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まほろばだより−折々の書−
 

 

 

(社長BLOG 1月6日初売り 参照)。
 

 

 

 

 

 


敦煌莫高窟9 窟中的吹笛天女。


今年の店開きは、雅楽の音と共にあった。
 その立ち上がる笙、その地鳴りの篳篥、そしてその中を泳ぐかのような竜笛。
 それぞれに、天と地と人の意を持つとされている。  
 敦煌の莫高窟に画かれている飛天天女の管弦の画がある。羽衣をつけて天空を自在に舞う姿はあでやかで美しい。
 そして身に添う様々な雅楽の古楽器。

 私がかつて読んだことのある仏教説話に、浄土極楽の美空を天楽を奏しながら舞う、その情景をそのまま地に映したのが今の雅楽である、と記されてあった。確かに笙も笛も琵琶も画かれて、その響きは天上のそれのようだ。

 

 

 

 
 古代のアジア大陸の中国、中央アジア、インド諸国の音楽の影響を受けて、ほぼ十世紀 (平安時代中期) に今の様式が完成されたといわれている。シルクロードの終点、奈良の正倉院には、今もなお当時を偲ばせる古楽器が遺されている。
 悠に千年以上の時の成熟を待って日本に伝わり、更に千年の時が止まったかのように、今に伝わる。この間、一部伝承が止む事があっても、新たに造られることは無かったという。そしてなお、中東各地には、それを偲ばせる伝統音楽が今に伝わって民間で演奏されている。  

 この止まった時間と、一方、進んだ時間。戦後、音楽というと西洋音楽、それもクラッシクをさして、世界はバッハから現代音楽に至るまで、巾を利かせていた。しかし、その歴史は十八世紀のバッハ以降二〜三百年ほどで意外と短い。その系譜も閉塞状態に陥り、現代音楽は一般市民の共有するものではなくなった。それは、たんに音楽のみならず、あらゆる思想・経済・文化がその弊に陥り、世界は混沌の中で喘いでる。  

正倉院 螺鈿紫檀五絃琵琶。

 

 

 

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach,( 1685〜1750)、18世紀に活動したドイツの作曲家、鍵盤楽器の名手として、西洋音楽史上においてもっとも偉大な一人重要な位置にある存在である。

 先日、第九の創作と演奏の顛末の様子を画いた『敬愛なるベートーヴェン』という映画を二度も鑑賞してしまった。  
 小さい頃より、音楽映画が大好きで、作曲家の創作の瞬間にたまらなく憧れていた。しかし、この個人の作家が出現する時代背景の近代史以降、世界が急速に激変し、闇に包まれていったことを知る。それは、バッハ・モーツアルト・ベートーヴェン以降、次第に音楽はその彩光を失っていったのと平行線を辿る。 苦悩する自己表現と自我の確立。これは、何千年も続く民俗音楽や、東洋音楽の発生には見られない現象でもあったのだ。  
 

 雅楽の響きと舞を観ていて、高校生当時読んだ作曲家武満徹氏の「音の河」という一文を思い出していた。  
 笙の音に、垂直に立ち上がる、今までとは別次元の音の世界を聞いた、というのだ。

 

 

 

 

 「……ふつう、音の振幅は横に流されやすいのですが、ここではそれが垂直に動いている。雅楽はいっさいの可測的な時間を阻み、定量的な試みのいっさいを拒んでいたのです。  
 これは何だろうか、これが日本なのだろうかと思いましたが、問題はヨーロッパの音楽からすればそれが雑音であるということです。雑音でなければ異質な主張です。そうだとすると、ぼくという日本人がつくる音楽は、これを異質な雑音からちょっとだけ解き放って、もっと異様であるはずの今日の世界性のなかに、ちょっとした音の生け花のように組み上げられるかどうかということなのです。


武満 徹 (1930〜1996)現代音楽の分野において世界的にその名を知られ、日本を代表する作曲家である。 写真:武満徹:雅楽〈秋庭歌〉発売元:ユニバーサルクラシック

 

 

 

 
 このとき、日本という文化があまり人称にこだわらないということがヒントになりました。そう、人称なんていらないのです。音が鳴るたびに「私は」「僕は」と言わないように音を並べたい。・・・・・・・どんな石にも樹にも、波にも草にも発音させたいのです。ぼくはそれを耳を澄まして聴きたいだけなのです。ぼくの音楽があるのではなく、音楽のようなぼくがそこにいれば、それでいいのです。・・・・・・ 」

 

 

 

 

西村虚空、熊本出身(1915〜 2002)普化宗谷派二世。長管の虚鐸で吹禅、海外にも弟子が多く居た。

 

 横軸に流れるというより、縦軸に天と直に繋がり交差している一音の中に、無限の音、ある意味、完結された「一音成仏」という世界があった。  
 それは筆の書き様が、天から地へ、地から天へ縦に運ばれるに似ている。  

 後の尺八曲も、「行雲流水」として行脚する修行僧が、生もうとして生まれたのではなく、思わずして生まれてきた虚空の音でもあった。それは悟りの流露であり、佛・菩薩のささやきでもあった。 それに共鳴した僧達が、吹き継ぎ、伝え継ぎして何百年の星霜を経て今日に至っている。  

 これら東洋の楽曲には、誰の作かは定かではない「無名の楽」が延々と引き継がれている。  

 そこには自己も自我も無い。 宇宙の音の河から切り取る。

 

 

 

 

 

 

 


 大我の音、無我の曲。  

 一つ一つの命が、永遠の命の河から一掬い、天の如来の御手から我ら一人一人の命を掬い上げられて、今の時の河に下ろされた。そして、その時の河も永遠の命に向って流れていた。それは、死ぬることも、生まれることもなく、滾滾と生きてゆく命の大河なのだ。  
 その初めも無く、終わりも無い音。それこそ、止まった時間がここにあった。  
 そして、それは単に止まったかのように見えて、実はダイナミックに躍動して、古今に流れ、万象に拡がる。  
 これは、自我の終焉であり、世界の闇に投げかける一条の光であるとさえ思った。  

 一音に全てを聴く。  

 このような東洋的諦観、その世界観が今の世を建て直すきっかけになるかもしれない。  

 

 
 

 

 

奈良「馬の目」懐石より。

 

 今、世界は日本食ブームで、その健康志向の原理が受け入れられている。人為を加えず、自然の素味を活かし、全体を一つと見せる懐石和食。それは、音楽的でさえある。  
 また、農業も化学農法の行き詰まりから、自然農法への回帰が世界で起こっている。
 

 

 

 

その立役者・福岡正信翁の「無為自然」の思想哲学に共鳴する青年達が世界から出現している。

「為さざるして成る」「自然の声に耳を傾けよ」と、迷妄の我々を喝破する。  
 それは、無音の中に実相を聞く、沈黙の中に世界を観るものだ。  

 私達は、自国の淵源に遡り、その固有の歴史文化の声に耳を澄ます必要があろう。眠れる東洋の叡智に目覚めて、世界に知らせる時が来ているのではなかろうか。
 
 雅楽の一音にそれを聴いた。

福岡正信(1913年)愛媛県伊予市に生まれる。自然農法を生み出し、日本よりも海外で実践している例が多い。マグサイサイ賞受賞(1988年)著書「わら一本の革命」「無」シリーズ他。写真:「わら一本の革命 総括編 −粘土団子の旅ー 福岡正信著 自然樹園発行より。

 

2007年1月12日記

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