決して一人で生きているわけではないのです。

一人になったからといって
昔を懐かしんでは、
かえって気がめいるだけですから、
一人の利点、それを考えればいいんです。

一人のほうがこういう利点があるんだと、
それをフルに発揮するように考えていれば、
昔を懐かしんでいる暇もなかったです。

(中略)

自然塾の敷地には
「不撓不屈」と書かれた石碑があります。

僕は日本の子どもたちには、
一度目標を持ってことに立ち向かったら、
簡単に諦めない、執念深く、
しぶとく、くじけずに頑張ってほしい。

そして誇りを持って、
優しい日本人であってほしい。

その願いを込めて、
不撓不屈の文字を刻みました。

それは僕自身が貫いてきた人生の信条であり、
座右の銘でもあります。

 

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「点々あい連ねて線をなす」

日曜日, 1月 5th, 2014

伊與田覺(論語普及会学監)

※『致知』2014年2月号
連載「巻頭の言葉」より

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私が若い時分に懇意にしていただき、
感化を受けた恩人の一人に、
蓮沼門三という方がいらっしゃいました。

蓮沼先生は、
日本の社会教育団体の草分けともいえる
「修養団」の創設者として
つとに知られた方ですが、

食事を共にする機会がある時などにしばしば、
「物事を完成するには、こういうことが大切なんだよ」と
説き聞かせてくださった訓戒が、
いまでも大変印象に残っています。

点々あい連ねて線をなす。
線々あい並べて面をなす。
面々あい重ねて体をなす

点と点を連ねて一本の線をつくる。
その線を並べていくと面になる。
その面を重ねていくと一つの体になる。

自らの目標に到達しようと思えば、
このような生き方を貫いていくことが重要なのです。

『中庸』という古典には、
この訓戒に通ずる教えが
次のような言葉で表現されています。

「至誠は息む無し。
息まざれば則ち久し。
久しければ則ち徴あり」

至誠(誠実)というものは、本気である。
茶気(遊び心)ではない。
内から湧き出て止まる時がない。

休まずずっと続けていると、
それまで見えなかったものが見えるようになる。
「徴」とは印、兆しのことです。

誠実に、久しく物を続けることは、
物事を完成する上で不可欠な姿勢なのです。

* * *

その他、
経営の神様と謳われた松下幸之助翁が
語った「大事を成すための秘訣」とは。

「人生は一に努力、二に努力、三に努力、全部努力」

日曜日, 1月 5th, 2014

福島孝徳(デューク大学教授)

※『致知』2014年2月号
特集「一意専心」より

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※対談のお相手は、福島氏の盟友であり、
世界最先端の医療機器を導入し、
福島・宮城・青森・東京・神奈川を基盤に
16もの病院を経営する
南東北グループ総長・渡邉一夫氏です。

福島 私は若い時からとにかく、
日本一、世界一になりたかった。

そのためには普通のことをやっていたらダメなんで、
「人の二倍働く」「人の三倍努力する」
という方針でやってきました。
普通の人が寝ている間、休んでいる間に差をつけると。

そういう姿勢で若い頃から腕を磨いてきたんですけど、
いま71歳になってみると、人生は短い。
私に残された時間はもう少ない。
だから、一刻も無駄にできないんです。

渡邉 いまは年間どのくらい手術をされているんですか?

福島 600回ですね。
一番の盛りは三井記念病院にいた43歳の時で、
900回はやっていました。

私は人間の年齢には暦の上の年齢と、
生理学的な年齢の二つがあると思っているんです。

私が本当に感心するのは、
経団連の会長をされていた土光敏夫さん。
80を過ぎても矍鑠(かくしゃく)としていましたよね。
素晴らしい人でした。

で、いま世界でも、
例えばモスクワの国立ブルデンコ脳神経センター
というところは脳外科だけで2000床もあるんですが、
ここの総帥がコノバロフという人で
83歳のいまも毎日手術をしている。

渡邉 ああ、そうでしたか。それは凄い。

福島 それからローマ大学のカントーレという教授、
彼もいま83ですけど、手術をしています。

私自身、手術に関しては
いまだにマスターチャンピオンですよ。
目と手は全然若い人に負けない。
だからあと10年は大丈夫じゃないかなと思っています。

これにはやっぱり天性の才能が
少なからずあると思うんですけど、
それ以上に膨大な数をやっています。

だから、私はいつも言うんですけどね、
人生は一に努力、二に努力、三に努力、全部努力なんですよ。
他の人が信じられないような努力をして、経験を積む。

それから本当はいいコーチがいなきゃいけない。
オリンピック選手を見ていても、
皆が類い稀な技量を備えている中で
どこに差が生まれるか。
コーチですよ。

渡邉 なるほど。でも、福島先生にコーチはいないでしょう?

福島 いや、私は若い頃、ちょっと暇があれば、
世界中の名医を訪ねて回りましたから。

いまでもそうです。毎日勉強しています。
あの天才ミケランジェロが残した
有名な言葉が「ラーニングアゲイン」。
ルネサンス期に世界一の絵と彫刻を生み出していても、
いまだに日に日に勉強しています、と言った。

だから日に日に勉強して、日に日に努力して、
渡邉先生も同じだと思うんだけど、毎日仕事しています。
休んでいられないですよ。

私は土日と祭日も一切休まない。
夏休み、冬休み、一切取らない。
毎日働くのが趣味なんです。

* * *

福島氏はいかにして世界一のドクターとなったのか。
その不遇の修業時代とは。
大切にしている信条とは。

正月にはいづくにも・・・・・・・

日曜日, 1月 5th, 2014

正月にはいづくにも
つまらぬ遊事をするものに候間、
夫れよりは何か心得になるほんなりとも
読んでもらひ候へ

(お正月にはどこでも
つまらない遊びをするものである。
そんなことより何かためになる本でも
読んでもらいなさい)

――吉田松陰(幕末の志士)

※『吉田松陰一日一言』
1月3日の言葉より
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本日お届けした吉田松陰の言葉は、
2歳年下の妹に宛てた手紙に
書かれていたものです。

特典書籍の1つである『吉田松陰一日一言』には、
明治維新の精神的指導者である
吉田松陰の遺した名言、箴言が366も
収録されています。
ここでは1つだけご紹介しましょう。

■2月19日

天道も君学も一の誠の字の外なし。
一に曰く実なり。
二に曰く一なり。
三に曰く久なり。
故に実と一とを作輟なく
幾久しく行ふこと、是れ久なり。

(世間一般の道も、君子たるの学問も、
たった一つ、誠の字のほかにはない。
一にいう、実際に役に立つことを行うことである。
二にいう、それだけを専一に行うことである。
三にいう、ずっと行うことである。
だから、実学を専一に、やったりやめたりすることなく
ずっと行うこと、これが久である)

想像する人間は絶えず危機の中に・・・・

日曜日, 1月 5th, 2014

新しい年を迎えるには、
新し心構えがなくてはならぬ。
決してただ漫然と迎えてはならぬ。

そしてその心構えには
年相応のものがなくてはならぬ。
50代には50代の心構え、
70代には70代の心構えが大切である。

還暦になったんだから、
古稀になったんだからという妥協は
自己を深淵に落ち込ませるだけである。

――坂村真民(仏教詩人)

※『坂村真民一日一言』
1月2日の言葉より

 

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「念ずれば花ひらく」や
「二度とない人生だから」の詩をはじめ、
数々の作品を世に送り出した97歳で亡くなられる直前まで
詩の創作に打ち込んでいたという坂村氏。

その人生の真理を紡ぐ言葉は
いまなお多くの人々を惹きつけてやみません。

「老人は早起きだというけど、
そんなの嘘ですよ。
私も本当は遅くまで寝ていたい。
しかし、私が遅くまで寝ていて、
どうして人々の心に光を灯す詩が書けますか。

想像する人間は絶えず危機の中に
身を置いていなければいけない」

「喜びの種をまく」

木曜日, 12月 26th, 2013

中條 孝徳(アサヒビール名誉顧問)

※『致知』2014年1月号
連載「巻頭の言葉」より

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筆者が中学生の頃、
菩提寺の和尚さんが
『易経』の「積善之家必有余慶」の
因果応報を分かりやすく、

「幸せになりたかったら
他人様にどんどん喜びの種をまきなさい」

と説いた。

ひどい貧乏で真面目な男が

「和尚さん、そうしたいが
お金が一文もありません」と。

これに答えて

「おまえさんの了見違い(考え違い)も甚だしい。
おまえさんには素晴らしい笑顔があるではないか」

と反論。

彼は一念発起、やがて上京し、
笑顔に徹して立派な商人になった。

筆者長じて学んでみれば
『雑宝藏経』に

「仏説きたもうに七種施あり。
財物を損せずして大果報を得ん」

とあるではないか。

1、眼施(げんせ)
――やさしいまなざし

昔から「目は口ほどに物を言う」
と言われてきた。

眼施一つで恋実り、
そのおかげで多くの若者が
幸せを掴んできた。

天下の切れ者、
石破茂自民党幹事長のまなざしは異様。
眼施に気づけば鬼に金棒、天下が取れる。

2、和顔悦色施(わがんえつじきせ)
――慈愛に溢れた笑顔で人に接する

道元禅師はやさしくほほえんで
赤ちゃんにかける言葉を「愛語」と称され、

「慈念衆生、猶如赤子のおもいをたくわえて
言語するは愛語なり。(中略)
怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、
愛語を根本とするなり。

むかいて愛語をきくは、
おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。
むかわずして愛語をきくは、
肝に銘じ、魂に銘ず。

しるべし、愛語は愛心よりおこる、
愛心は慈心を種子とせり。
愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、
ただ能を賞するのみにあらず」(『正法眼蔵』)

と説く。

安岡正篤師もまた
「斉家の箴」で五か条を挙げ、
最初に

和顔愛語を旨とし、
怒罵相辱かしむるをなさず」

と説く。

3、言辞施(げんじせ)
――言葉には廻天の力あり

『致知』の2002年9月号で紹介された

「ありがとうおかあさん
ありがとうおかあさん
おかあさんがいるかぎり
ぼくは生きていくのです
脳性マヒを生きていく

やさしさこそが大切で
悲しさこそが美しい
そんな人の生き方を
教えてくれたおかあさん
おかあさん
あなたがそこにいるかぎり」

の詩には、どれほど涙を流したか分からない。
脳性マヒの子供が
悲しみ悩む母親に「喜びの種」をまいたのだ。

今上陛下のご指南もされた碩学・小泉信三氏が、
戦死したご子息の信吉大尉へ宛てた
手紙の一節を紹介しよう。

「我々両親は、君に満足し、
君をわが子にすることを
何よりの誇りとしている。
僕は若し生まれ替わって妻を選べといわれたら、
幾度でも君のお母様を選ぶ。
同様に、若しもわが子を選ぶということが出来るものなら、
我々二人は必ず君を選ぶ」

それほどまでに自分を考えてくれる
両親の愛情を確と受け止め、
信吉大尉は前線に赴き、
お国のために散っていった。

* * *

残りの4つの教えとは何か。

続きはぜひ『致知』1月号P4をご一読ください。

「私たちは気づかぬうちに周囲を照らしている」

水曜日, 12月 25th, 2013

鈴木 秀子(文学博士)

※『致知』2014年1月号
連載「人生を照らす言葉」より

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『風立ちぬ』の主人公は、
大切な婚約者を結核で失い、
失意のどん底に落ち込みます。

そして、思い立ったように
婚約者と過ごした信州の別荘地を訪れ、
楽しかった思い出を探し求めるのです。

一人のドイツ人神父との偶然の出会いによって、
薄紙を剥ぐように心が軽くなっていく主人公ですが、
やはり時には、どこにもやり場のない感情が
湧き上がってくるのでした。

(中略)

失意の状態が続く中、
この別荘地にも
賑やかなクリスマスがやってきました。

しかし、主人公にはそれを楽しむ余裕がありません。
次の件からは、皆が笑顔で歓談する様子を、
一人陰鬱そうな表情で眺める姿が目に浮かんできます。

「夜、村の娘の家に招ばれて行つて、
寂しいクリスマスを送つた。
こんな冬は人けの絶えた山間の村だけれど、
夏なんぞ外人達が沢山はひり込んでくるやうな土地柄ゆゑ、
普通の村人の家でもそんな真似事をして楽しむものと見える」

主人公の心を変えるある小さな出来事が起きたのは、
まさにこのクリスマスの日でした。
ここはこの小説のとても大切な部分です。

「九時頃、私はその村から雪明りのした谷陰を
ひとりで帰つて来た。
さうして最後の枯木林に差しかかりながら、
私はふとその道傍に雪をかぶつて
一塊に塊つてゐる枯藪の上に、
何処からともなく、
小さな光が幽かにぽつんと落ちてゐるのに気がついた。

こんなところにこんな光が、
どうして射してゐるのだらうと訝りながら、
そのどつか別荘の散らばつた狭い谷ぢうを見まはして見ると、
明りのついてゐるのは、たつた一軒、
確かに私の小屋らしいのが、
ずつとその谷の上方に認められるきりだつた」

夏場、多くの外国人で賑わう別荘地も、
冬場はどこも閉じられていて夜は真っ暗です。

雪明かりを頼りに林の中を歩く主人公は、
ふとそこに小さな明かりが
射していることに気づきました。

その光のもとを辿っていくと、
紛れもなく谷の上方にある
主人公の小屋から漏れてくるものでした。

(中略)

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主人公はここで初めて、
周りにある多くの光が自分を照らし、助け、
生かし続けてくれていることに気づきます。

そして、取るに足らない
ちっぽけな存在だと思っていた自分が、
実は気がつかないうちに遠くの存在を照らし、
知らない誰かの助けになっていることを知るのです。

クリスマスは苦悩する人類を救うために
神様が遣わしたイエス・キリストが降誕した日です。
それは同時に、神様が新しい人類の希望と、
人間一人ひとりがかけがえのない存在であるという
メッセージを送られた日でもあります。

「自分は一人で生きてきたように
思ってきたけれども、
そうではない。
自分を生かしてくれる多くの光に
包まれていると同時に、
自分もまた周囲を照らしながら生きている」

という主人公の気づきは、
クリスマスの美しい雪景色とも重なり合いながら、
読む者の心に静かに染み入ってきます。

* * *

その後、主人公はいかにして絶望から立ち直り、
人生の幸福へと辿り着くのか。

続きはぜひ『致知』1月号P102~をご一読ください。

※まだ『致知』をお読みでない方は、
この新年号(1月号)からのスタートをお勧めします